第7話『君に繋がれて』

 無名選手や海外選手とマッチメイクすると、試合映像がない事はよくある。


 静川もそれは知っていた。しかし、それはあくまで格下である噛ませ犬や、戦績の振るわない弱小ボクサーとの試合だからありうる話なのである。

 これが、野々見沢ほどの驚異的戦力をもつボクサーの試合映像となれば、話はまったく違ってくるのだ。


 驚異的戦力とはいうものの、実際のところはわからない。ただ、資料が示す野々見沢の実力は、想像するに余りあるインパクトを秘めていた。


 さらに静川の神経質な性格が、余計に事態を悪化させている。それほどに彼にとっての映像解析は、ボクシングをする上で重要なウエイトを占めていた。


「チッ」


 事前準備、つまり試合に向けたトレーニングの方向性を決められないという事は、その時点で大きくアドバンテージを失っているのである。時間が有限である以上、一刻も早く勝つための行動を起こさねばならないというのに、静川はまるで逃避のような走り込みを強制されていた。


 税金不足でボロボロのまま放置されたアスファルトを、安物のランニングシューズが跳ねていく。目的もなく、ひたすら速度をあげて、静川は息の続くまで走った。普段はけしてしない自殺的なダッシュだが、体を動かしていないと頭までどうにかなりそうだった。


 五戦五勝。

 プロからはじめた叩き上げで、ここまでこれる人間はごくわずかである。だが静川の目指す場所は、ここからさらに先端の先端にある、世界王座なのだ。


 新海ボクシングジムは、豊富な資金を背景にして世界チャンピオンとの試合を何度も組めるような、有名ジムとは違う。さらにいえば、愛想をまくのが苦手な静川を、支援してくれるファンやスポンサーなど死んでも望めまい。


 ならば、残された道はただひとつ。ひたすら勝ち続けて、世界ランキングをよじ登るほかはない。

 邪魔する者は皆殺しにするまでだ。


 しかし、それゆえに、たった一敗。


 


「うっ……!」


 河原に出た途端、瞬間的にこみ上げた吐き気に負けていた。


 色褪せたアスファルトに、吐瀉物としゃぶつにごりが広がっていく。

 涙目で地面を睨みつけた静川は、その有様に思わず笑いそうになった。こんな栄養状態で野々見沢と戦おうとすること自体が、馬鹿馬鹿しい。

 そもそも、彼の体は戦う前からすでに死ぬ寸前だった。


 いっそ、計量日まで好きなだけ増量して、ウエイトを何らかの方法でごまかすのはどうだろうか――。そんな愚かな考えが脳裏をよぎるほどには、静川をさいな飢餓きが感には鬼気迫るものがある。


「……はぁ、は、ふー、フーッ」


 食道に残留する嘔吐おうと感が失せるまで、静川は深呼吸を繰り返す。息を吐き出すたびに、彼は落ち着きを取り戻し、それに反比例して心の弱さが死んでいくのを感じた。


 不意に、カシャッ、という音がした。


 音のした方に静川が首をもたげると、これ以上汚れようのない雑巾のような中年男が立っていた。馬場だった。


 なぜこんなところにこの男がいるのだろう、という疑問が静川の頭に浮かぶよりも早く、カメラを提げた雑巾男が口を利いた。


「減量キツそうだねえ、静川クン」

「さあな」


 やせ我慢だという事は、当然馬場に悟られているだろう。

 ロードワーク中に吐いているボクサーなど、デビュー前の練習生でもそうはいるまい。一週間ぶりに見る馬場は煙草こそ吸っていないが、間の悪いことに、棒付きキャンディーを舐めていた。


 風上に立つ中年男から、甘い匂いが漂ってくる。静川は反射的にそれを避けようとしたが、遅かった。次の瞬間、試合で喰らったどんなパンチよりも強烈に、彼の鼻腔は叩きのめされていた。


 近代格闘技における『減量』の内容は、断水絶食を主としていた一昔前とは、まったく違う。

 食事はカロリー計算によってコントロールされ、試合までの練習の質を下げないように気を遣うのが普通なのだ。選手たちは計量日の前日まで徐々に食事量を落としていき、ウエイトを下げて、最後の追い込みで強制的な発汗による『水抜き』を行うのである。こうして、彼らは一見不可能に思えるほどの減量を、短期間のうちに成功させるわけである。


 ところが静川の場合は、骨格の問題で平常時の食事がすでに減量末期の状態なのである。そうしなければ、最終的な水抜きで落ちる体重分を含めても、彼はもはや契約ウエイトに到達できなくなっていた。


「あれ、静川クン? どうかした?」

「なんでもない」


 静川は着ていたパーカーのフードを目深にかぶり、『それ』を隠した。


 減量時の衝動についても、誤解している者は多い。

 水抜き前の状態で無理な絶食を敢行すると、凶暴性を増したり、幻覚を見たりといった症状が出る事があるが、もっと単純な反応が出ることもある。


 


