第12話『プロットの中の空白』


 それからすぐに退院できたのは、たんなる厄介払いだったのだろう。


 病院食を無理矢理詰め込まれた静川の体は、少しふっくらと肉を付けていた。

 飢餓状態が続いた体は、吸収した栄養を脂肪に変えて貯め込みやすくなるのだ。ボクサーが試合を重ねると、減量の難易度が上がっていく原因の一つである。

 過剰な減量とリバウンドの繰り返しは、人間の体の機能を少しずつ狂わせてしまう。近代的な減量方法が導入される以前のボクサーは、自分の体に起こるこの不具合と、トレーニングで増大する筋肉量との体重バランスに苦しみ、多くの選手達が短命に終わった。


 自宅に帰ってきた静川も、諦め半分で体重計に乗り、その現実を受け入れざるを得なかった。今の状態から、彼がもう一度ライトフライ級のウエイトに仕上げるのは、もはやどう考えても不可能だった。


 その日の昼、久しぶりに、両親と三人で食卓を囲んでいた。


「最後にこうして三人で食事をしたのは、いつだったろうな?」


 本当はすべて覚えていたが、父親の発したその疑問に、木津は答えない。

 ただ、久しぶりに口にした母親の手料理は、思わず吐き気を催すほどに味付けが濃くなっていた。理由は分かっている。木津の生み出した家庭内の不和が、すべての原因だった。


 ボクシングを始めた息子が食卓を離れるようになってから、父親は深酒を嗜むようになり、母親はそれに応えるものばかり作っていた。味に文句をつけるべき自分が、その場にいなかったせいで、彼らの健康までも損なってしまったのだ。


 ボディーブローとはまた違う、みぞおちへ走る感覚に木津は目を閉じる。乾いた冷飯を箸で摘まむたび、瘡(かさ)蓋(ぶた)が張る前のやわらかな傷跡を、えぐり取るような痛みがした。

 気を紛らわせるように、彼は木津家の住人達から目を逸らし――、ふと、リビングの隅に置かれた花瓶に視線を奪われた。


 快気祝いの花にしてはずいぶんと質素な、小ぶりな一輪がそこにある。不思議がる息子の様子を察し、母親はおかしそうに笑った。


「あの花? 昨日、お友達が持ってきてくれたのよ」

「……え?」

「突然家にやってきて、『静川くんいますかー?』だって。ウチは木津です、って言ったら驚いてたわね。けど、お友達だって聞いて私もびっくりしたわよ」


 友達などいない。が、できるかぎり平静を装って、母親の話を聞き続けていた。


「それでその子から、あんたがボクシングで使ってる名前が静川だって聞いたのよ。入院してるって言ったら、『じゃあお見舞い』って、その花をくれたの。おかしな子だったわ」

「へぇ。その子、ほかには何か言ってたのかい? 母さん」


 二杯目の飯茶碗を受け取った父親が、さして興味もなさそうに会話に参加してくるのを、静川は冷ややかな思いで睥睨へいげいしていた。先ほどまで頭痛がしそうなほど濃い味だった食事が、今はもう無味無臭になっている。


 リビングの壁に掛けられた大時計は、乾いた音をたてて秒針を進めていた。


「『また来ますー』って、笑って帰ってったわよ。でも、やっぱり男の子よねぇ。あんまりお見舞いとかした事なかったんだわ。いくら綺麗でも、シロツメクサを持ってくるなんて」

「なんだ。シロツメクサだと、具合が悪いのか?」

「なによ、あなたも知らないの? 研二も知らないんでしょう? あー、ヤダヤダ。これだから男は! やっぱり、女の子が欲しかったわ……」


 うんざりした様子で食器を片付け出す母親の背中を、静川は複雑な気持ちで眺めていた。

 花など、どうでもいい。友達づらをした『なにか』が、自分の家を訪ねてきた。それだけで、静川には充分すぎる脅威だった。呑気な母親は、高校もロクに通っていない息子にも友人らしき存在がいると知っただけで、舞い上がってしまったのだろう。


