第13話『プロットの中の空白』
中華料理屋。
それはボクサーである静川にとって、最も縁遠い場所だった。
ラーメン、チャーハン、餃子にスープと、絵に描いたようなセットメニューが運ばれてくる。すべて南が勝手に頼んだものだったが、自宅での昼食にほとんど手を付けていなかった静川に、それらは耐えがたく食欲を刺激した。
ボクシングを始めた七年前から、静川はこれらの食物を一度も口にしていない。
プロライセンスを取ってウエイトを気にするようになってからは、食事というものの捉え方そのものが変わった。それは体を作り、動かす為のガソリンであり、脳や食欲を満足させる為のものではなかったからだ。
「頂きます」
行儀よく手を合わせる南を、静川はまだいぶかしげに見ていた。ラーメンセットは二つ頼まれていて、一つは南の、もう一つは静川の前で湯気をあげている。
「何してんねん。冷めるで」
餃子をほおばった南の一言で、静川はようやく割り箸を手に取った。
「……、いただき、ます」
震える手でラーメン鉢からレンゲをすくい上げた静川は、何の変哲もない、ありふれたスープを口へと運ぶ。
旨かった。こんな、大して旨くもないはずの安い醤油ラーメンが、精神を激震させるほど旨かった。
そして一度口にしてしまうと、静川はもう戻れなかった。一分一秒を惜しむように麺をすすり、スープを飲み、餃子やチャーハンを次々に口内へ放り込み、あとはひたすら噛み締めていた。
「う……。ううう……ッ」
違う。何もかもが違っていた。身体を癒し、体重を増やすための病院食では得られなかった、この毒のような快楽!
うまい。うまい。うまい!
そう思うたび、悲しみが全身に広がっていくのを静川は感じていた。過酷な減量に耐え続け、試合に勝ち続け、さらに回復もままならないほど自分を追い込み続けたあの地獄の日々が、こうして口の中でほどけていく美味と引き換えに、失われていく気がしたからだ。
これから自分は、どうなってしまうのだろう?
一口、また一口と食事を進めるたびに、そんな不安が静川の胸の内側に染みを作っていく。
「おもろいやっちゃなぁ。ここのラーメン、そんなに美味いんか?」
静川の反応を不思議がる南は、理解できない様子でラーメン鉢を見下ろした。
醤油と油の浮いたスープはいかにも軽薄で、大衆食堂にふさわしい安価な材料で作られているのだろう。付け合わせのスープも、お情け程度にラーメンスープに加水して味を調えているだけらしい。
だが静川には、それでもうまいと感じられた。手は、まったく止まらない。
静川の鬼気迫る食欲に、南はそれ以上、茶化すのをやめた。
「…………お前、限界やったんやな。ほんまに」
「何度も……、何度も死ぬかと思った。食べる事自体が、苦痛だった……」
本音だった。
ボクシングをするために、最低限の食事はしなくてはならない。だが、食事をすればするほど静川の心は死んでいった。必要以上を求めてはいけない、そんな修行僧のような禁欲を、彼は七年もの間続けてきたのだ。欲求本能を、精神力で殴り殺して。
箸を休めた南は、つまらなさそうに水の入ったコップを傾けている。
「えらい前時代的やな。一応、あの会長のおっさんがトレーナーしとったんやろ? 栄養指導は?」
「自分でやってた」
「はーん。じゃあ、あのおっさんトレーニング専門か。根性系?」
「いいや、トレーニングメニューは自分で決めて――」
「ちょ、まてや! あのおっさん、なんもしてへんのか!?」
「ヤツは試合を組んでいた」
南は、信じられないものを見るような目をした。
彼の驚きを、静川は意外には思わない。ボクシングがチームスポーツであるという概念は、現代では常識以前の話なのである。通常なら、リングに上がるボクサーの負担は最小限に抑えるものだ。選手が試合に集中できるように、その他のフォローを細かに行うのが契約ジムの仕事なのである。
新海宏も、はじめは当然そのつもりだったのだろう。しかし、静川は頑なにそれを拒否した。それが今の新海ジムにおける、いびつな人間関係を生み出したのだ。
新海ジムに就職したらしい南はどういうつもりなのかは知らないが、静川としてはこれ以上、ボクシングを通して他人との関りを持ちたいとは思わない。
最期の餃子を口に放り込んだ南は、皿を見たまま言った。
「これからは、俺がトレーナーや」
「断る」
