第17話『明日をみる人面獣』

 以前の自分なら、祝勝会などいらないと一蹴していただろう。


 静川にそれができなかったのは、富樫戦で得た勝利が、どうしても自分一人のものであるようには思えなかったからだ。

 通常、試合のあった日というものは、勝敗に関わらず打撃を受けているので、基本的に絶対安静である。そもそも、受けたダメージでよく眠れないボクサーがほとんどなのだ。


 しかし今日の静川は、富樫からクリーンヒットをただの一発ももらわずKOに仕留めていた。


 ささやかながら、ファミレスで祝勝会を開こうという南の提案に、静川はもちろん残りの二人も文句などつけなかった。いつもは必要以上の嫌味を垂れ流す新海でさえ、今日の静川のボクシングには、ぐうの音も出ない様子だったのだ。


 控室で着替えを終えて、三人の待つホールの入口へ向かう途中、幾人かの観客達から声をかけられた。


「今日の試合、すごかったよ」

「お前、強いなぁ!」

「次も観に行くからな!」


 不思議な言葉の羅列にどう答えていいのか分からず、静川は不器用に頭を下げてその場を走り去った。


 生まれて初めて受ける他人からの称賛が、自分が最も軽蔑するボクシングの舞台で掛けられた事に、ひどく動揺していた。この汚れた拳で他人が喜んだという事実が、信じられなかったのだ。


 夜風の冷たさとは裏腹に、心拍数が上昇する。ついさっきまで殺し合い寸前のリングにいたのが嘘のように、足元が不安定だった。


「俺じゃない」


 戦ったのは静川だ。


「俺じゃ、ない……ッ」


 勝ったのも静川だ。


 その為の練習に付き合ってくれた、南と野々見沢こそが、称賛を受けるべき功労者だと思った。

 木津は何もしていない。ただ練習をして、体を作り、技術を高めただけ。


 やはり、祝勝会は辞退するべきだ。

 

 三人には悪いと思ったが、こんな状態で会食を楽しむ余裕は木津にはない。多少揉めるかもしれないが、体調不良を訴えて帰宅しようと心に決めた。


「――、遅いよ、静川。いつまで待たせんの」

「お前……」


 ホールにいたのは、新海夏芽だった。


 ブルゾンにショートパンツ、レギンスという服装が、ショートカットにした彼女によく似合っている。ボクシングの会場にいるよりも、街中でショッピングに興じている方がよほどそれらしい。


 夜風を吸い込み、静川は息を整えた。


「あいつらは?」

「先にファミレス行ってる。あんたが遅すぎんのよ」

「なんで、あんたがここにいる?」

「ジムに電話がかかってきたんだよ。で、あんたはここにいるって言ったら、この人、案内しろってうるさくてさ……」

「誰だ……?」


 夏芽は真後ろのベンチを指差すと、ちょうど座っていた老人が立ち上がるところだった。


 日本人では、ない。ヒスパニックにみえるその老人は、皺だらけの顔とは裏腹に、好奇心の塊のような目の輝きを放ちながら、こちらに歩み寄ってきた。


「こんばんは、ダイキ=シズカワ」


 握手かと思いきや、老人が差し出したのは手に持っていたピーナッツの袋だった。封は切られていて、中身は半分ほどもない。もちろん、今の今まで貪り食っていたのだろう。老人の口髭にはそれらしい食べかすが付着しており、ベンチの周りには吐き捨てられた殻の破片が散乱している。


 静川は袋を無視した。


「あんた誰だ?」

「私、ディエゴ=プラトーと言います。ああと、日本語、ちゃんと話せてますか私」

「大丈夫だよ、あたしにも聞き取れるから」

「ありがとう、ナツメ」


 老人はラテン系らしい笑顔を夏芽に返し、すぐに視線を静川へ向け直した。品定めをされている、というよりも、銃口を向けられているような気分だったが、実際このディエゴという老人には、そういった経験があるのかもしれない。


「この人はね、メキシコのプロモーターなんだって」


 老人から受け取った袋からピーナッツをつまみ上げ、夏芽は不穏な言葉を発した。


「海外のプロモーターが、俺みたいな底辺ボクサーに何の用だ?」

「ノー。底辺だったのは、一時間ほど前までですよ、シズカワ。今の君は、日本バンタム級一位のトップランカー。……、順を追って話しましょう」

「結構だ。今は忙しい」


 取り付く島もない静川の態度に、しかしディエゴは穏やかに頷いた。



「では単刀直入に言います。シズカワ。君をスカウトしたい」


 

◆      ◆     ◆



「……、いい話じゃねえか、受けちまえよ静川」


 三杯目の生中を干した新海の、意外過ぎる一言に、静川はかなり驚いていた。


 ディエゴの申し出を聞いていた夏芽によって、スカウトの話は遅かれ早かれ新海の耳に入っただろう。一刻も早く世界戦にたどり着きたい静川にとって、確かに悪くない話だが、所属しているトップランカーの移籍をジムの会長が快く思うわけがない。


 静川はそう考えていたのだが、新海の反応は真意が掴めなかった。


「てっきり反対されるかと思ったが……」

「そら賛成するやろ」


 メロンソーダを飲んでいた南が、当たり前のように言うので、静川はまた片眉をつり上げてしまう。野々見沢は相変わらず黙々とハンバーグを食べていて、会話に参加する気はないようだった。


