第9話『君に繋がれて』

「――おい、その辺にしとけ静川。拳がいかれちまうぞ」


 控室の壁にパンチを打ち込んでいた静川に、しびれを切らした新海が言った。


 大げさな話ではない。いつもより厚めにバンテージを巻いた後、静川はグローブを嵌めた拳を休みなく振っていたのである。


 周囲にいた他ジムの関係者達も、静川の入れ込みようには目を見張っていた。事前に配布されたプログラムによって、静川が野々見沢の犠牲者になる事は知れ渡っている。だから誰一人、彼の無謀な準備運動には口出ししなかった。


「そろそろ、殴りにいこうか」


 新海のしょぼくれた背中に連れられて花道を進むと、野々見沢は先にリングの上で静川を待っていた。


 前日計量時にもそれとなく確認していたが、やはりリーチがある。あらためてみると、野々見沢は実に気の弱そうな、影の薄い、そして華のない男だった。


 リングインした静川は、相手コーナーの異様さにも気づいていた。

 セコンドが一人だけ、それも野々見沢に指示を送るでもなく、出番待ちのラウンドガールにばかり気を取られている様子だった。野々見沢がジム内で嫌われているとは聞いていたが、ここまであからさまにやる気のないセコンドには、なかなかお目にかかれない。


……こいつも、一人でここにいるのか。


 格闘技に関する勘違いが、ここにもある。

 なまじリングに上がるのが、選手二人とレフェリー一人だけという構図のせいで、誤解を生んでしまうのだが、実はボクシングという競技は単純な一対一の戦いではない。事前準備においてはトレーナーやコーチによる訓練を、試合当日にはセコンドについた人間の指示に従って、選手はそれぞれのゲームプランを進めていくのだ。

 つまり現代の格闘技は、れっきとしたチームスポーツなのである。


 孤独のまま、リングに上がる。

 それはやはり異常な事なのだ。

 

 静川も野々見沢も、無表情のまま互いを見ている。考えていることはまるで違うのだろうが、彼らは持っている二つの武器も、抱えている立場も対等だった。


 その一方で、観客席は妙に色めき立っていた。互いのジムが抱える問題児同士の対決とあっては、飛んでくるヤジも一味違う。


「反則野郎とワンパターン野郎だーッ!」

「くだらねえ試合組んでんじゃねえよ! 金返せ!」

「お前ら二人とも、どうせチャンピオンにはなれねえから!」

「どっちでもいいから、早く死ねぇぇえええっ!」


 コーナーを振り返ると、新海が額を押さえていた。こんな調子では、ファンの獲得など未来永劫不可能だ。彼のそんな呟きが、ホールに轟く罵声にまぎれて聞こえた気がした。


 静川の心は揺れない。

 相手にするのは役に立たないセコンドでも、口先だけの野次馬共でもない。野々見沢清人、ただ一人なのである。

 

 レフェリーはいつものように、形だけの注意事項を呪文のように口にしているが、静川の耳は野々見沢の呼吸だけを追っていた。


「それじゃ二人ともコーナーに戻って!」


 呪文を唱え終わったレフェリーが、見せかけの権威で指示を出す。

 偉そうに仕切ってはいるが、静川にとってこの男はこれから6ラウンド、18分間はリング上を移動するだけの障害物だ。

 静川は視界からレフェリーを消して、ゴングを待った。


 いつ聞いても安っぽい、鐘の音がした。


 その瞬間、目を血走らせた野々見沢が、静川目掛めがけて突っ込んでいた。

 一秒でも早くジャブを打つ、考えているのはそんなところだろう。が、その程度の事は先刻承知の静川は、大きく飛び込んできた野々見沢が、まだ空中にいるうちに、右フックを振り抜いた。


 両足がキャンバスから離れた一瞬、片足が着地するまでの数センチ。

 それが、今まで誰も狙わなかった、この対戦相手唯一の隙だった。


 がちゅん! という音がして、野々見沢の首から上が捻転した。しかし、体はジャブを打ってくる。信じられないことに、右拳をフルスイングした静川の顎の先端を、針に糸を通すような正確さで、野々見沢の左拳が擦過した。


 レフェリーが即座にダウンを宣言するが、その声は歓声にかき消されていた。


 試合開始わずか一・五秒のダブルノックダウンなど、八百長を疑うレベルの珍事である。両コーナーのセコンドは揃って言葉を失っていたが、一瞬早く正気を取り戻した新海がキャンバスに平手を打ちつけていた。


