第11話『プロットの中の空白』


 目が覚めて、はじめに見る顔が新海夏芽だったのは、意外だった。



「……ど……う、なっ……て、る?」



 喉が渇いていて、うまく喋る事が出来なかった。寝過ぎたせいか、それとも何か重大な事故に巻き込まれたのか、とにかく体が動かない。左腕に点滴が繋がれているところをみると、おそらくここは病院なのだろう。


 自宅のベッドとは違うシーツの匂い。消毒を徹底された潔癖感が、白々しいクリーム色の床や壁から見て取れる。だが静川にとっての問題は、この状況にふさわしい登場人物が、なぜ家族ではなく新海夏芽なのかという点だった。


「ど、う……なって、る……?」

「ああ。……、覚えてないんだね、静川」


 パイプ椅子に腰かけていた彼女は、憐れむような視線で静川を見た。


「あんた、倒れたんだよ。野々見沢との試合のあと、控室で」


 どうやら家に帰ったという記憶から、夢の始まりであったらしい。しかし、よくよく考えてみれば、リングを降りてから自室までの時間が完全にすっ飛んでいる。

 これまでにもあった短時間の記憶喪失とは、明らかに異なる状況だった。


「な、んで、あ、んたが……、ここに、い……、る?」

「水、飲んだら? 声出てないよ」


 読みかけていたらしい文庫本を閉じて、新海夏芽は机の上の水差しを手に取った。

 病人扱いされるのを嫌った静川は、彼女の手からそれを奪い取ろうとするが、不思議なことにうまく体が反応しなかった。

 驚きのあまり、半分開いたその口へ、水差しが突っ込まれる。生ぬるい蒸留水が食道を流れ落ちていく感覚に、静川は眉をしかめたが、どうにもならない。身動き取れずにいる猛獣を眺めた新海夏芽は、おかしそうに笑った。


「七日間も眠り続けてたんだから、すぐに体が動くわけないでしょ」

「な、七日……ッ?」


 やはり、今回の気絶はただ事ではなかった。

 試合のダメージによるものではない。これはあきらかに減量のツケである。常軌を逸した食生活――からの、過酷なトレーニングが、とうとう静川の体のバランスを崩壊させてしまったのだ。


「次は……、もっと、うまくやる」

「その『次』ってのは、ボクシングのこと?」

「ほかに何がある?」

「残念。もうライトフライじゃ試合できないよ。次からあんたはバンタムに転級」

「な……にッ!?」


 静川の驚きは予期していたらしく、夏芽は視線も冷ややかに言葉を重ねた。


「倒れたのが控室ってのは、まずかったね。救急車が来るまで居合わせたリングドクターが、あんたの事を診てたんだ。わかる? ドクター・ストップだよ。コミッショナーには今回の事故の顛末が、ウチの父親から報告されてる」

「是正処置が、下ったのか?」

「そういうこと」


 近年になって、格闘技における計量時の事故は頻発している。

 過度の減量や水抜きによって、規定のウエイトに達する前に、選手の心身が限界を迎えてしまうケースが後を絶たないのだ。

 ゆえにボクシングでは、コミッショナーが選手の安全を確保できなかったジムに対して是正勧告を行う。多くの場合、それは選手の体格を考慮したうえで、適正階級への転級という形になるのである。


 実は静川も、試合前から自分が選手たちの間で噂になっているのは知っていた。なにせ、身長が百七十センチを大幅に超えてしまっているライトフライ級のボクサーだ。注目を浴びるのは当然である。


 どう考えても体格に合っていない階級で、しかし静川はこれまで、一度たりとも計量をオーバーしたことはなかった。鋼の意思で守り切った日々の節制と、人間をやめる覚悟で挑んだ減量が、静川大樹の肉体を奇跡的にこの階級に押しとどめていたのである。


 だが、野々見沢との一戦は、静川の中で張りつめていた緊張の糸をぶち切っていた。あの男のジャブが、すべてを終わらせていったのだ。


 窓ガラスに反射した自分の顔は、思ったよりも綺麗になっていた。ただ、試合後七日が経っているにしては、全身に刻み込まれたパンチのダメージが、今もまだ静川の内側で疼いている。


 感慨にふけっていた静川に、新海夏芽が恐ろしい事を言い出した。


「でも、このままだとあんたは引退だけどね」

「どういう意味だ?」

「そりゃそうでしょ。自分の子供がこんな無茶苦茶してるって分かったら、普通の親はやめさせるもんだよ。ここ三日、親同士がずっと揉めて――」


 彼女が言い終わらないうちに、病室のドアは開かれていた。


 はじめに入ってきた医者らしき男……、だけならば良かったのだが、その後ろから両親、赤い顔をした新海がぞろぞろとなだれ込んでくる。

 面倒ごとに巻き込まれるのを察知した新海夏芽は、机の上の文庫本をさっと拾い上げ、読みかけていたページを開き直していた。


「気が付いていたのなら、ナースコールを押して欲しかったね」


 少し困った風に、それでいて穏やかに、白衣の男は静川にではなく夏芽に言った。彼女は口を閉じたまま会釈する。

 こちらの様子に気が付くや否や、二親は雨あられのごとく言葉を浴びせかけてきた。しかしそのほとんどは、静川を心配するものではなく、人様に迷惑をかけるなという叱責に近い代物だった。いかにも人の親らしい、常識的な、模範演技だった。


