第16話『明日をみる人面獣』

 そういえば最近、夢を見なくなった。


 自室のベッドに倒れ込んだ木津は、天井にかざした拳を見上げ、ふとそんな事を思った。


 南の主導するトレーニングもさることながら、毎日のように野々見沢とのスパーリングをこなしていると、いつも練習後には抜け殻のようになってしまう。

 はたして本当に自分はバンタム環境に適応できるのか、あれから少しは強くなっているのか、そんなことさえどうでもよく思えてしまうのだ。シャワーを浴び、心ばかりの食事をとり、そして瞼を閉じて、開くと朝になっている。


 不思議な事に、その日々の繰り返しは、木津から色々なものを奪い去っていた。以前は一日中、全身にまとわりついていたあの焦燥感や苛立ちが、トレーニングで汗を流すとすっかり消えている。

 しかし、それは手段が目的にすり替わる前兆であった。さらに皮肉な事に、それを彼に気付かせてくれたのは、あの中年記者なのだった。


――――自殺だったらしいね?


 違う。

 あれは、自殺などではない。


 あのとき見た人懐っこい静川の笑顔は、今も木津の瞼の裏に焼き付いている。


「俺はお前を忘れてやらない」


 かつては共に過ごした、あの放課後の教室で、静川はよく自分の夢を語っていた。


 それを思い出すたび、木津の体には焦げ付くような痛みがはしる。四肢を失った者は、すでにその器官が存在しないにも関わらず、そこに幻痛を感じ取る事があるという。時折、木津の全身に現れる痛みも、失った静川大樹が感じるはずのものだったのかもしれない。


 だから木津研二は、静川大樹になる。

 ボクシングで静川を、世界チャンピオンにする。


 初めて彼とゲームをしたあの放課後の教室で、カードを貸してやったのと同じだ。木津は不自由している静川に、ただ自分の体を貸してやるだけ。そうすれば静川は、持ち前の努力と根性で、必ずその願いを成就させることだろう。


 握りしめた拳を宙に放つと、確かな風切り音がした。


 窓の外には月が昇っているのだろう。冬も間近に迫っているので、夜風も冷たいはずだった。やおらベッドから半身を起こして、机の引き出しに伸ばしかけた木津の手が、止まる。


 引き出しの中には、色褪せた卒業文集がある。

 いい加減、捨ててしまってもよいのだが、それをしようとするたびに、文集は信じられない重さに変わり、木津はいつも息切れを起こしてしまう。ここしばらくは、見る事さえしていない。


 ホッチキスで雑に留められただけの文集には、ボロボロになっているページがあった。……もちろん、木津と静川が書いた、将来の夢が記載されているページだ。


 何度も見ているはずなのに、自分が何を書いたのかはもう忘れてしまった。そのかわり、ページを開くたび、静川の綺麗な鉛筆文字から目が離せなくなる。



 



 シンプルで、それゆえに人目を引く夢だった。文集が配られた卒業式の時には、すでに静川は教室からいなくなっていたが、無神経なクラスメイト達が彼の夢をわらっていたのを、木津は許せなかった。生まれて初めて喧嘩をしかけて、数人がかりでボコボコにされた。


 ボクシングで、世界チャンピオンになります。


「なれるさ」


 あの野々見沢にさえ、静川の拳は届くようになったのだ。

 不可能など、ない。



 自分という存在が、拳の中に溶けていく。

 今夜は、良い夢がみれそうだった。



◆      ◆     ◆



「……わ。――、おい静川、話聞とるんか?」



「ああ。聞こえてる」


 リングインした直後から、富樫がにらみを利かせている。いちいち相手にするのも面倒だったが、殴り合いをする前からめられるわけにもいかず、静川は冷たい視線を返し続けていた。


「いきなりガン飛ばしてきとるな、大丈夫か?」

「別に。ここはそういう連中ばかりだからな」


 下の階級からやってきた静川が、ここで気弱なところを見せれば、富樫は自信をつけて殴りにくるだろう。バンタムでの初試合、初っ端からパワーゲームに持ち込まれるのは、この階級の環境を知らない静川には不利な展開だ。


 だからこそ、威圧を受け流すようなマネはせず、彼は真っ向から視線を返していた。試合はもう始まっている。


「ええか。1ラウンドは距離取って観察するんや。手ぇ出すんはリズム取ってからやで。それまでは、富樫のパワーパンチは絶対もらったらアカン」


 静川は小さく頷いた。


 リング中央で対峙した富樫の体は、思った以上にビルドアップされていた。静川よりも一回り太い腕、厚い胸板、そしてインファイターらしい顔面の打撃こん


 レフェリーの説明が、いつも以上の速度で耳を通り抜けていく。特に反則打の注意など、富樫相手には白々しいばかりでもどかしい。

 過去の映像でみたかぎりでは、富樫の反則打はよく練り込まれていた。現時点では何をされるのか予想はつかないが、今日の静川には奇妙な感覚があった。


「コーナーに戻って!」


 言われるがまま、青コーナーに戻っていく。セコンドには南と新海、そして野々見沢がいた。代わりに、新海夏芽は来ていなかった。すでにスタッフ人数は足りているので、もう試合には来ないのかもしれない。


