第21話『身心脱落』
「どうしてあんな事を言ったんだ!? 滝ッ!」
「またその話ですか……」
サンドバッグにコンビネーションを打ち込んでいた滝聖人は、もう何度目になるか分からない会長の愚痴にうんざりしながら、薄汗のにじむ額を拭った。
「だいたいなんで、世界戦の相手にモンスターを選ぶと宣言した? まだ話は何も決まっていないんだぞ? 今回の試合のあと、WBAのレギュラー王座を狙いに行くこともできたのに……、あれじゃ、モンスター以外の相手を選んだ時点で逃げたと思われる!」
「自分を追い込んでいるんです。会長も、僕のやり方は知ってるでしょう?」
「本気で勝てると思っているのか? 今のモンスターに」
才羽会長の問いに、滝は答えなかった。
タイマーに目をやると、インターバルはまだ二十秒残っていた。一秒でも早くパンチを打ち込みたい衝動を抑えつけ、コンビネーションの手順を頭の中で整理する。
その片手間に、滝は会長の言葉の意味を吟味していた。
世界中のプロモーターが、トップボクサー同士のビックマッチを望んでいる。
認定団体や階級の乱立によって、かつては数えるほどしかいなかった世界チャンピオンが無数に存在する、というボクシング業界が抱える致命的な欠陥。皮肉な事に、その欠陥こそが、ベルト有無に関わらず本当に強い選手同士の試合を見たいと、ボクシングファンに思わせるようになった。
だが、実際に試合を組むプロモーターとって、ビックマッチの実現はそう簡単な話ではない。
トップボクサーは文字通り金のなる木であり、ともすれば、それがただのゴミ屑になる可能性もあるのだ。負傷や敗北によって評価を大きく落としてしまうと、再びトップ戦線へ戻るために、膨大な時間を費やしてしまう。だからこそプロモーターは、そのリスクとリターンのバランスに苦しむのである。
一方で、あまりにも強すぎるボクサーは、それはそれで困りものだ。
誰も挑戦しないために試合のオファーが途絶え、実力はあるのにビックマッチからは遠ざかってしまうわけである。大抵は、そのボクサーが年齢を重ねて能力が衰えるのを待つ、という、敵対プロモーターの思惑が働いているのだが。
滝が挑戦を宣言したモンスターも、まさにそうした状況にあるボクサーだった。主要四団体を統一した時点で、周囲の有力ボクサー達が一斉にだんまりを決め込んだのである。皆、腹を満たした怪物が老衰するか、上の階級へ去っていくのを待っているのだ。
「なぜモンスターなんだ……?」
未練がましくそう呟いた才羽会長に、滝は
いつか自分もこの男のように、魂が薄汚れた脂肪に包まれてしまうのかと思うと、滝は心底怖ぞっとした。
「妥協するのは苦手なんですよ」
きっぱりと言って、滝はサンドバッグに拳を放り込む。やみくもな連打はけして打たず、決められたコンビネーションだけをひたすら打ち続ける。
反復練習の本質とは、完全な動作の習得と、反射への落とし込みである。
状況に応じて、必要なパンチが完璧な精度で、かつ頭で考えるより早く体が発射するように仕込んでおく。こうした細かい武器を無数に用意しておき、あとは自然の流れにすべてを任せるのが滝のボクシングだった。
完全なボクサーとしての機能を発揮するための部品作り、滝聖人はその手間を惜しまない。それが彼の強さを支えていた。
サンドバッグを打ち終えた滝は、息の上がったままリングに上がった。今日のスパーリングに呼んだパートナーは二階級上、フェザー級の日本ランカーである。心肺を
互いにグローブを合わせて、それが離れた瞬間、滝はエンジンを全開にした。
いきなり右ストレートをブロックの上から打ち込んで、相手の両腕を固め、ごく浅く左ボディーを差し込むと、想定通りの状況ができあがる。ブロックはしているが、ボディーに反応した対戦相手の右腕が、わずかに下へずれ込んだ状態。これを待っていた。
人間の体は部分単独では動いていない。左ボディーを差し込んだ時点で、相手の右腰がほんの少しだけ後ろに引けた体勢になる。これは右腕の反応と同時に、体の連動性が働いてしまった結果だった。
実際にこの体勢からは、もう腰の入った右強打を放つことはできなくなるのである。もちろん、ポジションが流動的に様変わりするボクシングでは、選手が同じ体勢のまま固まっていることなどありえない。しかし、だからこそ、特定の状況に相手を誘い込むことで有効になる攻撃が、多数存在するのである。
滝のコンビネーションは、対戦相手の顔面をキャンバスに叩きつけていた。
打ち込んだ三発のパンチは
