第4話『共食い生け簀』


 覚えているのは、夕日の柔らかさだ。

 誰もいなくなった教室で、二人だけの遊びをした。


 他愛のない会話から始まった関係は、友情と呼べるようなものではなかったし、二人を友達だと思った者もいなかっただろう。教室に四十人近くが集まる時間には、少なくともまともに話した事はない。あったとしても、それは班行動や委員会活動などの、事務的な内容にのみに留まっていた。


 教室には、しばらく前から明かりのかない蛍光灯があった。教師を含めて誰もがその存在に気付いていたが、一向に交換される気配はない。ただそれは、自分の席の真上に位置していたから、印象に残っていただけの話だった。


 俺は自分の席に座っていて、あいつはそのひとつ前の席に座っていた。俺の機嫌が悪かったのは、あいつの態度のせいだけではなかったと思う。


 教室が赤くも黒くもない時間帯、あいつが座っている席には女子が座っていた。

 綺麗にかした髪を、肩まで伸ばした女子だった。授業中、どうにも暇で仕方のない時には、彼女の髪を眺めて過ごしたのを覚えている。自分は早熟な子供であったから、それが好意からくるものであることはすぐに理解できた。


 今思い返してみると、彼女の存在もまた、あのときの『遊び』に一役買っていたのだろう。他人に興味がないふりを決め込んでいた当時の自分は、そのくせ周囲の立てる噂話に敏感だった。

 誰々ちゃんが誰々くんのことを好き嫌い――、そんなありふれた話題の中に、彼女の名が挙がることもしばしばあった。


 夕暮れは海のように広がって、街と教室を飲み込んでいく。

 当然、その中にいる自分とあいつも病気したみたいに赤く見えていた。一方は恥ずかしさで、一方は怒りで、もともと顔が赤かったのに、今はそれがうまくごまかせている。


 どっちの声だったのか、もう覚えていない。



「そろそろ始めようぜ、静川」


 

 そして、



◆      ◆     ◆



 茜色の空が、窓の外に流れている。


 電車に乗ったところまでの記憶はあるが、席に座った直後に意識を失ってしまったらしい。幸い、車内アナウンスが告げた駅名は、目的地の二駅前のものだった。


 雨上がりの雲間に差し込む夕日は、忌々しいまでの美しさだった。目を閉じていても、瞼の裏に叩きつけられる強烈な光の暴力が、静川が先ほど見た、夢の引き金になってしまったのだろうか。


 美しい過去ほど、無慈悲に人の心をむしり取る。

 未来へのステップを踏み外した人間の末路は、空しいものだ。まともに生きていれば、最高とはいかないまでも、それなりの人生を体験できたのではないだろうか。世界チャンピオンになるための通過儀礼は、今日も体に無数の傷を残したが、『強さ』という名の株券に、身も心も捧げ尽くした静川の、投資結果がそれだった。


 そろそろ休憩が必要らしい。

 

 金にしか興味のない新海が、静川をいたわるようなそぶりをみせたのは、意外といえば意外だった。だが考えてみれば、煉瓦を作るための奴隷が死ねば煉瓦は作れない、という原理に沿った、新海なりの打算に過ぎなかったのだろう。


 寝ている最中、肩にぶつけていたらしい頬がやたらに痛む。

 試合開始二十秒で味わった、南のカウンターが残したダメージだった。想像以上のキレとタイミングで飛んできたそれを、挨拶代わりのジャブに合されてまともに受ける羽目になり、静川はガードこそ下げなかったが、ダウン寸前まで追い込まれていたのはここだけの話だ。


 だが、南のダメージはこれ以上だったろう。体格の利を活かしただけでは到底埋め切れない実力の差を、静川は『パワーの底上げ』というもっとも愚かな手段で補い、あの一発を決めたのだ。

 手ごたえも凄まじかった。南は、死んだかもしれない。


 静川はあらためて、自分が殺し合いの場にいるのだという実感がした。


 格闘技はあくまでもスポーツだと言い張る連中もいるが、静川にはそれが詭弁だとしか思えない。

 そもそも格闘技は、競い合う手段が相手を傷つける、あるいは、戦闘不能を目的とした攻撃に寄っている。その時点で、競技としての思想が一般的なスポーツの概念からは逸脱している、といえるだろう。


 だからどう頑張っても、『殺されないために殺す』という考えがついてまわるのだ。特にボクシングはルール上、頭部へのダメージが集中しやすく、事故も多い。

 そして、だからこそビジネスになるのだ。


 かぎりなく安全な場所から、非日常である殺し合いを楽しむすべ。それが格闘技を娯楽として成立させているのだ。観客から派手なKOが望まれる傾向などは、その最たるものである。より深いダメージ、無残に破壊されるボクサーの姿ほど、リングの上では金になる。そしてすべてのボクサーは、自分がそうならないように試合に臨むのだ。