「ちょっと、聞いてるの? 研二!」

「まぁ、落ち着いて下さい。お母さん。息子さんは目が覚めたばかりで、まだ状況がよくわかっていないんでしょう。これから診察しますので、みなさんは一度外でお待ちください」


 静かに、しかし拒否を許さない響きがあった。不満顔で父親に連れ出されていく母親、新海夏芽も自分の父親と退室していくが、あとに出ていった二人は「うまくやれよ」という視線のメッセージを残していった。


 行列の最後尾にいたらしい看護婦が、手際よく点滴のパックを入れ替えていく。その間、窓の外に見える景色から、静川はここが、ジムからそう遠くない場所にある県立病院だと結論付けていた。


「さっきはああ言ったけれど、頭はハッキリしているんだろう? 木津研二君」


 断定的な口調だった。


 そう年を取っているようにもみえないが、人間を診る仕事を続けていると、嘘や演技の違和感に対して、敏感になるのかもしれない。

 医者は眼鏡をかけていた。レンズ越しに歪んだ自分を見られているのかと思うと、。とはいえ、ここは素直に答えていた方が身のためだろう、その程度の判断力は残していた。


「はい」

「自分がどうなったか、わかる?」

「試合後に、控室で気絶したと聞きました」

「うん。じゃあ、次。なんでそうなったか、わかる?」

「……、減量です」

「わかっているんだね?」

「はい」


 医者は、軽く咳払いをした。


「親御さんや、ジムの方々の前では言いづらかったんだけど、正直、君は一度ボクシングから離れた方がいいと思うよ」


 そう来るのは分かっていたが、木津も、はいそうですかと頷くわけにはいかなかった。体調が戻ったら、すぐにジムへ戻ってトレーニングを再開しなければならない。


 バンタムに転級したからといって、対戦相手が手を抜いてくれるわけではない。

 むしろ、敵は今までよりもはるかに強くなるのだ。ライトフライから、フライ、スーパーフライ、そしてバンタムと、三階級も上げるのだから、体格では木津とそう変わらない連中を相手にすることになる。苦戦は必至だ。


「ボクシングは続けます。階級を上げるので、問題ありません」

「階級を上げても、また減量はするだろう?」

「そうですね」

「君の体、もう滅茶苦茶だよ。腎臓に肝臓、色んな臓器の活動を示す数値が落ちてるんだ。休養を取って、体が元通りになってから再開した方が絶対にいい。いいかい? 木津君。格闘技の減量っていうのはね、殴られることよりもずっと危険なんだよ」


 それも知っている。


 だからこそ木津は、『時間切れ』になる前に、目的を遂げなくてはならないのだ。


 答えない木津の視線が、布団に落ちたまま上がらない。医者が椅子を軋ませて、聴診器を差し向けると、促されるまま、彼は検診衣をはだけていた。


「ん、今は大丈夫みたいだね」

「今は?」

「不整脈さ。心当たりあるだろう?」

「ありますけど、別にいいです」

「あのねぇ、それだけじゃないんだ。君がどうやって試合前の健診をパスしていたのか知らないけれど、あんまりこんな負担が体に続くと、将来的に不妊の原因になったりもするんだよ?」

「知ってますよ。自分で調べたこともあるんで」


 今度は、医者の表情が硬くなった。


 おかしな話ではない。木津は格闘家であり、最近は自宅で検査するキットも販売されている。そして彼の発言は、自分の精子検査の結果を正確に理解している、という事だった。

 過度の減量は、精子量や精子活動の低下をもたらすのである。フィジカル面で相手より有利を得るために、過酷な減量を強いられる格闘家には特に多い症例だ。


 数年以上にも渡って、異常減量を続けた体に蓄積されたダメージは、当たり前の現実を木津研二に突き付けていた。彼はもう、生殖機能のほぼすべてを失っている。


「その……、ご両親には?」

「言ってませんし、言わないでください。お願いします、先生」

「何を言ってるんだ、命に関わることだって言ってるだろう? まだ未成年なんだ、黙っているわけには――」

「――――?」

 

 木津の全身から、氷の気配がした。


「命なんかいつだって賭けてきた。あんたにも試してやろうか?」

「…………」


 隣で作業していた看護婦の顔色がサッと青ざめたが、医者は優しい口調のまま、彼女に「続けて」とだけ伝えた。しかし、作業を再開した看護婦の手の震えは止まらない。

 まだ体も満足に動かせない。だが、木津研二はもう静川大樹になっている。ベッドの周囲には、これまで彼が何度もリングの上で見せてきた、あの冷たい殺気が漂っていた。

 医者はカルテに目を通すふりをして、静川から目を逸らしていた。


「……もうここに来たくなかったら、せめてちゃんとした栄養指導も受けなさい」

「ありがとう、先生」



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