滝はそれでも不満だった。
スパーリングパートナーには、まだ息がある。
殺すつもりだったのだ。
「ストップ! ストップだ! やりすぎだぞッ滝!」
大慌てで介抱をはじめるトレーナー達に、滝聖人は端正な顔を歪めて言った。
「ああ、すみません。……、だから苦手なんですよ。妥協するのは」
◆ ◆ ◆
前日計量がメディア公開で行われると静川が知ったのは、前夜の事だった。
今回の興行を取り仕切るDプロモーションの計らいで、国内での注目度をあげておきたいのだろうが、うまくいくとは思えなかった。格闘技が全盛だったかつての日本ならまだしも、今のご時世で新聞や雑誌といった媒体に頼りすぎるのはいかがなものかとも思えたが、今日の公開計量と明日の試合は、丸ごとネットの有料配信という形でマネーに変える算段らしい。
それもこれも、滝の人気があってこそのビジネスである。
それでも、ホテルの広間に用意された金屏風と長机を見た瞬間、静川はこの試合がまぎれもなくタイトルマッチなのだというプレッシャーに襲われた。
「まるっきり世界戦やな」
南はさっきから落ち着かない様子で、貧乏ゆすりを続けている。
昨夜の時点で、静川のウエイトはリミット300グラムオーバーに仕上げていたため、一晩経てば基礎代謝でほぼ完了という手筈は伝えているのだが、それでも実際に計量するまでは彼も安心できないのだろう。
さすがの南も、今日は野々見沢の面倒までみている余裕がないようで、彼にはジムでの留守を言いつけてきたらしい。まるで父親である。
一方、一人娘の暴走を制御できなかった新海は、あの日からめっきり大人しい。
身内の不始末を恥じるのは常識的といえば聞こえはいいが、実のところ静川自身はあの一件を新海の責任だとは考えていなかった。むしろ、今まで迷惑をかけ通してきた自分のツケが回ってきた、程度の認識しかない。
「静川選手、53.5キログラム、リミットです」
体重計を確認した係員がそう告げると、第一関門突破の安堵がチームに広がった。
Tシャツといつものウインドブレーカーを着込んだ静川に、南から経口補水液が手渡される。少し口に含んだだけで、喉を通り過ぎる甘味が、全身の活力に変換された気がした。
問題は、これから二十四時間でどれだけリカバリーできるのか、である。
勝負はもう始まっているのだ。
先に計量を終えた滝は、才羽会長と席についている。体格は静川よりもやや小さいが、顔色をみるかぎり、彼も減量が楽なわけではなさそうだった。一見するとスマートな肉体に見えるのだが、必要部位が徹底的に鍛えこまれているのは明白である。
司会者に促された静川が金屏風の前へ歩みを進めると、その途中、滝と目が合った。これが初対面とは思えない、久しぶりに会った旧友のような笑顔を浮かべる滝聖人に、静川は無表情で応じる。
明日の試合終了まで、この男とは殴り殴られ合うだけの関係で、社交辞令に付き合ってやる義理はないのだ。
静かに殺気立つ選手達とは違い、才羽会長と新海は申し訳程度に会釈で挨拶を済ませていた。だが、両者の内心はより苛烈に燃えている。この試合の結果次第では、常識はずれな準備期間で今回の興行をぶちあげた、Dプロモーションの潤沢な資金とディエゴの手腕が同時に手に入るのだ。
すでに興行の裏事情を知っている幾人かの記者達は、会長同士の腹の探り合いなどには注目していない。彼らの興味は、今回海外プロモーターを動かした二人の日本人ボクサーにだけ向けられている。
唯一、何も知らない司会役の男は、不穏な場の空気にも気づかず淡々と仕事を開始した。
「お集りの皆様、定刻となりましたので、会見をはじめたいと思います。まずは現OPBFチャンピオン、滝聖人選手に今回の試合の抱負をお聞きして、質疑応答に移りたいと思います。その後、同じ手順で挑戦者の静川大樹選手にもお話を伺って参ります。それでは滝選手、お願いします」
マイクを手に取った滝は、
「世界前哨戦ということで、今回の試合には特に気合が入っています。対戦相手の静川選手はバンタムでまだ二戦目ですが、ここまで七戦七勝のクリーンレコードを持っていて、うち三試合がKOという、油断のならないボクサーですね」
メディア向けのリップサービスとしか思えない滝の言葉は、静川の内心をざわつかせた。
もちろん記者陣は誰一人、滝の発言を額面通りに受け取っていない。それもそのはず、彼は静川大樹の三倍のキャリアを持ち、しかもそのほとんどが日本、もしくは東洋太平洋タイトルマッチでのKO勝利、という戦歴の持ち主だからだ。
