第20話『身心脱落』

 打撃の歯切れが悪くなってきた。


 オーバーワーク気味だとは理解していたが、静川は動画で見た滝の強さに追い詰められていた。練習中のスタミナ切れが目立つようになり、その都度、南から注意を受けた。

 スパーリングでもらう野々見沢のジャブは、相変わらず容赦がない。


 吹き出るように流れていたはずの汗は、その勢いを失っていた。

 水は毎日リットル単位で補給しているのに、一日の終わり頃になると、きまって静川の肉体は絞り切った雑巾のようになる。皮も肉も、確かにそこにあるのだが、どれだけ動いてもそれ以上汗が出ない状態になってしまう。正常な栄養摂取、水分管理を行っていれば、当たり前に起こる生理的作用が起こらない。


 静川にはもう時間がなかった。

 それはボクサーとして刻一刻と迫りくる、終わりの予感に他ならなかった。


「やっぱり、まだ減量キツいんやな」

「仕方がない。この身長じゃ、な……」


 率直な南の指摘に、静川は諦めたように床を見た。


 百七十センチ半ばのバンタム級、そうはいない。ライトフライから三階級上げてもなお、静川の骨格は階級規格外なのだ。減量の過酷さは、実のところほとんど変わらなかった。


 あまりの苦痛に、静川は興味本位で調べてみたことがある。こんな条件で、バンタムを制した者がいたのかどうか。……確かに、いるにはいた。


 イギリス人ボクサーで、百七十五センチという身長でありながらWBAバンタム級のチャンピオンに輝き、王座を六回も防衛してみせた者がいる。彼は毎回試合のたびに、たった一日で10キロ以上の水抜き減量を敢行し、試合当日には、失われた体重のほとんどを回復させて会場に現れたというのだ。もちろん、常人なら確実にあの世行きである。


 驚異の減量で手に入れたフレームアドバンテージを武器に、彼は勝ち続けたが、二〇一八年、十年間無敗を誇った彼の王国は、わずか一〇八秒で陥落する。

 日本からやってきた一人の怪物ボクサーが、このチャンピオンのすべてを終わらせたのだ。もはや伝説である。


「減量なんて、ボクサーでいるかぎり仕方がない」


 言い切る静川の姿に、南は少しだけ寂しそうな顔をした。


 辛いことを乗り越えた人間には、報酬があってしかるべき。しかし、静川には喜ぶべきそれがない。試合の勝利も、受け取る金銭も、それまでの苦労に見合った幸せを生んでいないのだ。


 このままでは、いずれ静川は自分の夢に殺される。

 だが、自分がそれを指摘できるほどの仲ではないことを、南は理解できていた。だから彼はいつものように、黙ってグローブを嵌めてやる。


 静川の戦績は、良い。練習の結果も出せている。ただ、その結果がもたらすものの割合が、利益よりも苦痛が上回っているというだけだ。


「始めよう」


 リングの上の野々見沢は、相変わらず何を考えているのか分からない。ゴングが鳴って静川が手を出すと、機械的にジャブを合わせてくる。


 話下手な野々見沢とのコミュニケーションには、もっぱら拳が使われる。言葉の代わりにパンチが飛んでくるわけだ。口の利き方を間違えると、あっという間にハチの巣にされるのだが、慎重に言葉を選んで会話を進めると、静川の拳は野々見沢へ届き出す。


 不思議な事に、そうやって野々見沢と積み重ねた数十ラウンドは、ジムで最もよく話しているはずの南よりも、むしろ率直な意見交換ができている気がした。


 静川はパンチ一発を交わすたび、コミュニケーションの本質が攻撃であるという真理に気付く。

 言葉でも拳でも、自分から発したものが、他人の心や体に刺激を与えているという点において、それはまぎれもない事実であった。野々見沢はそれを知っているから、他人を刺激しないように、普段はあえて口数を少なくしているのかもしれない。


 他人の話を一方的に聞き続けていると、少なからず疲れるものだ。リングの上で無言の会話を続けるうちに、つい静川が話過ぎてしまい、野々見沢は珍しく不機嫌そうに距離を取った。


 お互いの射程距離を把握し終わった今となっては、単純な攻防ではパンチの的中を獲り辛くなくなっている。それは野々見沢も同じはずだった。ところが、無限の可能性を秘めた野々見沢のジャブは、ガードの上から急所を狙い続ける。静川が回避可能なギリギリのタイミングで、わざと攻撃を仕掛けてくる。


