第10話『君に繋がれて』
試合中に水がうまいと感じたのは初めてだった。
新海はいつも通り、なんのアドバイスもせずに、黙って静川の太股をマッサージし続けている。だが、彼も今はそれがありがたかった。とてもではないが、野々見沢はつけ焼刃の戦術が通用する相手ではない。
その横で
「……そういえば、あんた、いくつだっけ?」
話しかけたのも、彼女の顔をまともに見たのも静川は初めてだった。試合中に聞くような内容でもないが、彼はなんとなく気になって、尋ねてしまったのだ。
「あんたより年上よ。十九」
「ふぅん」
「それよりあんた、このままだと負けるけど。どうすんの?」
「ああ、そうだな」
「おい、
一分間のインターバルも、これで四回目だった。
新海はひたすら静川の脚をもみ込み、筋肉の
ただし、絶望的な状況であることに変わりはない。軽いとはいえ、野々見沢のジャブは人知を超えた完成度に達している。当たる、効く、そして倒せるジャブなのだ。
結局、何の作戦も立てられず、セコンドアウトがアナウンスされた。
これまでのインターバルと同じく、自分の仕事はこれで終わりと言わんばかりに、新海はそそくさとリングを降りていく。いかにも無責任な、いつも通りのジムの会長である。だが、わずかに軽さを取り戻した静川の両足は、まぎれもなく新海の努力の跡を物語っていた。
まただ、と、静川は思った。
また、自分以外の誰かの事を考えている。
試合中は野々見沢が、インターバル中には新海の娘が、そして今は新海が、静川の頭の中を支配している。
いつもそうだった。
静川は常に、自分以外の、誰かの事を考えている。反面、彼は自分自身に目を向けたことがない。体は目的を達成するためだけに存在する入れ物に過ぎず、そこに何を収めるのかは重要ではないと定義してきた。
だがそれは、はたして正しかったのか?
容器に入り込んできた他人が、勝手気ままに支配しても良いものなのか?
絶対に、違う。
論理的思考から抽出された結論ではない、直感的な暴論が脳裏を駆け抜ける。成人では体重のわずか二パーセントに過ぎないヒトの脳、それが収まるべき頭蓋の中に、他人の存在を許すべきではない。そこに用意されたたった一つの椅子には、静川大樹こそ相応しい。
静川の視界には、一人のボクサーが映っていた。
この二か月間、この男の事ばかり考えさせられてきた。言葉さえ交わしたことのない赤の他人、野々見沢清人。
いい加減、消してしまおう。頭蓋の中が、この男の臭いで溢れる前に。
わずかに蘇った足に鞭打って、野々見沢と距離を取る。すでに機動力は逆転しているため、相手はすぐに射程を取り戻すだろう。問題はこの後だった。
リーチの長い野々見沢は、その恵まれた射程を目一杯使ってジャブを打つ。
ここまでの四ラウンドで分析したパターンによれば、ロングレンジから打たれるこの男のジャブは、どちらかといえばストレートに近い威力とフォームで放たれる。自分だけが一方的に手を出せる安全圏からの攻撃なのだから、本人さえも気づかないうちに、自然と威力に意識が向いてしまうのだろう。
それは人間としては当たり前の反応にも思えたが、相手は真性のジャブ中毒者、野々見沢清人である。静川はそこに、この男の持つ人間味を発見した気がした。
近距離戦ではけして使用されることのない、高威力、長射程のジャブが飛ぶ。
ぐにゅり、という感触がした。
相手よりもスピードが劣勢なボクサーがとるべき手段の一つに、行動距離の短縮がある。
ロングパンチよりもショートパンチの方が、同じ拳速でも相手への攻撃到達時間の上では優勢になるからだ。その為にインファイトを仕掛けるボクサーも多いが、今回の場合は相手が悪い。
野々見沢はボクシングスキルの中では最も早く、そして短いパンチであるジャブを打つからだ。ならば、ジャブよりも軌道が短い行動をとるしかない。静川はためらわなかった。
パンチを打つ『腕』よりも短い、静川の『肘』が、野々見沢の左拳をグローブ越しに破壊していた。
エルボー・ブロック。
野々見沢の顔にはじめて現れた驚愕の感情を、静川は見逃さない。破壊した拳を力任せに払いのけ、右フックをねじり込む。次の瞬間、テンプルを掠めた拳に反応して野々見沢が頭部をガードするのを先読みし、静川は右肋骨下へボディーブローを放り込む。
しかし、機動力で静川をはるかに上回る野々見沢は、ボディーブローをスウェーバックで、そこから続く右フック、左ストレートを左右のジャブでパーリング、すべてを完璧に
起死回生のコンビネーションを完封された静川は――、この瞬間、己を支えていた集中力を全損した。