「では、質問のある方は挙手をお願いします」
ところが、先日行われた才羽ジムでの会見事故のせいで、質疑応答の手が上がらない。滝の本性を知る記者達の共通認識は、触らぬ神に祟りなし、これに尽きていた。
場の雰囲気がおかしい事を察した静川も、わずかに滝の方を向きかけた。が、その直前に、一人空気の読めないでいる司会によって、質疑応答が締め切られる。
本来ならばチャンピオンに対する質問で
「続きまして、挑戦者の静川選手に、今回の試合の意気込みを伺いたいと思います」
司会が静川にコメントを促した瞬間、一斉にカメラのシャッターが切られた。先ほどとは打って変わって気色ばむ記者陣に、マイクを渡された静川も、ようやく状況を理解する。
つまり今日集まったメディアにとって、滝の消化試合に過ぎない今回の興行の是非は、すべて彼の
考えてみれば、前回の試合で滝は元日本チャンピオンを秒殺している。よりレベルの劣る相手に、試合内容の期待はできまい。であるならば、せめて気の利いたコメントのひとつでも拾ってやろう、と思われているのだろう。
すべてを察した静川は、ボクサーとして、周囲の期待に応えてやる気になった。
マイクを持つ静川の手に、力がこもる。目の前の記者達は、どいつもこいつもいけ好かないおっさんばかりで、全員馬場と同じ臭いがしていた。
はたして、静川大樹の言葉は次のようなものだった。
「現在、世界はコロナウイルスをはじめとする脅威に晒されています。さらにビジネスを背景にした戦争や、人種差別によって、毎日のように人が死んでいます」
ビジネスライクに司会を務めていた男も、この発言に首を傾げざるをえなかった。
コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている、などという文言は、今更こんな若造に言われるまでもない。各メディアを通じて、幾度となく緊急事態宣言のダシに使われた、政治家共の殺し文句だ。おまけに、世界中で苦しむ人間がいるだのなんだのと、営利目的の人権団体が好みそうなお題目まで並べるとは。
「あのー、それが何か?」
つい、そう口から漏らしてしまったのは、最前列に座る頭頂部の薄い男だった。彼は静川から若者らしい、血気盛んなコメントを期待していたのだろう。それが見当違いの発言に肩透かしを喰らって、苛ついた様子を隠そうともしていない。
ところが、静川はマイクを持ったまま、さらに反対の手で滝聖人を指差した。
「全部コイツのせいだ。滝聖人がボクシングをやってるから、こいつが生きているから、みんなが不幸になっていく」
「いや、静川選手。それはちょっとですね、無理があるというか――」
「事実なんかどうだっていい!! 俺がそう思ってるッ! それがすべてだッッ!」
静川の剣幕には、鬼気迫るものがあった。
道理などなくとも、我が意見を押し通す。
それはかつて、彼が最も恐れていた暴力行為そのものだった。そんな人間にだけはなりたくないと、嫌悪したものにこそ人は変わっていく。しかし、静川はすでに自分のそんな一面を諦めていた。そうしないと、悪魔はもう彼との取引に応じなくなっていた。
「……、ずいぶん嫌われましたね、僕も」
言われっぱなしだった滝が、涼しい顔で舌戦に加わった。
もう、誰も止めに入らない。言いたいことがあるなら、この場ですべて言ってみろ。静川は滝の物腰に、そんな挑発の意図を
「俺はお前が嫌いだ。お前の女も親も兄弟もペットも、全員死ねばいいと思ってる」
「なぜです?」
「お前が俺の前に立ったからだ。だからかならず、リングの上から消し去って、ついでに世界も平和にしてやる。――殺してやるよ、滝。俺からは以上だ」
ここまで過激な発言は、記事には載せられない。載せるにしても、静川大樹のコメントはほとんど改変せねばならないだろう。
一人涼しい顔で会見場を去ろうとした静川の背中に、ひときわ邪悪な笑い声が叩きつけられる。
もちろん、滝だった。
「あっはっはっは! おい静川、お前最高だなぁ! 明日の試合が本当に楽しみになってきた。……、ところでお前、知ってるか?」
「なんの話だ?」
互いに同じような眼から、同じような視線が交差した。
「リングの上で死んだ奴はな、天国にも地獄でもない場所に行く。自分が死んだらどこに行くのか、明日までに、想像だけは済ませとけ。静川」
◆ ◆ ◆
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