 ブロック、ダッキング、ステップワークによる脱出まで、静川は動きのすべてをコントロールされていた。パワーもスピードも関係ない。単純なスキル差だけで、野々見沢にはそれができるのだ。


 ボクシングがメンタルのスポーツであるという実証は、ここで行われている。

 一試合を通してボクサーが放つパンチ、その全体数からみたクリーンヒットの割合は、トップ選手でも少ない。防御や回避能力を高めたボクサーにパンチのヒットさせるのは、それほど困難な作業なのである。

 ところが、ここに意外な落とし穴があるのだ。


 選手経験のない人間は勘違いしやすいが、前述したクリーンヒット以外の『外れたパンチ』には、実は攻撃性能がある。

 ブロックの上から叩き込まれるパンチは言うに及ばず、かすったパンチ、はては触れてもいないパンチでさえ、目に見えないパラメーターをちゃんと削っているのだ。

 それは、メンタルのダメージである。

 もしまともに当たっていたら深いダメージを受けていた、そんな印象を植え付けるパンチを常に放ち続けていれば、たとえそれがヒットしなくとも、ボクサーの精神は削られていく。


 やがてそのダメージが分水嶺ぶんすいれいを超えたとき、今度は身体操作のラグを生まれる。心の疲弊によって、肉体への指令伝達や反応速度が鈍るからだ。

 複雑な、あるいは繊細な身体操作が困難になってくると、人間は思考が雑になる。


 その雑さが、相手のパンチをミスブローからクリーンヒットに変えるのだ。


 野々見沢のジャブは、常に急所を目掛けて飛んでくる。

 たっぷりと時間をかけて、静川は文字通り塩漬けにされた。ステップどころかパンチの選択までコントロールされた挙句、無理矢理引きずり出された右のカウンターに、さらにカウンターを合されてキャンパスに沈められた。


「静川!」

「だ、大丈夫だ……」


 相当のダメージを負ってしまったが、それでも打たれたのはジャブである。失神するほどの事態には至っていない。逆をいえば、もしも野々見沢が高威力のパンチを打っていたなら、軽く十回は病院送りになっているだろう。


 這うようにリングを降りて、南にグローブとヘッドギアを外してもらう。静川が汗まみれの顔をタオルにうずめていると、事務所の前でこちらを見ている夏芽の姿が目に入った。


「……そんなんで、勝てるの?」

「さぁな」


 反射的にそう返すと、彼女はそれ以上何も言わずに事務所へ引き返していった。普段は夏芽と仲の良い南も、この時ばかりはずいぶん苛ついた様子で、閉じられた事務所のドアを睨んでいた。


「なんや、今の。自分のジムの選手に言うセリフか?」

「さぁな」

「お前、それしか言われへんのか……」


 肩を落として呆れる南を尻目に、野々見沢はもう帰り支度をはじめていた。



◆      ◆     ◆



 シャワーを済ませて更衣室に戻ると、一般会員の客がジムに入り出していた。


 静川や野々見沢のようなプロと一般会員は練習時間帯が違うため、ジムの使用時間は明確に調整されている。そのため普段はほとんど顔を合わせる事もないのだが、今日はたまたま早めに来た連中と鉢合わせしたのだ。以前は静川一人きりだった新海ボクシングジムも、ここ数か月で幾人かの会員を囲うようになったらしい。


 そういえば最近、あまり新海の姿を見ないと思っていたが、ジム経営者としての雑務に追われているのだろう。


 あるいは静川の面倒は南に任せて、Ⅾプロモーションとの契約締結に向けて動いているのかもしれなかった。ディエゴのオファーがあった日から、新海の口数が減ったように感じるのも、気のせいではないはずだ。

 どちらにせよ、自分が今までとは違うステージに立っているのだと、静川は否応なく思い知らされる。


 まずは勝つこと。すべてはそこから始まるのだ。ベルトを手に入れるまでの道のりは、できるかぎり短い方がいい。それは静川も他の選手達と同じ思いだった。


「……、待ちなよ、静川」

「何か用か?」


 ジムを出て、静川は二つ目の曲がり角で声をかけられた。


 帰り道のルートを先回りするような真似ができるのは、もちろん住所を知っている人間だけである。ならば、親の手伝いでジムに駆り出されている新海夏芽が、所属ボクサーの住所を知っていてもおかしくはなかった。