 すると、彼女は皿や茶碗を抱えたまま、自分の息子と旦那をじろりと睨みつけた。


「シロツメクサの花言葉ってね、『復讐』なのよ」


…………そんな事だろうとは思っていた。


 心当たりは最低でも六人。いずれもプロのリングで静川と鎬を削り合った、暴力世界の住人達だ。

 

 強い人間は優しい。人々の間でまことしやかに語られるこの大嘘は、ハチの巣を突いた人間を穴だらけにするためのミスリードである。実際、プロの格闘家に喧嘩をけしかけた素人が半殺しにされる動画は、毎日のようにネットに投稿されているのだ。


 喉から絞り出した静川の声は、やはり凍えていた。


「……、母さんは、そいつに、俺が退院する日を教えたの?」

「なぁに? 教えちゃまずかったの?」

「そんなことないよ。ごめん、あんまり食欲ないや。……、ちょっと出かけてくる」

 

 平気な顔は、できていた。


 それでも外は、雨だった。

 


◆      ◆     ◆



 自分を狙っている人間がいるとすれば、どこで行動を起こすだろうか。


 具体的な想像を避けてきたこの最悪な状況に、普段からもっと考えを巡らせておくべきだったと、静川は歯噛みした。


 スポーツマンシップに脳みそを侵された馬鹿共には、まるで理解できないことだろうが、格闘技には品性など、ない。少なくとも静川はそんなファンタジーを信じられるほど、ボクシングを美しい競技だとは思わない。

 ルール通りに試合を行うだけで、ケガ人や死人が出る。敗者のすべてを否定するそんなスポーツに、遺恨を持ち込むなという方が無理な話である。


 なかには馬場のように、選手のスキャンダルを食い物にするような記者まで存在するのだ。ああいった連中にとって、選手の持つ感情は、客が格闘技を楽しむために用意されたストーリーの一部に過ぎず、現実ではなくフィクションとして捉えているのだろう。


 しかし、選手は人間である。

 静川でさえ、リングの外では自分の心の動きを完全に制御するまでには至っていないのだ。まして試合に負けたボクサーの心中など、想像するだけでもおぞましい。いくら周囲が綺麗事を抜かしていても、当人の腹の中にはどす黒い情念が渦を巻く。そういうものだ。


 小雨は、髪に弾かれていた。傘を差すほどでもない、穏やかな攻撃が続いている。

 コンクリートを張り巡らせたような灰色の空の下、静川の足は自然とジムへ向かっていた。何のことはない、これ以上、ものを考えるのが面倒になっただけだった。


 自分を狙う刺客がいるのなら、迎え撃つ。皮肉なことに、今の静川は入院する前よりもずっと体の調子が良いのである。身体を動かさなくても理解できるほど、あきらかに力がみなぎっていた。


 それでも、新海ボクシングジムに到着した途端、静川は思わず身構えてしまった。


「――、なんや、元気そうやんけ」

「あんたは……」


 ニットキャップにパーカー、ジーンズにスニーカーという服装は、汗臭いボクシングジムにはそぐわない。どちらかといえば、駅前でダンスをしているパフォーマーだと言われた方がしっくりくるだろう。新海ジムの前でスマートフォンをいじっていたのは、かつて静川がリングの上で葬ったはずの男、南泰平だった。


 彼の顎に刻まれた縫合痕に、静川はすぐに気がついた。


「その顎は?」

「アホか。お前にやられたんじゃ」

「そこまでやってないだろ」

「ちゃうわ。折れた顎つなぐのにプレート入れてん。もう取ったけどな」


 スマートフォンをボディーバッグに仕舞った南は、柔らかな動作で立ち上がった。

リングの上ではあまり気にしていなかったが、こうしてみると彼はずいぶん背が低く、静川とは十センチ以上身長差があるだろう。南がライトフライ級の中でも小柄な選手であったのは間違いない。