「体格で勝てる状況は、もう終わったで。次の試合はバンタムや」
これ以上ないほどの、正論だった。
ウエイト制を導入している格闘技の中でも、ボクシングは特別な競技である。
静川が元々属していたライトフライ級と三階級上のバンタム級では、ほぼ別世界なのだ。そこには、ナチュラルウエイトではさらに上の階級に属するはずの選手達が、文字通りひしめき合っている。
静川とて、ボクシングを舐めているわけではない。彼がライトフライ級での
デビューを決めたのには、ちゃんとした理由があるのだ。
人間は、人種によって平均的な体格に差が生じる。その差が、各階級における選手人口の偏りを生んでいるのだ。大雑把にいえば、比較的骨格の小さなアジア系は軽量級に、逆に平均身長が高くなる欧米系は、重量級の選手が多い傾向にあるといった具合である。
さらに、重・中・軽量級のなかでも、人口が集中しやすい階級というものが存在し、激戦区としてボクシングファンからは人気があるのだ。
そして静川がこれから参戦するバンタム級は、まさに軽量級の最激戦区だった。
「お前もあのおっさんも、かなり嫌われとるみたいやな。いくらなんでもバンタムて……、JBCも酷なことするやん。実質、死刑宣告や」
「?」
「お前、知らんのか? 今のバンタム級の世界チャンピオン……」
「あ……」
静川はやっと、南の言っている意味に気がついた。
ボクシングの一般的な世界チャンピオンとは、JBCが認可している世界の主要四団体の王座の事である。WBA・WBC・IBF・WBOの四団体に、各一本ずつのベルトとチャンピオンがいるわけだ。世界戦線で戦うボクサー達は、ひたすら勝利を重ねることで世界ランキングを上げ、最終的にこれらのベルトを狙うわけである。
そして現在、バンタム級に存在するすべてのベルトは、たった一人の日本人が独占している。海外プロモーターとの大型契約、全戦全勝をはじめとする数々の記録樹立を成し遂げた彼は、日本ボクシング史上、最強最後の男とまで称されるスーパーボクサーだった。
戦うまでもない、今の静川ではたちどころに倒されてしまうだろう。
「そう深刻にならんでも、あと二、三年の我慢や」
「どういう意味だ?」
「そらお前、あんだけ強かったら、そのうち対戦相手もおらんなるやろ。めぼしいトップボクサー食い尽くしたら転級や。プロモーターも、その方が売りやすいからな」
「なるほどな」
「けど、安心しとる暇はないで。いざその時が来たら、お前も速攻で世界獲るぐらいのランキングにおらんと、話にならんからな。ジムの件も考えときや」
「移籍、か……」
南は頷いた。
人気階級の世界戦は、巨額のマネーゲームになる。誰もが知るところだが、そこで動く金は、なにも選手に配当されるファイトマネーだけにとどまらない。プロモートする組織は興行の運営利益、放映権など様々な収入を得るわけである。
ゆえに経済・政治力に乏しいジムは無視されがちだ。たとえ選手が世界の上位ランカーであっても、簡単には世界戦を組んでもらえない。逆にそうした力が強いジムに所属していれば、下位ランカーでいながらも、選手にはチャンスが回ってくる。何度でも、だ。
理不尽にも思えるが、これがプロボクシングの現実なのである。
「あのジムで直にベルト狙うつもりなら、こっから先は全戦全勝全KOでもせんと話にならんで。ハードパンチャーでもないお前がバンタムでそれやるんは、さすがに無理や」
自身が国内でも有名な天久保ジムに所属していた経緯もあって、南はそのあたりの事情に精通しているようだった。
「ま、今日就職したばっかりの俺が言うことちゃうけどな」
「あんた、本当に良くしゃべるな」
「関西人やからね」
笑いながら、南は静川の皿から餃子をひとつ奪っていった。
静川も油断をしていたつもりはなかったが、存外、彼の動きが素早かったのだ。
だが、この何気ないやり取りが、静川にはひどく現実的に思えた。奪われたのが餃子だったから良かったものの、ひとつ間違えれば、それは世界戦のチャンスだったかもしれない。
「結局、俺はあんたと組むことになるんだろうな」
半ば諦めたように呟く静川の対面で、南が笑いをかみ殺していた。
腹が立ったので、静川はちゃんと奢ってもらった。
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