「どうせこの後、用なんかないんでしょ? ちょっと付き合ってよ」


 返事も聞かず、通りのカフェに向かおうとする夏芽に、静川は抵抗する気も失せていた。言われたことはただの事実で、怒る道理がない。無理に断って口論になれば、家に帰る分しか残していない貴重な体力を失う羽目になる。


 南と変わらない高さの背中に渋々ついていくと、店内には閑古鳥が鳴いていた。時代から取り残されたような古臭い内装が、どこか新海ボクシングジムに似ている。


 窓際の席へ案内された静川と夏芽は、黙ったまま対峙する。

 待ち時間を一分と置かず、アメリカン・コーヒーが二つ運ばれてきた。疲労困憊でカフェインを入れるのは、この後の睡眠に悪影響が出そうな予感がしたが、彼女についてきた手前、話くらいは真剣に聞いてやるのが筋だと静川は思った。ブラックのまま口をつけると、夏芽は肝心のアメリカンに手も付けていなかった。


「こういうコト言うと、怒るかもしれないけどさ」

「怒らない」


 話は聞くと決めている。だから静川は余計な前置きをしないで欲しかった。

 

 それでも夏芽は、最近また伸ばしはじめたらしい前髪で表情を隠しながら、カップの中の黒い水面を見つめている。


「……、?」

「…………」 


 言葉が、出てこなかった。

 自分が何を質問されたのか、静川は一瞬、本当に理解できなかったのである。


 少なくとも、死が迫るほどの努力をしている人間に掛ける言葉ではないはずだ。普通の神経なら怒鳴り返してもいただろうが、あいにく静川はもう、そんな正常な反応を起こせる思考回路をしていない。


 むしろなぜ、夏芽がそんな質問をしなくてはならないのか、その方が静川は気になった。


「どうなの? 強くなってるの?」

「ああ。なってるよ」

「あれだけ、野々見沢にやられてるのに?」


 ああ、そういうことか。と、静川は嘆息した。


 つまり夏芽は、スパーリング内容に不満があるのだ。たしかに野々見沢の強さを肌で知らない人間が、あの練習風景を目撃すれば、誤解するのも無理はない。まして、静川は彼よりも三階級も上のボクサーなのだ。まともな見方をすれば、静川がまるで進歩のない日々を過ごしているようにみえるのだろう。


 あらためて言うまでもなく、野々見沢清人は天才である。

 天才と凡人には、様々な要素に距離がある。ボクシングの強さというものを距離で言い表すなら、天才は凡人のいる場所から、川の向う岸にいるような存在なのだ。それも大概、彼らは普通では超えられないような、激流の先にいる。


 ところが野々見沢は、静川にとって川の向こう岸どころか、山の向こう側にいるのだ。姿も確認できないほど、そこで何をしているのか一切不明なほど、彼は強さの先にいる。


 凡人のまま強くなるしかない静川は、微速でその道を進むほかないのである。

 しかし、静川はあえて夏芽にそれを説明する気にはなれなかった。野々見沢は新海ボクシングジムに所属するプロボクサーであり、試合が組まれれば、おのずとその実力は白日はくじつもとさらされる。それは口で説明するよりも、確実な説得力を彼女に与えるだろう。


「ちゃんと強くなってるよ」


 もう一度だけ、静川は念を押した。


 見栄ではない。トレーナーである南の努力が、無駄ではないという事だけは理解してほしかったのだ。だから他人に理解を求めるような行動をとった自分を、静川は恥ずかしいとは思わなかった。


 しかし、夏芽は真顔で静川の瞳を覗き込んでいた。


「……、あんた、なに言ってんだ?」


 頭に血は昇っていた。が、静川は暴力に訴える気にはならなかった。夏芽の表情は凍り付いている。

 それは、リングの上で打たれることを覚悟した人間の顔だった。


「ウチの家、もう限界だから」


 ジム、という言葉を使わなかったことで、彼女の置かれている状況が、本当に苦しいのだと伝わった。

 しかし静川は、自分がどんな顔をしたのか分からなかった。おそらく、間違えたのだと思う。直後、夏芽が堰を切ったように事情を吐き出したからだ。


「借金まみれよ。今までもギリギリ頑張ってきたのに、あんたが来てから、それまで親しくしてたジムからもそっぽ向かれて返済を迫られてる。どうすんの? せっかく会員さんが増えてきたのに、銀行の融資も受けられない。この上、次の試合に負けたら千万単位の負債が増えるって? 冗談じゃないわ。あんたの自分勝手に巻き込まれるのは、あたしの人生なのよ」