「立て! 静川! 立てよテメエこら!」


 酒焼けした新海の声は、静川の耳にちゃんと届いていた。しかし、体が言うことをきかない。ボクシンググローブを顎の先端に押し付けてスリップさせると、頚椎けいついを支点にして頭蓋が揺れ、脳震盪のうしんとうが起きやすくなるのである。知識では知っていたが、初体験の衝撃に、静川は尻餅を付いたまま回復を待っていた。


「静川――ッ!」

「……、シックス! セブン!」


 カウント7、そろそろ立ち上がった方がいい。横倒しになったままピクリとも動かない野々見沢を観察していた静川が、ゆっくりと立ちあがった。


 それを待っていたかのように、レフェリーが勝利をコールするべく、両手を交差――、させる直前に、野々見沢が飛び起きた。


 そしてすぐに、彼は軽快なステップを刻み、ジャブの素振りを始めた。


 盛大に鼻血をまき散らしてはいるが、元気いっぱいですとばかりにアピールする選手の姿をみては、レフェリーも試合を止めるわけにはいかないらしい。そればかりか、力なく立ち上がった静川の方が、逆に「続けられるか?」と確認されてしまう。


「やるよ。殺してやる」

「ボックス!」


 ダメージは野々見沢の方がはるかに大きい。その確信が、静川の冷静さを支えていた。

 このアドバンテージを保ち、ゲームをコントロールするのが最優先である。幸い、試合開始時に交わした一発は、野々見沢の左顎にクリーンヒットした。まともなボクサーなら、ダウン復帰直後は警戒して手数が減るものだ。


 ブロックの上から二発、三発、立て続けにジャブが飛んでくる。いきなり攻撃が始まったのにも驚いたが、パンチのキレがまったく衰えていないのは理解不能だった。

 しかし、うまくグローブで弾き続けていれば、ダメージは少なく済むはずである。ほんの少しでも攻撃の速度が落ちたら、その瞬間を逃さずリターンを取ればいい。


 ところが、そんなゲームプランが乾いた砂糖菓子のように崩壊する音を、静川は聞いた。


 パンチをブロックした瞬間に起こる全身の硬直、それを見逃さず、ガラ空きになっていた右肋骨下や側頭部に、野々見沢のジャブがヒットしたのだ。

 たまらず後退した静川は、左手を突き出したまま、さらに射程圏外へと退避する。すると野々見沢は、突き出された左腕をかいくぐるようにステップイン、奪われた射程を即座に取り戻す。


 一秒でも早く、一発でも多く、ジャブを打つ。野々見沢のボクシングはただその一点に集約されていた。おまけにこの男の攻撃は、とんでもない精密さでガードの隙間を縫ってくる。


 ならば、左の刺し合いで勝負するのみである。

 ロープを背負わされた静川は、負けじとジャブを突き入れる。リーチは野々見沢に分があるが、ハンドスピードはわずかに静川の方が上。だからこそ、さっきの右フックは間に合ったのだ。

――とんでもない目に遭った。


 静川が確かに打ち込んだ左ジャブのグローブに、一発、野々見沢から短いジャブを叩き込まれ、パンチの軌道が体の外方向へずらされた。右拳はお情け程度に顎をガードしていたが、静川の左半身は一瞬オープン状態になり、頭部を除く、すべての正中線が無防備に晒される。


 静川が、左腕を体の中心へ引き戻す前にもらったパンチは、五発。歓声を遠く感じたのは、それよりも大きいレフェリーのダウン宣言のせいだった。


 8カウントまでに頭の中を整理しようとしたが、無理だった。野々見沢のスキルが異次元過ぎて、現実を直視するのが困難になっている。わけもわからず、静川はファイティングポーズをとったまま立ち上がってしまう。


「続けるか?」

「やる! 続ける!」

「ボックス!」


 静川が野々見沢にやられた内容は、以下の通りである。

 弾かれた左拳を戻そうとした瞬間に、腹、テンプル、腹の順にもらい、戻りかけた左腕の肘の内側にジャブを当てられ、残りの二発を腹と顎へねじ込まれた。


 もらったパンチより、その過程で突き付けられたテクニック差の方が、静川に絶望感を植え付ける。どこをどうすれば人間に隙ができるのか、どのタイミングでパンチを当てれば、人体に力が入らなくなるのか、野々見沢は知っているとしか思えない。


 急所をかばいながら、相手の体力、特に足の消耗を待つしかない。動きが止まったところを、ガードの上から殴り潰せばよいのだ。しかし、この日のために鍛えあげたステップを使おうとした静川は、そこでようやく自分の足が、さっきのジャブで半殺しにされた事に気が付いた。


 内臓器官に受けた衝撃は、足にくるのだ。


……静川は、野々見沢のジャブに飲み込まれた。

 


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