 九時半を回ったファミレスには、残っている客も少ない。明日は月曜という事もあって、学生アルバイトらしき店員達が憂鬱そうな表情をしているのも頷けた。


「海外プロモーターからのスカウトやろ? 別に、お前が一人で移籍するわけやあらへん」

「そういうことだ。日本と海外じゃ制度が違うんだよ」


 いまいちピンときていない静川に、新海は珍しく丁寧に説明してくれた。


 一般的に日本の格闘技はジム制度、海外はマネージャー制度だといわれる。

 日本では通常、選手が所属するジムの会長――、つまりオーナーが全権を握っている。会長はトレーニング指導方針、マネジメント、様々な面でのサポートを行うわけだが、一方で、選手自身の自由はかなり制限される。移籍やファイトマネーについても、会長の胸ひとつですべて決定されてしまう、という危険な側面もある。


 逆に海外では、前述したジム制度で会長が担う役割を、分業するシステムが採用されているのだ。選手を指導するトレーナー、生活をはじめとする身の回りのあらゆる世話を買って出るマネージャー、そして試合を用意するプロモーターといった具合である。

……ただし、このマネージャー制度にも問題はある。一度関係がこじれると、新しいマネージャーが見つかるまでは、ほぼ確実に選手のキャリアが停止してしまう点だ。


「つまり今回の話は……」

「新海ジム、俺らのチーム全員を丸ごと抱え込むって話だ。仮に、お前だけが個人契約を結ぶ事になっても、試合を取ってくる俺の手間が減るだけのハナシだな」

「なるほど」

「Dプロモーションって言っとったな、そのディエゴっておっさんの会社。Dって自分の名前からとったんかなぁ。あー、結構有名な選手も抱えとるやん」


 スマートフォンで検索情報を確認した南が、Dプロモーションに所属しているボクサーの名簿を見せてくる。が、別階級の、しかも海外選手の名前を見せられたところで、静川にはそれがどう凄いのかまるでわからなかった。


 コップの中の氷は溶けてしまった。静川はすっかりぬるくなった水を喉に流し込むが、まだ今回の経緯について納得がいっていない。


 不満を察した南は、スマートフォンをいじる手を止めた。


「最近、海外プロモーターの間じゃ日本人の市場価値が上がっとるんや。特に軽量級のな」

「なんでまた、そんな事に……」

「練習がストイック、何かにつけてマジメで、おまけにメディアにも紳士的。パフォーマンスに優れたボクサーはメキシコ、タイ、フィリピンにもおるで。でもな、契約するプロモーターにとっては日本人が一番リスクは少ないんや。そういうイメージがついとんねん」


 そこまで言われて、静川もやっと理解が追いついた。


 海外の選手は、総じて管理が難しい。世界のトップ戦線に上り詰めるほどの実力者なら、それ相応の我の強さも持ち合わせているからだ。彼らは契約金が入ると派手な生活に身を投じ、練習に身が入らなくなる者も多い。結果、契約した試合数を消化する前に、選手自身がパフォーマンスを落としてしまう事例が実に多いのだ。


 同時に、そういったリスクが日本人は低い、と、思われて、いる。


「……、ほんまに、モンスター様々やで。あんだけ世界中のメディアが取り上げられたら、そら日本人のイメージも塗り替えられてまうわな。ディエゴのおっさんもそのクチやろ」

「俺に声をかけてきたのは、これ以上俺の価値が上がる前に、安く契約をとるため……」

「いい勘してるじゃねえか、静川。だがな、ディエゴって野郎が次に何を仕掛けてくるか、俺にはなんとなくわかるぜ」


 とうとう五杯目のビールを空にした新海が、神妙な目つきでグラスを睨む。その対面では、野々見沢が三枚目のハンバーグに手を付けていたが、下手に口出しするとジャブが飛んでくるので、誰も何も言わずにいた。


 静川は頼んでいた温野菜の盛り合わせから、ブロッコリーを拾い上げた。試合後の今日くらいはもっと脂質を摂取してもいいのだろうが、ライトフライ時代の減量の癖がいまだに頭と体を支配している。


 新海の言う通り、スカウトの件はこのままで済む話ではないだろう。ディエゴはビジネスで静川を買いに来たのだから、可能な限り、値切る腹積もりでいるはずなのだ。つまり契約にぎつく前に、相手はあめむちを用意してくるということ。


 静川のスマートフォンに着信が入る。

 相手は新海夏芽だった。


「……、何か用か?」

「ああ、静川。今、みんなと一緒にいるの? もうスカウトの事は話しちゃった?」

「そうだな。たぶん……、受ける事になると思う」

「ふぅん。それでね、ディエゴさんが明日、ジムの方にきてくれるそうよ。そこでもう一度、ちゃんとした話をしたいんだって。いい? ちゃんと伝えたからね?」

 

 言うだけ言って、夏芽は通話を切ってしまった。


「ええツラになっとるやんけ、静川。なんや、そんなマジな電話やったんか?」

「スカウトの件で、ディエゴから条件を付けられるみたいだ」

「会長の予言的中やな」


 そして静川の予想通り、飴と鞭の使い分けがきた。はたしてディエゴが振るう鞭に耐えられるのか、彼が持ちかけてくるであろう条件がなんなのか。


 勝利を祝うはずの打ち上げは、一転して試合前夜のような緊張感に包まれた。


◆      ◆     ◆

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る