 ゴングの音が、少しだけ重く聞こえた。


 富樫はリング中央に陣取ると、せわしなくジャブで距離を測り始めた。無闇にヒットを許すわけにはいかないが、拳質を調べておくためにも、ガード越しに二、三発受けてみる。


 左ジャブからの組み立てを一発ガード、さらに右ストレートの初動を押さえにかかり、連撃の成立を阻止。


 パンチの威力調査は一度受ければ十分である。静川は富樫の射程圏内から、即座に離脱した。


 さすがに、これまでとは違う。富樫の拳には重さがあった。ライトフライでは存在しなかった破壊力のジャブである。もしもストレートやフックでパワーパンチを顔面に打ち込まれたら、即KOもありうるだろう。


 だが、富樫のパンチの練度は、野々見沢の足元にも及ばない。

 上半身だけが際立ってビルドアップされた肉体は、傍目はためには美しい。が、それは同時に下半身の筋力不足の裏返しである。近代ボクシングでは、パンチ力と身体のバランス能力の解析が進み、それらを習得するためトレーニングへの落とし込みが実践されている。


 外見だけでいえば、静川の肉体は富樫ほどのボリュームはない。

 しかし、静川のジャブは富樫のジャブにカウンターを取る。それは、静川が南とともに作り上げたバランス能力が機能している証拠だった。パンチを打つ肉体を、さらにコントロールするための訓練を積んできたのだ。


 あらゆるスポーツには、初動に移る前のベース・ポジションというものが存在する。静川はそれを崩さない。たとえ富樫が何発ジャブを打ち込んでも、適正な距離を保って被弾を防ぎ、連打で拳速が鈍った相手のパンチのリターンを取る。

 それは、天才野々見沢清人を相手にするのに比べれば、造作もない作業だった。


 リーチを測り終わった静川は、足の位置に気を付けるだけで安全圏を確保した。


 ほぼすべてのボクサーは、パンチのモーションに合わせて下半身が駆動している。つまり理論上は、一度リーチを見切ってしまえば、その後は相手の足のポジションに合わせて移動するだけで、パンチが当たらなくなるのである。もっとも、それは相手よりも優れた敏捷性びんしょうせいを持っていることが大前提だが。


 ボクシングは不思議な競技だ。スピードが試合を圧倒的に支配するスポーツでありながら、その速度には種類が存在するのである。

 パンチ、ステップ、全身のキレ、静川はそのどれもが富樫を圧倒している。それは、拳の『重さ』程度ではくつがえせないほどの戦力差となって、試合に現れていた。


 中間距離からのジャブの刺し合いで負けが続いた富樫は、しびれを切らしてインファイトを開始する。だが、パンチの速度に差がありすぎて、打ち終わりに静川のリターンをもらってしまうのだ。ならば、と、富樫は身体を密着させて、今度は乱打戦に持ちこもうとした。これで、フィジカルに勝る富樫が、静川を押し潰す展開になる。


 ところが、静川は冷静だった。

 富樫の挙動が変化した瞬間に、拳の射程圏外まで即脱出、ライトフライ級で磨き抜いた足を全開に使って距離を支配する。肩透かしを食らった富樫は頭に血が上り、不用意な右の大振りで威嚇いかくした。当然、その右の打ち終わりは、静川の左拳によってリターンを取られる。すると、右側頭部にクリーンヒットを許した富樫の全身が、崩れるようにマットへ沈んだ。


 この、たった一.五秒ほどのやり取りのあと、レフェリーが静川をコーナーへ押し戻し、カウントを開始した。


 歓声にまぎれて、南の指示が飛んでいる。だが、静川にはよく聞こえなかった。それよりも、富樫があと二秒ほどで立ち上がる、その方が重要だった。


 静川の予想通り、きっかり二秒で立ち上がった富樫は、鬼のような形相で拳を構え直した。戦意の喪失は欠片も感じ取れない。レフェリーも即座に試合を再開した。


 ダウン復帰直後のボクサーがとる行動は二つだけ。体力の回復に専念するか、ポイント奪回のために攻勢にでるかだ。アマ上がりの富樫は前者を選んだようで、ガードを固めて全身の動きを抑えている。


 静川は、一見消極的な、しかし極めてストレス性の高いコンビネーションを選択する。上下の打ち分けを繰り返し、頭部を守る富樫のガードを固めさせ、肋骨のラインに沿ってボディー打ちを放り込む。

 それはスピードもキレもない、地味で見栄えもしない、残酷な調理法だった。


 ただひたすら、富樫の回復を妨げる。それだけの攻撃が続く。このラウンドを取るのは静川だ。しかし、彼は、それだけでは済まさない。相手が反撃に出るための体力と気力を、根こそぎ奪い去るのが目的だった。


