第6話『君に繋がれて』


…………、駄目だ。こいつは強過ぎる。


 静川は事前情報の収集と解析を、いつも通りに行った。

 新海にしては珍しく、試合までのリードタイムも二か月という長さで、静川は作戦を実行するためのトレーニングをこなしていた。一日たりとも無駄な時間を過ごすことなく、最大効率で戦闘力を高めてきた。……はずだった。


 ところがどうだ。今回の対戦相手には、そうした準備がまるで通用しないのだ。


 野々見沢清人ののみざわきよひと。それがこのボクサーの名前だった。

 

 残り二ラウンド、もはや作戦もクソもない。ここまでの四ラウンドはすべてポイントを取られている。勝つにはKOしかないのだが、静川にはまったくそのビジョンが浮かんでこなかった。


 会場中が静まり返っている。

 はじめは静川も、自分の鼓膜が損傷したのかと疑ったが、そうではなかった。この試合の異常な光景に、全員言葉を失っているのだろう。

 わざわざチケットを買って会場に足を運んできた観客が、メインイベントでもないこの試合に、固唾を飲み込んで見入っているのも頷ける。なぜならこの試合を戦っている静川本人が、近い将来、この対戦相手が世界のトップ戦線で活躍する姿を、容易に想像できたからだ。


 野々見沢は、それほどに仕上がっていた。



◆      ◇     ◆



「――、ギネス記録?」


 ボクシングではあまり馴染みのない言葉に、静川は首を傾げた。


 新海が持ってきた対戦相手の資料には、野々見沢清人という名前と戦績のほか、簡潔なプロフィールが記載されていた。

 しかし、静川はその中に、『ギネス記録保持者』という不思議な言葉の並びを発見したのである。事務所のソファーを軋ませながら、新海も眉根を寄せている。


「おい、ギネス記録ってなんだよ?」


 もう一度静川が言うと、新海はあからさまに不機嫌そうなため息を吐いた。この男にしては珍しい、あきらかにしまったという表情だった。


 大方、今回も他ジムの興行に参加するにあたり、金銭面と準備期間だけを見て二つ返事をしてしまったのだろう。蓋を開けてみれば、割に合わない対戦相手だったというわけだ。実際に戦うのは静川なのだが、マネジメントをする新海が思わず後悔してしまうほどのボクサーが、次の敵らしい。


「静川。『ボリュームパンチャー』って、わかるか?」

「一応は」


 一般的に、ボクサーはファイトスタイルや拳質などによってタイプが分類される。

  近距離での打ち合いを得意とするインファイター、距離をとって足で間合いをコントロールするアウトボクサーなどが、それだ。

 

 他にもパンチが重いハードパンチャー、切れ味のある拳質を持つソリッドパンチャーが有名である。そして新海が口にした『ボリュームパンチャー』は、1試合または1ラウンドあたりの手数が多いボクサーを表現する場合に用いられる。


 手元の資料に視線を落とした静川は、野々見沢が叩き出したというギネス記録に驚きを隠せなかった。


 C級四回戦、野々見沢が試合中に打ち込んだパンチの合計、実に650


「650、発……?」

「俺も信じられねえよ。バケモンだ」


 3分間4ラウンドをフルに使っても、1.1秒に一発のペースで拳が飛んでくる計算である。

 一体、どんな試合をすれば、これほどのパンチが量産されるのだろうか。否、そもそもこれだけのパンチを打ってなお引き分けになる理由が、静川には分からなかった。言うまでもなく、わざと試合を長引かせて、パンチを出し続けた結果なのだろう。だが、そんなことをする意味が理解不能だった。


 異常なボクサーには静川で慣れている新海も、この記録には開いた口が塞がらない様子である。対戦相手の分析に重きを置いている静川でさえ、映像資料で直に確認しなければ、とても信じられない数字だった。


「試合をまとめる際に、ラッシュパワーを発揮するボクサーがいる。昔で言えば、ファイティングって呼ばれたボクサーなんかがそうだった。決め時になると、左右の連打で狂ったみてえにパンチを打ち込むんだ」


