第8話『君に繋がれて』

 馬場と別れた静川は、ジムへ戻るのをやめて自宅に直帰していた。


 喉から手が出るほど欲していた試合映像が、棚から牡丹餅で手に入ったというのもある。だが、本当のところは別だった。

 意識を取り戻した南が、馬場に語った静川の強さの秘密。それがあまりにも正鵠せいこくを射ていたために、静川はもう誰にも会いたくなくなったのだ。


 自室に戻った静川は、ドアに鍵をかけてカーテンを閉め切った。電灯は落したままだ。というよりも、もうずいぶん前から蛍光灯が死んでいる。

 そういえば昔、似たような事があったなと思ったが、それがいつの話だったのか、静川はうまく思い出すことができなかった。


 型遅れのパソコンが立ち上がるまでの数十秒、静川は南の事を考えていた。


 戦った相手の事を、試合後に考えるのは初めてだった。だが南は静川にとって初の強敵であり、試合時間こそ短かったものの、忘れがたいボクサーである。

 静川の睨んだ通り、南は戦闘力以外の面でも、優秀なボクサーであったようだ。馬場が興味本位で静川大樹の事を尋ねると、彼は次のように語ったそうだ。


 試合はすべて、静川の計算ずくで行われた。アクシデントなど一つもなく、自分は状況に対応できなかったがために、試合に負けたのだ、と。

 あの反則まがいの行為についても、南は何ひとつ言い訳をせず、むしろ静川を褒めていたらしい。試合前、あの短い準備期間で完璧に南のファイトスタイルを分析し、勝つための努力を続けたのだろう、とも。でなければ、あれほど完全な試合運びなど不可能だと、南は言ったのだという。


 また、南は静川について、対戦相手の分析を前提としたトレーニング構築を行っているはずだ、という目星までつけていた。ゆえに、馬場が首尾よく静川への取材を取り付けるためには、これらから先、対戦相手の資料を押さえておくことが交渉材料になる、とまで話していたそうだ。


 そこまで聞いた馬場が、どうして自分にそんな助言をするのかと質問したところ、南は、


『ただの、いやがらせや』


 と、笑いながら言ったそうだ。


 その話を聞いた静川は、心底肝が冷えていた。

 あと少し、ほんの少しでも南が、あの試合の前に静川の情報を分析していれば、血祭りにあげられていたのは間違いなく彼の方だったろう。二度とリングの上でまみえることのないボクサーに対する畏怖と、終わった試合のことで味わう恐怖。静川にはどちらも初めての経験だった。


 気が付くと、モニターは一面真っ青なデスクトップを映し出していた。

 静川は震える手でUSBメモリを挿入し、ファイルに保存されていた動画を再生する。


 試合映像は数時間に渡って撮影されていた。


 馬場が所持していたこの映像は、彼の所属する雑誌編集部が、記事執筆のために固定カメラで撮り続けていたものらしい。関係のない数試合をクリック一つですっ飛ばし、静川は野々見沢の名前がコールされるタイムラインを探し出す。


「……、コイツか」


 青コーナーに姿を現した野々見沢は、影の薄い印象を持つボクサーだった。


 前髪がやや長く、どこを見ているのか分かりづらい。身体は一通り鍛えられているようだったが、前評判にあったような、規格外の性能を秘めているようにはみえなかった。


 カメラに映るロープの位置と、構えを取った状態の頭の位置から推察するに、野々見沢は静川よりもやや背が低い。ただ、リーチはかなりある。一方、野々見沢と同じような体格の対戦相手はアウトボクサーらしく、リングイン後はしきりに自分のステップを確認していた。


 ゴングが鳴ると、野々見沢はすぐにジャブを突き出した。

 静川の予想していた通りだ。


 ボクシングにおけるジャブは、様々な用途に用いられる。

 相手との距離を測るため、または的確にヒットを重ねてポイントを奪うため、あるいはビッグパンチへの布石、ゆえに基本中の基本ともいえるパンチなのである。レベルの高いボクサーほど、左ジャブがうまくなるのはそのためだ。


 静川自身、トレーニングの際にはジャブの反復練習を欠かさない。

 低威力や見た目の地味さのせいで、多くの初心者がこの技術を甘く見る。が、彼は試合中の使用率、意味や効果などを考慮した結果、ジャブこそがボクシングのコア・テクニックであると、早い段階で確信していた。