 やがて、ゴングがラウンド終了を告げると、富樫はすっかり削られた体を引きずって、赤コーナーへ戻っていった。

 青コーナーで静川を待ち構えていた南は、興奮した様子でまくし立てた。


「よっしゃ、ええペースや。このまま富樫の足が死ぬまで削り倒せ」

 口をゆすぎ終わった静川は、黙ったまま頷いた。言われなくとも、そのつもりである。


 正面で体の汗を拭き取っていた野々見沢が、呟いたのはその時だ。


「き、今日は、お、お前の、ほ、方が、つ、強い。だ、だが、ゆ、油断す、するな……」


 珍しいこともあるものだ、と、静川は上半身を拭き終わった野々見沢を見た。この男がこんな事を言うのは、彼の知る限り初めてだった。


「そ、そろそろ、く、……」


 何が、とは言わなかった。

 しかし、野々見沢が言うのだから、『くる』のだろう。この男、およそ社会生活を行う上では欠陥だらけの人間だが、ボクシングに関してなら間違いなく天才である。静川もこの三週間、嫌というほど思い知らされてきた。


「わかった」


 今度はちゃんと返事をして、静川は椅子から立ち上がる。すでにリング中央では、顔面を紅潮させた富樫が気合充分の様子で待っていた。


 ラウンドマストシステムを採用するボクシングでは、1ラウンドごとにポイントを割り振り、極力試合内容には優劣をつける。ダウンを奪うと2ポイント差がつくので、先ほどのラウンドは静川が取った計算なのだ。


 当然、富樫は残りのラウンドでこのポイントを取り返さなければならない。最終的に取ったポイントの多い方が勝者である。ただそれは、どちらかがKOされなければ、の話だ。


 ゴングの音が、また少し重くなった気がした。


 静川に対してスピード負けの自覚がある富樫哲也は、それでもジャブからストレートの組み立てをやめなかった。……、否、やめられなかった。


 試合の主導権を握る静川の挙動に、富樫が合わせる展開が本来の構図である。しかし、プライドの高い富樫にはそれができない。

 ここへきて、パワー以外のパラメーターでは、静川にすべて上をいかれている事も彼は察しているはずだった。だが富樫哲也というボクサーは、トップアスリートに必須な素養である『心の柔軟性』を、致命的に欠いていた。


 だから、こだわってしまう。これまで自分が舐めてきた、甘い成功体験にあやかろうとしてしまうのだ。そして同じ攻撃を繰り返す。それが最もカウンターの的になると、容易に想像できるはずなのに。


 静川は機械的にリターンを取り続けた。富樫の攻撃設計の土台となるジャブに狙いを定め、後続パンチの起動前に自分のパンチを割り込ませていく。それはジャブであったり、フックであったり、ショートストレートだったりした。


「がぐっ!?」


 何度目かのパンチがヒットすると、それまでは衝撃の瞬間に飛び散っていた汗の中に、鮮血が混じるようになっていた。しかし、どれだけ客席から歓声があがろうとも、静川は作業効率を落とすような真似はしない。鋼鉄のようだった富樫の肉体が、静川のパンチによってヘビーバッグになっていく様を、レフェリーも事務的な視線で観察していた。


 この時すでに、富樫は正常な判断力を失っていた。


「ガッ!?」


 耳たぶのすぐそば、顎関節に直撃した静川のフックで、富樫が前のめりに倒れ込む。同時にレフェリー、セコンド、観客、すべての人間が試合の終わりを予感した。


 ところが次の瞬間、富樫はマットに手を突くふりをして、鋭い右フックを繰り出していた。

 狙いは静川の太股前面、大腿四頭筋に違いない。ラフ・ファイトが横行するアジア圏のボクシングでは、まれにみられるパンチである。ダウン拒否や偶然の接触を装って、対戦相手の脚を殺すテクニック。相手は反則打を打つ側がダメージでよろけていると思っているので、意外にヒットを許してしまうのだ。


 待たせたな、嬲り殺しにしてやる。という富樫の声が、静川は聞こえた気がした。


 だが、ダメージの蓄積と攻撃本能に思考を侵されていた富樫は、気づかなかった。

 正面に立つ静川が、身を沈ませて、すでにパンチを放っていたのを。


 右フックよりも先に到達した静川の左アッパーが、しゃがみこんでいた富樫哲也の顔面に突き刺さった。不安定な位置で頭蓋骨に受けた衝撃が、頚椎を強引に捻転させて、富樫の首が可動域をはるかに超えて反り返る。

 白目を剥き、一切の動きをなくした富樫がマットに沈んだ瞬間、今度こそレフェリーが試合を止めていた。


 打ち鳴らされるゴングの音は、これまで静川がリングの上で聞いてきたものとは違っていた。コーナーを振り返ると、新海だけでなく、南と野々見沢も不細工な笑顔でこちらを見ている。

 

 火が消えたばかりの両拳に、余熱のような何かが残るのを感じながら、静川はもう一度耳を澄ました。


 ゴングは、明日へ繋がる音を立てていた。


◆      ◆     ◆

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