「それは……」


 興奮して立ち上がってしまった夏芽は、真っ白になるほど拳を握りしめている。だが、一度決壊した気持ちを鎮める事は、彼女には難しかった。


「何度もあんたをクビにしろって言ったわ。でもあいつは話を聞かなかった。あんたには才能があるって。借金を重ねても、あたしを大学辞めさせても平気な顔してたわ。なのに、どうしてあんたが毎日野々見沢にやられてんの? やられてもヘラヘラしてるわけ?」


 不満がある、どころではなかった。

 夏芽も、新海も、とっくに限界を超えていたのだ。


 無論、静川のせいばかりではない。ジム経営や家計に関わる問題なのだから、管理責任は会長が問われるべきである。

 だが静川には、もうそんな風に考える事はできなかった。


 思い当たる節ばかりで、言い訳のしようがない。以前は曖昧だった現実も、南や野々見沢の協力で、今では自分が前に進んでいる実感がある。ただ、それに気づくのが遅すぎた。


 夏芽はもう泣いていた。

 悔しさと虚しさと、情けなさの入り混じった彼女のソプラノが、静川にはなぜか、あの日聴いていたピアノの音と重なる。


「滝さんの試合映像、見たわ。……あんた、死ぬんじゃない?」

「かもな」

「あんたはリングで死んで、それで終わりだからいい。でもね、あたしは嫌なのよ。あんたの負けは、あんた以外の人間が背負うの! わかってんの!?」


 ついに胸倉を掴まれたが、静川は抵抗しない。

 夏芽の怒りの正当性は明らかだった。これまで静川がやってきた振る舞いを考えれば、一、二発喰らう程度は当然だろう。


 ところが、振りかぶった夏芽の手を、素早く止めにかかる別の手が現れた。



「――――、試合前のボクサーになにしてんだ! お前!?」



「離してよ! 触らないで!」


 店内に乗り込んできた新海は、血相を変えて我が娘を羽交い絞めにした。窓際に座っていたのが仇となり、偶然、表通りから静川との諍いが見えていたのだろう。


 突然の事に半狂乱になった夏芽が、まだ中身の残ったカップを床にぶちまける。異常を察した店員が駆け寄ってきたが、新海はそれをこともなげに突き飛ばした。


「離せッ! 離せって言ってるだろッオッサン!」

「黙ってろ夏芽ッ! すまねえ、静川。大事な時に、身内がこんなみっともねえマネを……」

「いや……、いいんだ」


 拘束を解いて夏芽を押しのけた新海が、弱弱しく頭を下げてくると、静川は思わず目を逸らしてしまった。謝らなければいけないのは確実に自分の方なのに、そんな態度をとられると、どうしていいか分からなかった。


 無理矢理入口まで連れていかれた夏芽はまだ、涙目のまま静川を睨みつけている。

 何事かを彼女に告げた新海は、小走りで戻ってくると、再び頭を下げた。


「本当にすまねえ、静川。これまで通り、お前は試合に集中してくれ」

「わかってる。気にしなくて、いい」


 、そう言うのが精一杯だった。


「し、静川……」

「本当に、いいからっ」


 その物言いは新海に、いつもは不愛想なボクサーの、動揺の大きさを悟らせた。


 会長らしい振る舞いなど、ついぞやったことのない新海も、今回ばかりは身から出た錆の大きさを恥じるしかない様子だった。彼はポケットからしわだらけの万札を取り出すと、それを店員に押し付けて、逃げるように店を出ていく。


 一人、取り残された静川は、床に広がったコーヒーを眺めていた。


 物事の一面だけを見つめ過ぎるのは、人間のもつ悪癖あくへきだ。正しさと誤りの判断は、角度を変えて問題に考えを巡らせなければ、いつもかたよった答えに人を導いてしまう。


 毎回試合のたびに、対戦相手の分析をする。

 その都度、静川も自分の肝に銘じている事だった。

 

 だというのに静川は、一番近くにいた、新海の人格すら誤解していたのだ。


◆      ◆     ◆


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