第5話『共食い生け簀』


 もう一度、駅に着いた頃には、毒は暴れるのをやめていた。


 その代わり、戦いを終えた疲労よりもさらに強烈な摩耗感が、静川の脳を支配していた。拳を睨み続けた目はすっかり乾いていたが、静川はもう、まばたきをするのさえ億劫だった。彼はバッグを肩に食い込ませ、駅の出口へ続く階段を夢遊病者のように降りていく。

 

 外はすっかり夜だった。



「しーずかーわくーん」


 

 静川がその声に呼び止められたのは、駅近くのコンビニ前を通り過ぎようとした時だった。


「しーずかーわくーん!」


 振り向くのも面倒だったが、無視して家までついてこられる方がなお面倒な事になると判断し、静川はゆっくりと、しかし油断なく半身を返す。コンビニの駐車場には何人かがたむろしていたが、こちらに歩いてきたのは見覚えのない中年男だった。


「静川くん、だよねえ?」


 静川は答えない。


 へらへらと笑うワイシャツ姿の中年は、まず偶然だろうが、静川のパンチが届きそうで届かない、ギリギリの距離で立ち止まる。

 いつからコンビニにいたのかまではわからないが、男は初めから静川を待ち伏せていたようだった。


 コンビニの駐車場から灰皿が撤去されて久しいが、この男には関係ないらしい。地面に落ちていた吸殻の数は十本近くもあったが、男の体に染みついた煙草の匂いから察するに、その数倍は吸っているはずだった。


「おじさん、馬場康彦ばばやすひこっていうの。よろしく」


 静川が握手に応じないことは、この数秒のやり取りで理解したようで、馬場は両手をポケットに突っ込んだ体勢のままでいる。


「俺さ、雑誌記者やってんのよ。取材させてよ」


 顔は笑ったままだったが、馬場の言葉には拒絶を許さない響きがあった。


 一方、静川は新海の言葉を思い出していた。


 日頃から、プロ活動における後援会の存在を重視している新海は、メディアの利用なしにそうしたものを作っていくのは難しい、とも口にしていた。まず人に注目される選手になること、それがプロボクサーとしての仕事だというのが彼の持論だった。

 試合に勝つことはそのための手段の一つに過ぎず、注目を集める事ができるのなら勝敗にさえこだわらないのが、新海流のマネジメントである。


 有象無象ひしめくC級ボクサーならまだしも、クリーンレコードをもつB級ボクサーともなれば、おのずと未来のチャンピオン候補として注目を集め始める。

 そうなる前に唾を付けておきたい、馬場の考えているのはそんなところだろう。


「ねえ、取材させてよ」

「取材なら、ジムの会長に言ってくれ」

「おいおい、たかがB級で一勝したくらいでもう芸能人気分かい?」

「どういう意味だ?」

「俺はね、ジムを通すとか会長さん同席とか、そういうフィルターを通さない君の言葉が聞きたいんだよねえ。それも、できればスキャンダルにつながりそうな、刺激のあるやつがね」


 この男が煙草を吸いまくる本当の理由が、静川にはわかった気がした。


 馬場は自分の本性を隠してしまいたいのだ。シャツに染みこんだ汗や煙草よりもなお臭う、汚物まみれの記者根性を。

 しかし、普段からクズの手本のような新海のそばにいる静川は、わざわざ馬場の挑発に乗ってやるほど初心うぶでもない。颯爽と踵を返し、彼はまた帰り道を歩き始めた。


「――――


 今度は、静川もすぐに振り向かないわけにはいかなかった。


「あ、いい顔してるぅ」


 下卑た笑いを浮かべる馬場が、そこにいた。

 

 この男が何を考えているのかは分からないが、静川は慎重に、彼の観察に徹した。すると、先ほどまでポケットに入っていた手が外に出ているのに気づく。もちろん、その手が掴んでいるICレコーダーにも目がいった。


「安心してよ。もう電源落してるからさ。だって君、ぜーんぜん失言とかしないじゃん?電池もったいなくなっちゃって、あはは!」


 だが、静川はもう油断しなかった。


 こうした手を使う人間が、自分の手の内を無防備にさらけ出すとは思えない。きっとまだ何かがある。ここで不用意な行動に及んで揚げ足を取られては、世界チャンピオンになるという己の目的に、大きな足枷となる恐れがある――、そんな静川の心中を知ってか知らずか、馬場は自分の話を進めていた。