 視覚や嗅覚に食事の情報が叩きつけられると、意識とは無関係に体が反応してしまうのである。冷や汗をともなう震え、静川を襲う衝動の正体がそれだった。

 はじめは指、それから腕、肩、首と、徐々に体の中心へ震えが広がっていく。それはまるで、爪の先から体内へ潜り込んだ寄生虫が、猛烈な勢いで心臓に突き進むような不快感だった。


 ただ、他人の食事を見なければ、こうした症状に悩まされることもない。普段はそれで自分をごまかしていた静川だが、ふとした瞬間に叩きつけられる食欲への刺激は、さすがにこたえる。


 できるだけ馬場を視界に入れないようにして、静川は動悸がおさまるのを待っていた。


「取材の件、考えてくれたかい?」


 馬場の声は、彼の口に放り込まれた飴のようにドロドロとしていた。


 将来有望なボクサーに唾を付けておきたいというよりも、スター候補が起こす不祥事の方が金を生む――馬場のそんな腐った思考は、口調にも表れていた。先日の試合で静川が南にしたことを考えれば、けしてそれは的外れでもないのだが、雑巾中年男にストーキングされるのは気分の良いものではない。


「練習中だ」


 ようやく体内で暴れる虫を抑えつけた静川は、馬場の提案を一蹴いっしゅうする。


 新海の言う通り、メディアを利用してファンや支援者の獲得に精を出すのが、正しいプロの姿なのかもしれない。むしろそうした方が、より早く自分を世界戦のリングへ近づけてくれるであろうことも、静川はうすうす気づいている。だが、それでも今の彼には、自分の人生に他人の介入を許すような真似はできなかった。


「あれぇ、そんなこと言っていいのかなぁ?」

「南の件なら好きに書けよ。見たままがすべてだ」

「あはは、それはもういいんだよ。南君、もう引退しちゃったから」

「……、そうか」


 そういうこともあるかもしれない、とは思っていた。


 静川とは違い、南泰平は将来を嘱望しょくぼうされていたエリートボクサーだった。敗北した事もショックだったろうが、あの試合でのダメージを考えれば、後遺症が残ったとしても不思議はない。少なくとも静川なら、もう続けようとは思わないだろう。


 静川の淡白な反応に、馬場は肩で笑っていた。汗染みのできたワイシャツは、しばらく洗っていないのが丸わかりだったが、こんな中年の衛生観念に文句を付けたところで何もはじまるまい。せめて髭くらい剃れば多少はビジネスマンとして見えなくもないのだろうが、馬場はそれが己のポリシーであると言わんばかりに、不潔さを前面に押し出していた。


「じゃあな」


 いい加減、ロードワークを再開した方がいい。そう思って踏み出そうとした静川の両足を、先んじて発した馬場の言葉が地面に縫い付けた。


「次の試合、野々見沢とやるんだろう?」

「……、なんで知ってる?」

「なんでって、そりゃあ松尾ジムが主催する興行の宣伝、ウチの雑誌でもしてるからだよ」

「野々見沢は……」

「僕の見たところ野々見沢は色物だけど、前回の試合で一気に名前が知れ渡ったからね。編集部内でも注目度は高めだよ。で、次の犠牲者に君が選ばれた」


 そんなことだろうと思っていた。あんな滅茶苦茶な試合をしておいて、次の対戦相手が簡単に見つかるわけがない。

 もっとも、それは静川も同じようなものだった。ファイトマネーに釣られた新海が、まんまと松尾ジムの思惑通りに踊らされたというわけだ。


 だが静川は、自らの待遇に文句をつけるつもりはない。彼は試合が組まれれば、ただ戦うだけだ。プロボクサーなのだから。

 そこまで考えて、静川は自嘲した。先ほどまであれほど動揺していた自分に、プロを名乗る資格があるのかどうか。どちらにせよボクサーという言葉そのものが、今の静川にはひどく空しかった。


 馬場は舐め終わったキャンディの棒を吐き捨てると、尻ポケットから妙なものを取り出してみせる。ライターほどの大きさしかないそれは、USBメモリだった。


「野々見沢の試合映像がなくて、焦っていたんだろう? ここにある」


 その言葉で、静川はすべてを察した。


「取材を受けるのが条件なんだろ? ……受ける」

「お? 即決しちゃう? ちょっと意外だな、もっとごねるかと思ってたんだけど」

「もう、こっちの事情は察してるんだろ?」

「まぁね」


 馬場が無造作に投げてよこしたUSBメモリを、静川は片手でキャッチする。彼は掌に収まった宝物を大切に握りしめると、先ほどまで小汚い雑巾にしか見えていなかった『神様』に向き直った。


「どうして、俺が試合映像を探していると分かった?」

「ああ、それね……」


 馬場は少しだけ迷ったような顔をした。



「南君に聞いたんだよ」


  

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