 小雨が、続いている。


「家に来たのはあんたか?」

「そうや。でも、そしたらお前、入院しとるやんか。なにしとんねん」

「あんたには関係ないだろ」

「過剰減量で意識不明とか、ありえんやろ。それ、プロとしてどうやねん」


 ありえない。


 それは静川が一番分かっている。

 分かっているが、他人に言われる筋合いはない。ジムの関係者でもない、赤の他人である南に、そこまで言われる筋合いは、なかった。


「プロ失格やね。」 


 瞬間的に沸き上がった怒りは、自己管理の甘さに対するものだったが、その矛先は南に向いていた。暴力の毒に侵された両拳が、何万回と繰り返した動作を即座に再現する。


 ワン・ツー。

 ジャブの軌道の跡を追って、追い打ちのストレートで頭部を撃ち抜く。素手で他人に殴りかかったのは初めての経験だったが、静川の体は驚くほど滑らかに動いていた。そして減量から解放されたパンチは、パワーもスピードも以前とは違っていた。


 だから、まさか自分が地面に膝をつく事になるとは、思いもしなかった。


「がっ!?」


 右側頭部を襲った衝撃は、あきらかに拳による衝撃を超えていた。一瞬目の前が真っ暗になり、気を失いそうになったが、静川はかろうじて意識をつなぎ直す。


 見れば、南はボクシングにはない構えを取っていた。


「いきなり何すんねん。蹴ってもうたやんけ」

「あんた、引退してキックでもやるつもりか」

「そんなわけないやろ。俺はもともと空手出身や」


 道理で、蹴り慣れているわけである。

 ボクシングにおける攻撃は、両手からしか飛んでこないが、そんな固定観念は、リングの外では通用しない。体格で勝る静川は、一度試合で勝った南に対して、喧嘩になってもある程度なんとかなるだろう、という思い込みがあった。


 だが、リングの外にいる南は強いのだ。減量していない静川よりも、はるかに。


 静川は、心拍数が異常に高まるのを感じた。


「――、お前ら、何やってんだ! 早く中に入ってこい!」


 頭上からした声に静川が目を向けると、二階の窓からあきれ顔を出していたのは新海だった。仲裁に入ったつもりだろうが、南にその気がなければ、殴り合いは続くだろう。先に手を出したのは自分であるという事実がすっかり頭から抜け落ちていたのは、あとから思えば、両手に染みついた毒のせいだったのかもしれない。


 雨が、少し強く降り出していた。


「なんか勘違いしとるみたいやけど、俺は喧嘩しにきたんとちゃうで?」


 構えを解いた南が差し出した手を、静川は握り返す気にはなれなかった。すると、南は少し疲れた様子でため息をつく。


「あのなぁ、もうちょい愛想ようせぇや。俺、今日から君のトレーナーやで」

「は?」

「お? ええリアクションするやんか」


 混乱のあまり、それ以上言葉が出てこなかった。呆然とする静川の後ろに回り込んだ南は、馴れ馴れしく背中を押してくる。


「まぁ、詳しい話は中で聞いたらええ。いくで」

「お、おい……」


 両手で押されているだけだったが、静川に抵抗する気は失せていた。南は小柄な体格に似合わない力強さで、単純な力比べでも勝ち目がないのは明らかだった。


 新海ボクシングジムはジムが一階、二階が生活スペースという構造なっている。安普請のために、夜遅くまでジムで練習をしていると二階に音が響くのだと、新海夏芽が病院でぼやいていた。


 初めて新海ジムを訪れた南は、物珍しそうに内装を見回している。

 トレーニングスペースを限界まで広くとっているせいで、事務所の狭苦しさが際立つが、普段は新海宏の喫煙室にすぎない。当然ながら非喫煙者である静川は、あんな鼻が曲がりそうな臭いの部屋で話し合いなどまっぴら御免だった。しかし気を利かせた新海夏芽が、リングサイドにパイプ椅子を用意してくれていたので助かった。