終わった。今のが本当に、最後のチャンスだった――。
試合前に立てていた作戦通り、ロングパンチを打たせて拳を潰すことには成功した。が、肝心の攻撃が躱されてしまっては意味がない。作戦遂行のために受け続けた膨大なジャブが、静川のパンチから鋭さを奪い去っていたのだ。
野々見沢はもう、試合前の陰気な顔に戻っている。
もう二度と、野々見沢がロングパンチを打つことはないだろう。
残り二ラウンドと一分半、距離を取りながらディフェンスに徹するだけで、静川の負けだ。もはや、この超人的なボクサーを追い続ける足も、KOするだけのパンチも彼には残っていない。
完敗である。だが自分の夢が破れた衝撃よりも、静川の心を支配していたのは野々見沢への称賛だった。
たとえ世界中探し回っても、この男以上のジャブの使い手がいるとは思えない。だから、こいつは絶対に世界チャンピオンになるだろう。静川は心底そう思った。
勝敗は決したが、試合はまだ続いている。せめて最後は思い切り、あのジャブで粉々になりたい。ボクサーとしてリングで戦う最後の数分を、静川は覚悟した。
拳を握るだけの力は、残っている。最後まで、やる。
ところが、静川の目に不思議な光景が映った。
ファイティングポーズを解いた野々見沢が、レフェリーに歩み寄っている。
そして、彼はこう言った。
「き、棄権」
レフェリーも、静川も、野々見沢の発した日本語の意味が理解できなかった。
呆然とする二人を尻目に、リングを降りようとする野々見沢。その様子から異常を察した観客達もざわつき始めた。コーナーで待ち構えていた彼のセコンドだけが、普段、静川を相手にする新海のように怒鳴っている。
「ふざけんなッ! 続けりゃ勝てんだろうが! やれよ!」
野々見沢は首を振った。
「ジャブ、う、打てない。も、もう、や、やる意味、な、ない……」
「いやだから! このまま逃げれば勝てるだろ?」
「も、もう、か、帰る」
セコンドを押しのけてリングを降りてしまう野々見沢に、今度こそ観客からの怒号の嵐が吹き荒れた。
館内アナウンスが「物を投げないで下さい」だのと、お利口な要請を繰り返していたが、すべてはあとの祭りである。リング上で構えていた静川の方にも、観客の怒りの矛先は向けられた。罵声と共に客席から投げ込まれたペットボトルや椅子が、頭上に舞う。
だというのに、レフェリーはわざわざ静川の手を掴み上げ、勝利をコールした。
もちろん、そんな宣言を聞いている者は一人もいなかった。勝利したはずの静川も、野々見沢の背中を見つめるだけで、なにも言葉が出てこない。
殺気立つ会場から逃げ出したい新海は、早くリングを降りるよう静川に叫んでいた。その後ろでは、もう一人のセコンドである新海夏芽が、涼しい顔で荷物をまとめている。
野々見沢は、行ってしまった。
◆ ◇ ◆
自室のベッドに倒れ込んだ後も、静川はまだ試合の事を考えていた。
終わったはずの夢が未来に繋がったのだから、喜ぶべきなのだろう。
静川が素直に喜ぶことのできない理由は、ただひとつ。今日の試合は完全に自分の負けだった、これに尽きる。野々見沢には四ラウンドもかけてサンドバッグ扱いされたわけだが、対してこちらがまともにヒットさせたのは、開始直後の右フック一発きりだった。誰がどうみても、静川の負けである。
野々見沢清人。あいつは一体、何者だったのだろう?
あの男にとってのリングは、ボクシングはどういう意味を持っていたのだろう?
少なくとも、静川の知るボクサー像とは、かけ離れた人間だった。そして野々見沢の常軌を逸したボクシングテクニックとセンスは、同じボクサーである静川を完璧に破壊していった。
柔らかな布団の感触に沈みながら、静川は天井を見上げていた。
頭の中にはずっと、野々見沢の顔が浮かんでいる。
試合を終えた今ならわかる、あの男は静川よりもはるかに人間を辞めていた。そして、悪魔との取引で手に入れた力のすべてを、たった一つのパンチにつぎ込んでいたのだ。
静川自身も、いつか彼のようになってしまうのだろうか。
レコードはついに6戦6勝。次戦はいよいよA級ボクサーとしてリングへ上がる事になり、日本ランキングで鎬を削るような猛者達を相手にしなくてはならなくなる。つまり、それに応じた強度のトレーニングが必要になってくるのだ。もちろん、悪魔との取引も再開しなくてはならないだろう。
静川は、失うことを恐れない。ただ、失うもの自体が無くなって、悪魔がそれ以上の取引に応じなくなるのが怖かった。
自分のすべてをボクシングに捧げ切ったその時、はたして静川は野々見沢ほどの強さを身に着ける事ができるのだろうか?