 対戦相手を破壊すること、これが何よりも大事なのである。


 プロになって以来、静川は一度も、ボクサーという職業が美しいと思った事がなかった。それは、彼が試合に用いる戦術のせいばかりではなく、前述したボクシングの競技本質の為である。リングに上がる時、自分が見世物小屋の豚になった気分でいるのが常だった。


 都合の悪い真実を視界から消してしまうのは、一部の大人の専売特許ではない。

 無責任なメディアの受け売りで、格闘技の外身だけを真に受けてしまうすべての人間が、静川には異世界の住人のようにみえるのだ。ボクシングに限らず、格闘技にたずさわる競技者、ジムの関係者、ファンにいたるまで、一人残らず脳が暴力に侵されている。


 彼らはリングの上で流れる血の意味を、考えたことなどないのだろう。

 傷ついているのは、自分以外の誰かだから。


 窓の外に広がる茜色が、夜に薄らいでいく。

 頬に刻まれた痛みに眼をすがめながら、静川は同じ車両の乗客達が放つ、好奇の視線に耐えていた。最低限の手当てもしていない彼の顔は、見るも無残に腫れ上がり、注目を集めてしまうのも仕方がなかった。


 ただ、彼らはすぐに静川への興味を失っていた。自分という存在が他人の意識から消えていく。その過程が彼にはなぜか、南のパンチより効いた気がした。

 だがその痛みが幻覚だという事は、直後に訪れた安堵が証明していた。まるで草原の一部に溶け込んだ動物のように、静川は自分の心がカムフラージュされていくような気分を味わった。

 

 そうなると、静川の頭はまた、次の戦いに向けて稼働を始めていた。

 今日受けたダメージは、相応の教訓を静川にもたらしていた。どれだけ完璧に組み上げた戦術を、たとえ思い通りに実行できたとしても、相手の力量がこちらのそれを超えていれば、それで終わりなのである。


 しかし、そんな勝負の世界の不条理も、静川の動揺を誘うことはない。

 それどころか彼は、これから先必要になるであろう能力や技術の獲得について、すでに適正な練習方法を考える事だけに集中し始めていた。練習で積み上げた以上の実力を望むほど、静川はボクシングに甘い考えを持っていなかった。


 ただし静川は、勝負を決する最後の要素が『運』ならば、それ以外の、努力でカバーできる要素はすべて押さえる覚悟は持っている。


 そう。ただ、努力すればいいだけ。

 辛い、しんどい、やめてしまいたいといった心の動きは、それ自体が無駄なのだ。

 強くなる。それ以外に思考を回す行為が、すでに弱い。


 静川に言わせれば、辛い練習を頑張った、これだけのトレーニングやったのだから試合でも大丈夫――、それらの思い込みは勝利を求めるものではない。負けた時の、あるいは負けないための言い訳づくりだった。


 勝負は勝利以外、すべて失敗なのである。


 通常の人間生活を送る上では明らかに過剰な、不必要なまでの戦闘力を手に入れようというのに、人間性という代償を払わない愚か者たちが負けるのだ。


 静川はすべて払った。

 捧げ尽くした。

 捨て尽くした!


 


 今夜休むのも、明日の練習も、すべて勝つためだけにやる。思考に不純物を紛れ込ませた休息やトレーニングには、何の意味もない。無意味な行動は、自分から勝利を遠ざけるだけなのだ。


 固く握りしめた両拳をとがめるように、静川は睨みを利かせた。


 そうしていないと、静川はすぐにでもサンドバッグを殴りたくなってしまう。強くなる目的以外の行動をとりたがる体を、理性で制御し続けなければならなかった。望み通りの戦闘力を手に入れた拳は、静川がもっとも嫌いな味を、リングの中で知ってしまった。

 

 五人ものボクサーを葬り去った静川の拳には、すでに暴力の毒が回っている。

 それは街を飲み込んだ夕日のように、あらがいがたい強制力を持っていた。

 電車はもう目的の駅を過ぎているのに、尻が椅子に張り付いたように、立ち上がることもできないほどに。

 

 車輪がレールを削る音。夕焼けも、迫りくる夜の藍色も、死にたくなるほど美しかったが、静川は自分の拳から目を離せないでいた。乗客の姿もまばらになって、やがて誰もが自分の目的地である駅のホームへ降りていく。


 そのうちに、電車はとうとう終点に達してしまい、折り返しのダイヤに従って来た道を引き返しはじめた。合成音じみたアナウンスは、一度通り過ぎた駅名を無慈悲に告げる。


 ドアの開くのと同時に、吹き込んだ風が雨の匂いを連れてきた。


 静川は、それでもまだ拳を見つめていた。電車の走り出しよりもなお遅い、木の根が腐るような速度で、彼の精神は静かに限界を迎えつつあった。



◆      ◆     ◆

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