 加えて言うなら、最近のボクサーはそうしたラッシュをレフェリーの印象操作のために行う。静川も何度か使った手だ。


 体力を削った対戦相手をロープ際、もしくはコーナーに追い詰めて、ダメージ目的ではなくアピールのために、スピードのあるパンチで弾幕を張る方法である。傍目には相手が猛烈に追い詰められているように見えるので、安全性を重視する近代のボクシングでは、レフェリーによるストップがかかりやすくなるのだ。


「でもこいつは違う」

「ああ。イカれてるとしか思えねえ」 


 新海とて、静川のクリーンレコードは惜しいのだ。腹の底から金は欲しい。だが、わけのわからないボクサーに、みすみすジムのホープを潰させるわけにはいかないのである。


 一方、はした金で売り飛ばされた静川としては、早々に野々見沢の試合映像を確保しておきたいところだった。今回は試合まで二か月のリードタイムがあるものの、まずは分析をしなくては、まともな練習もできない。

 

 いつも通り、新海がこれまでの試合に関する映像資料を取り寄せているものと思っていた静川は、だが手元のコピー用紙以外、雇用主から何も渡されていない事に、一抹の不安を覚えた。


「……まさかとは思うが、試合映像がないとか言うなよ?」

「悪いが、今回はねえよ。知り合い全員にあたってみたが、野々見沢の映像を持ってる奴なんかいなかった」

「おい」

「凄んだって無駄だぜ、静川。野々見沢にはアマチュア経験がねえ」

「プロデビュー後の試合映像は?」

「映像を持ってるような知り合いなんていねえとよ。こいつ相当な変わり者で、ジムでも嫌われてるらしい。おまけにデビューからずっとフザけた試合を続けてきたせいで、過去の対戦相手がみんな引退しちまって、試合映像が残ってねえんだと」


 静川は歯噛みした。


 ジムの所属ボクサーが試合する際は、後の弱点補強のためにカメラを回すのが常識だが、当のボクサーが引退してしまえば、映像など残す理由がなくなってしまう。


 野々見沢は毎試合、全ラウンドをかけてパンチを打ちまくり、対戦相手の誇りも、尊厳も、根性も、徹底的に破壊して引退に追いやったのだろう。

 はからずもその異常な破壊活動が、自分の試合映像をこの世からを消し去ることに成功したのだ。残された映像はおそらく、野々見沢の所属ジムが保管しているのに違いない。


 しかし、なぜ? 

 なぜここまで、意味なく試合を引き延ばすのか?


 新海の話では、過去の対戦相手は彼との試合で受けたダメージが原因で、引退を余儀なくされたそうだ。つまり、野々見沢は非力なわけではない。圧倒的な実力差をもちながら、試合をいたずらに引き延ばし、対戦相手をいたぶっているのか。


 だが、野々見沢が安易なサド気質をもつボクサーだとは、静川には思えなかった。

 なぜなら、もしも野々見沢がそのような人間ならば、最終ラウンドの終わり際には、必ず凄惨な方法でKO劇を演じるはずだからだ。


 考えれば考えるほど、静川には野々見沢清人という人間が分からなくなる。少なくとも記録上の戦い方は、合理性を信条とする静川とはまるで異質なボクサーだった。


「なんだよ。びびったのか、静川?」

「くそッ」


 いてもたってもいられなくなった静川は、珍しくいらつきを顔に出してロードワークへ出ていった。


 映像が手に入らない。たったそれだけの事が、これほど致命的に静川大樹を追い詰めたという事実に、残された新海は複雑な気分になる。

 自分はあんな不安定な可能性に、未来を預けようとしているのだ。しかし、連夜のビール漬けによって肥えた腹を撫でつけると、新海はすぐに考えを改めた。


「えへ……、へへっ」


 未来など、アルコールの余韻ほどの価値もない。


 新海にとって、大事なのは今だけだった。この現実を楽しまずして、なんとする。さしあたって、新海は試合までの二か月間、日ごと追い詰められてゆくクズボクサーの最期をさかなに、酒を呑むことを心に誓った。


「安心しろ。安心しろ静川。死ぬ時は一緒だからよ」


 煙草を切らしてしまったので、灰皿から割と新しめのシケモクをつまみ上げた新海は、それを悠々と楽しみはじめた。

 


◆      ◆     ◆

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