今日の試合内容をみるかぎり、それは非常に難しいように思われた。
だが静川は、安易に才能が欲しいとも思わなかった。たとえ換金率が悪くとも、努力を注ぎ続けることで結果につながるのなら、そんなものは必要ない。
いつだって、人間は自分の持ち札でしか、現実と勝負できないのだから。
静川は、野々見沢を思う。
あの男は破壊した。
静川のボクシング、肉体も精神も、なにもかもを壊していった。
静川がただひとつ頼みにしていた、逆境に対する自信さえも。
おまけに野々見沢は、勝っていたはずの試合を放棄するというとどめまで刺していった。心臓だけ、かろうじて動いているから生きている。こんな中途半端な試合結果を押し付けられるくらいなら、いっそ一思いにノックアウトされた方がマシだったとさえ、静川は思ってしまう。
まさに生殺しだった。
「う、うう……っ」
空腹で、内臓が引き
天日に干された布団の匂いを吸い込んで、静川は自分の体をへし折るように両腕で抱え込んだ。
「うううう……」
ピアノの音がする。
これは幻聴だ。
みぞおちからライオンの唸り声がした。
これは現実だ。
ピアノも鳴っている。
幻聴だ。
みぞおちからピアノの音がした。
……、これは、幻聴なのか?
いつの間にか眠ってしまったのかもしれない。だとすればこれは夢だろう。腹の中からピアノの音くらい鳴っていたとしても、何の不思議もない。
それは痛みのせいだったのか、疲弊しきった精神が見せた最後の危険信号だったのか、とにかくピアノは鳴り続けていた。
そのうちに、ピアノの音源が自分の中からではない事に静川は気付く。それは打ち上げられた花火のように、全身にぶち当たった大音量が起こす感覚に似ていた。
体も脳も、ごちゃごちゃに、なる。
深呼吸をひとつ、ふたつ。全身のバイタルが落ち着くのを待ってから、静川は足元から正面へと視線を持ち上げた。
すると、そこにはやはり、あの日の夕焼けが広がっていた。
「――、まだ弾いてるよ、あいつ」
彼は不思議そうに、音楽室を眺めていた。
ドアの隙間から、グランドピアノが見えている。いつものように、彼女はあの綺麗な髪を揺らしながら、課題曲を弾いているのだろう。
コンクールが近いとかで、放課後に練習させてもらっているのだと、彼女がクラスの女子に話していたのを思い出す。邪魔をするのも悪いと思い、俺は彼を教室まで引っ張っていった。
「別に、邪魔してたわけじゃないだろ?」
「俺たちにその気がなくても、向こうが気にするかもしれないだろ」
「はーん」
「なんだよそれ?」
「なんでもない。ほら、早くしようぜ」
ランドセルから取り出したカードの束をシャッフルして、俺達は互いのそれを交換した。ゲームを始めるときは、お互い不正ができないように、こうして相手のカードの束をカットしてから返すルールだった。
静川は覚えが早い。このゲームを初めてまだ三週間ほどしか経っていないはずだったが、すでに自分以外のクラスメイトでは、まともに彼を相手にできる者がいなくなっていた。
一方で、流行りものに敏感だった自分は、クラスの中では最も早くこのカードゲームに手を付けていた為、静川に対しては一日の長がある。ゲームはいい勝負に見えてはいたが、勝つのはほとんどこちらだった。
静川はめげずにネクストゲームを挑んでくる。傍目には、いかにも愚かな玉砕行為だとしか評価されていなかったが、それでも何ゲームかに一回は、彼も勝利を手に入れた。
このしつこさが、彼の最大の長所なのだろう。静川もそんな己の性質を理解していたようで、あきれるほどの反復練習を繰り返し、以前はスポーツでも優秀な成績をあげていた。
そういえば、音楽室でピアノを弾き続けている彼女も努力家だ。となると、遊びにかまけている自分だけが、妙に子どもっぽい気もする。
ゲームには、また勝った。
静川はむっつりと考え込むような仕草をしたが、またすぐにネクストゲームを仕掛けてくる。今日も明日も明後日も、同じ夕暮れの中で、彼女のピアノを聞きながら、彼と遊ぶ事ができると思っていた。
なにより、それが静川にとっての救いになるはずだと、あの時の自分は本気でそう思っていたのだ。
「おい、ぼーっとするなよ、静川。お前の番だぞ」
「あれ、静川? 次はお前の番じゃないか?」
「何言ってんだよ、静川は……」
「……、っていうかさ、お前、だれ?」
「だから何言ってんだよ。静川は――」
「とっくに死んでるだろ」
頭痛がした。
これ以上、何も考えたくない。早く目を覚まして体を動かしたい衝動に駆られた。
サンドバッグを八つ裂きにするほど殴りまくって、記憶も現実も粉々に砕いてやりたかった。
だが、
『君に繋がれて』 終
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