「俺ねえ、今日は南君の取材する予定だったんだよ。本当はね」

「南の?」

「でもさ、君が南君をやっちゃったでしょ? すんごいパンチ喰らわせてさ。彼、試合の後病院直行して、今意識不明の重体だってさ。やるねえ」


 馬場はあえて、静川のやった行為については言及しなかった。


 その意味を測りかねて、静川自身は会話を続けられない。ただ、南が意識不明になっているという事実を聞いて、背負っていたバッグが少しだけ重くなった気がした。


「あれ? もしかして君、なんか気にしちゃってる?」

「さあな」

「けどさ、ボクサーも大変だよねえ。今はユーチューブとかあるからさぁ。どんなに強くても試合映像がすぐネットに流れちゃうでしょ? たとえば――、今日会場にいた観客のビデオカメラに映ってる、君のやってた事とか、ねぇ」


 こいつは何か、勘違いをしているな――、静川はそう思った。


 試合中のアクシデントが本当に悪質で、問題のある行動ならば、そもそもレフェリーが勝利などコールしない。

 リング上ではレフェリーが試合の全権を握っているのだ。そのレフェリーが判断した以上、試合中にあった一連のトラブルは偶然であり、勝者である静川は『白』なのだ。たとえその『白』が、傍目にはどれだけ黒く、濁って見えていたとしても。


 夜間巡回中のパトカーが、コンビニの駐車場に入ってきた。

 すぐさま、たむろしていた若者数人が、蜘蛛の子を散らすように去っていく。青少年の非行防止を建前に警察が行うのは、その実、ボーナスのための点数稼ぎに過ぎない。餌になるのを嫌った若者達は、青い制服を着た狼から身を守るため、それぞれの巣穴へ帰っていった。


 助手席から降りた警官は、犬のような顔をしている。それが静川には面白かった。


 静川は犬を呼び止めた。


「あの、おまわりさん」


 点数稼ぎに直結しない市民からの呼びかけに、警官は面倒そうに「どうかしましたか?」と、尋ねていた。


 ある程度の期待はしていたが、あまりに想像通りの反応に、静川は内心苦笑する。彼は少し離れた場所にいる、馬場の方を指さした。


「さっきから、変なおじさんに絡まれているんですよ。もしかして、変なクスリとかやってるのかも……」

「わかりました」


 その「わかりました」には、先ほどの「どうかしましたか?」よりも、明らかなやる気が感じられた。

 おかしな事は何もない。もともと、警察とはそういう商売なのだ。


「あー、なるほど。そういう手も使うのかぁ」


 薄汚れた中年記者という肩書だけでも怪しいのに、馬場は取材対象を脅すような手口を平気で使う小悪党である。叩けば埃どころか、何が出てくるか知れたものではなかった。


 馬場自身、それが十分わかっていたのだろう。警官が振り向くより早く、彼は路地裏へ駈け込んでいた。


 警官が馬場を駆け足で追うのを見届けた静川は、今度こそ、家に向かって歩き始める。すっかり誰もいなくなったコンビニの駐車場では、パトカーが一台きりで残された。


 これから先は、ああいう連中も相手にしなくてはならない。そう思うと、静川は両脚が重く感じた。


 格闘技を取り巻く環境は、きわめて異質である。試合に負けてもリトライが容易な他のスポーツとは、根本的に構造が違うのだ。わけても静川が身を置くボクシングは、そのチャンスの少なさにおいても、トップクラスにタフな競技なのである。

 このフィールドで生き残るには、対戦相手を食って、大きくなるしかない。オールオアナッシング、それがボクシングにおける鉄の掟だった。


 ただ歩くだけの運動が、どんなトレーニングよりも体の芯にくる。

 現実はいつだって曖昧だ。目の前にある自宅ですらが、静川には不完全な実体に見えている。音も色も、ノイズ交じりで鮮明さに欠けていた。


 病院送りになった南の容態を思いやれるほど、静川に残された人間性は繊細さを保っていない。拷問のような練習を積み重ね、パンチの切れ味が増すたびに、心の動きは鈍くなる。次々に現れる状況に、いちいち反応していたらキリがないのだ。


 だから家の門をくぐる瞬間、『木津きづ』と書かれた表札が視界に入っても、静川は平気でいられた。


 ただ、玄関のドアを開いた時、そこに母親がいたのには少しだけ驚いたが。


「……、ただいま」

「おかえり、研二けんじ


 職業・プロボクサー。

 リングネーム、静川大樹しずかわだいき


 十八歳。中卒。


 



                             『共食い生け簀』終

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