「初めまして、南です。会長の娘さんですか?」

「ええ、新海夏芽です。よろしく、南さん」


 余所行きの笑顔を作る新海夏芽に、静川は空恐ろしいものを感じたが、口には出さなかった。一方、彼女と握手を交わした南は、上機嫌で椅子に尻を預けている。


 理想的なファーストコンタクトを済ませた二人とは対照的に、二階から降りてきた新海は不景気顔だった。この男、酒が切れるといつもこうなのだ。頭が冷静になる代償として、人相が悪くなるわけである。

 事情を知らない南が妙な勘違いをしないかと心配だったが、静川の杞憂に終わった。すでに関西弁男の興味は、娘の夏芽に向いているらしい。


「あー、静川。今日からこの南君が、お前のトレーナーになる」

「必要ない」

「ケッ、言うと思ったぜ。が、今回は諦めろ。理由は、言わなくても分かるな?」

「チッ……」


 静川はこの日一番のストレスを味わっていた。


 新海の言葉は、これがJBC――、日本ボクシング連盟から下された是正処置の一環である事の裏付けだった。静川を転級させただけでは飽き足らず、これからはトレーニングにまで口出しをするというわけだ。


 しかし、ストレスを感じているのは新海も同じようだった。例の失神騒ぎで、プロボクサーを抱えるジムの会長として、連盟から監督不行き届きをかなり非難されたのだろう。


 加えて、バンタムへの転級措置はともかく、トレーナーを専用に雇うとなれば、新海の懐もただでは済まない。金にがめついこの男が、これほどの選択肢を取らざるを得なかった背景を思えば、失態を犯した張本人である静川が文句をつける筋合いはないだろう。


「と、いうワケや。よろしくな、静川くん」

「どうしてアンタなんだ?」


 南泰平は、プロボクサーとして将来を嘱望された逸材だった。それをあんな反則まがいのボクシングで破壊した、その当事者である静川のトレーナーを引き受けるなど、まともな神経とは思えない。


 静川の疑問は、新海も娘の夏芽も予想済みだったようだ。かといって、静川と南の間を取り持つ気もないらしく、親子揃って黙りこくっている。


「恨んでるだろ? 俺を」

「いや? べつに」

「なんでだよ」

「真剣勝負やんけ」


 あっけらかんと答える南は、嘘をついているようにはみえなかった。


 真剣勝負だったから。


 それがすべてだ、と南は言う。だが静川には衝撃だった。

 

 練習に対しても試合に対しても、静川には誰より真剣に取り組んできたという自負がある。事実、彼が戦ってきた対戦相手は、彼よりも覚悟が足りなかった為に、敗北の憂き目に遭ったのだ。それは、自ら勝利を手放した野々見沢でさえ例外ではない。彼らは真剣さの不足から、能力、戦略など、様々な面で静川にアドバンテージを許してしまい、彼に勝利を譲ってしまったのである。


 だが、その静川も予想できていなかった。それは彼が戦ったボクサー達も、試合を真剣勝負の場として捉えていた、という事だ。自分だけがボクシングにオールインしていると勘違いしていた静川の胸に、この事実は重くのしかかった。


「あんた……、本当に俺を恨んでないのか?」

「そう言うとるやん。なに? 恨んで欲しかったん?」

「俺のトレーナーになる意味がわからない」

「あー、そこか。はよそう言えや、まわりくどいやっちゃの。よっしゃ、分かった」


 南は椅子から立ち上がると、新海の持っていた茶封筒を指さした。


「会長。それ、俺の契約書ですか?」

「あ、ああ」

「あとから説明だけ聞きに戻るんで、その時にもらいますわ」


 南は隣に座っていた静川の腕を掴むと、彼が何か言おうとする前に、無理矢理出口まで引っ張っていく。突然のことに驚いた新海は、アルコール切れの影響もあってか、かなりの大きさで怒鳴り声をあげた。


「おい! どこに行く気だてめえら!」


 静川は見た。

 新海親子に振り向いた南の目が、一瞬だけ、リングの上でみたあの鋭さを取り戻すのを。


「――、ちょっと腹減ったんで、飯食ってきますわ」


 

◆      ◆     ◆


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