 野々見沢のジャブは、息を飲むほど美しかった。

 だが、その美しさがおぞましさに変わるのに、そう時間はかからなかった。


 選手同士のハンドスピードに大差がない試合では、攻撃に対するリターンの取り合いになる場合が多い。つまりクリーンヒットを得るためには、相手のパンチの終わり際を狙う事になるので、必然的に両者とも無駄打ちが減り、攻撃ポジションの奪い合いになるのだ。


 ところが、画面の中ではそんな攻防は行われていなかった。


 ずっと。

 ずっと、野々見沢『だけ』が打ち続けている。


 対戦相手がリターンを狙おうにも、野々見沢はジャブしか打たないのでそれができない。

 どれだけ待っても、ビッグパンチが飛んでこないのだ。かといって相手が強引に状況を打開しようとすると、パンチの初動を上回るタイミングで野々見沢のジャブが突き刺さる。


 恐ろしいことに、ジャブがクリーンヒットして相手が体勢を大きく崩すような事態になっても、野々見沢は小刻みに同じパンチを続けるだけで、けしてフックやストレートを打とうとしなかった。


 それにしてもよく当たり、よく続くジャブである。フォームが美しいということは、それだけ無駄な動きがそぎ落とされている証拠なのだが、休みなくパンチを打てば、いずれ失速するのが道理である。おかしいと思った次の瞬間、静川の目に飛び込んできたのは、細かく軸足をチェンジして、左右でまったく同じ超練度のジャブを打ち込む野々見沢の姿だった。


 左が疲れたら、右で打つ。右が疲れたら、左に戻る。

 

 試合そのものは誰の目にもあきらかな実力差が出ているが、なまじ顔面にヒットしているパンチが少ないせいで、レフェリーもダメージ過多によるストップがかけられない様子だった。


 これ以上見ても無駄だという事は重々承知していたが、静川はうんざりしながら四ラウンド十二分間を最後まで見届けた。


「ふー……」


 試合映像を見ただけでこんなに疲れたのは初めてだったが、その甲斐あって、いくつか分かったことがある。


 野々見沢はおそらく、ジャブしか打たない。

 否、


 試合時間すべてを通してはっきりしたことは、野々見沢の重心が、ジャブのフォームを維持するのに終始している、という点だった。

 つまり、ハナから他のパンチを打つ気がないのである。


 おまけにこの男、対戦相手のことをただのサンドバッグとしか認識していない。映像をみるかぎり、およそ生きた人間を相手にしている戦い方とは思えなかった。己が被弾する可能性など一パーセントも考えていない戦術だ。すなわち、必ず先手を取る自信があるのだろう。


 事実、野々見沢のジャブは、相手のガードの隙間を精確に打ち抜き、攻撃の初動を徹底的に潰し、気力と体力を同時に削りきるだけの性能を秘めていた。


 ただ、おそらくだが、この男には試合に『勝つ』という意識が欠如している。


 試合後のつまらなさそうな顔、客への素っ気ない態度などは静川に似たところがある。だが当然、こんな単調な試合を見せられた観客は興冷めだろう。


 あきらかな隙やチャンスシーンにさえ、ジャブしか打たない野々見沢の戦い方は、一般のボクシングファンからすれば、プロ失格の烙印を押されても仕方がない。判定勝利を下された直後に起きたブーイングの大きさは、静川の試合よりもひどいものだった。


 だが、南の言った『いやがらせ』という意味は、静川には分かった気がした。

 実際、映像を見る前よりも見てしまった今の方が、野々見沢に対する不気味さは増している。この男が戦う理由はなんなのか、そんな、試合の勝敗に関係のないことまで考えてしまうのだ。


 自分の中に予期せぬ乱れを感じ取った静川は、部屋の隅に転がっていたペット用のケージに目をやった。気持ちに迷った時はいつもこうする癖がついている。空になったそれを、ほんの数秒ばかり眺めるだけで、心は埃が沈むように落ち着いた。


 すると、先ほどまでかすみがかかったように見えなくなっていた未来への視界が、徐々に形を帯びてくる。それは、窓の外で夜に飲み込まれようとしている太陽が、消える寸前にだけ輪郭を浮かび現すような、確信的な計画像だった。


 やることが決まると、静川の行動は早かった。まずは体力づくり、それと並行して基礎鍛錬を行い、そして対策用のトレーニングを積む。

 PCの電源を切る前に確認した時刻は、午後六時半。家の者が夕食の準備をする頃合いである。……どうせ食卓についたところで、自分が食べられるわけでもない。それに静川は、今更家族と顔を合わせたいとも思えなかった。


だからいつものように、彼は息を止め、足音も殺して家を出た。


  

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