第3話『共食い生け簀』


「――、次の試合は十日後だ。用意しとけよ」


 夕方、ジムを訪れた静川を待っていた新海は、開口一番そう告げた。


 前回の試合から、わずか十二日。

 いくらなんでも滅茶苦茶なスケジュールである。


 現在、新海ボクシングジムにおいてプロライセンスを持つボクサーは、静川大樹ただ一人である。

 ジムが常時資金難ときては、興行ひとつ打つのもままならない。ゆえに、これまで行ってきた静川の試合はすべて、ほかのジムが主催する興行に参加する形をとってきた。これならば、コミュニケーション能力の著しく低い静川でも、チケットを販売することなく試合ができるからだ。


 しかし、それは同時に、相手方からの契約条件をほとんど丸呑みしなくてはならない、という事でもあった。極端に低いファイトマネーや準備期間の短さなど、その最たるものである。今回、新海が受けてきた試合も、そんな成り行きであろうことは想像に難くない。


 だが、静川はこの提案に一切文句を付けなかった。


「わかった。間に合わせる」


 それだけ言って、トレーニングを始めてしまう。


 新海にとっての静川は、普段はいけ好かないクソガキだ。が、こういうところは心底聞き分けの良いお子様だった。事務所のソファに尻を預けた新海は、所属ボクサーの従順な反応に満足すると、最後の煙草へ火をつけた。


 だが彼は知らない。

 静川はもう、新海に対して最低限のマネジメントしか望んでいないのだという事を。そもそも、トレーナーとしての役割を果たしていないクラブオーナーに、尊敬の念を抱けという方が無理な話である。


 冷え切った雇用関係の真相など頭の片隅にもない新海は、紫煙を燻らせながらFAXに目を通す。

 

 二週間後に行われる天久保あまくぼジム主催のボクシング興行では、前座試合でライトフライ級の六回戦が予定されていた。

 ところが、もともと予定していた対戦相手が練習中のケガで出場不能になったことで、今回の話が持ち上がったわけである。叩き上げの4戦4勝で、B級に昇格したばかりの静川は、天久保ジムで売り出し中のアマエリートの対戦相手として、まさにうってつけの好餌こうじだったのだろう。


「へへ……」


 だが、そうした政治事情も新海には些末事さまつじでしかない。重要なのは、誰もが嫌がるマッチメイクを引き受けることができた、という一点に尽きていた。


 非常識な準備期間、プロ戦績が出来上っていないアマエリートとの対戦。まともな会長なら、クリーンレコードを持つジムのホープを、こんな試合に出す選択はしないだろう。


 しかし、新海にとってはまさにそれこそが狙いであった。

 寄生虫のように他ジムの興行へ参加するのとはわけが違う。今回、彼は初めて『強い立場』で交渉のテーブルにつく事ができたのだ。……なかなか、いい金になった。

 

 気分良く煙草を吸っていた新海は、不意に顔をしかめていた。


「チッ、あの野郎。またワケのわからねえ練習しやがって……」


 リングの上では、静川がキャンバスにせっせとメジャーを這わせていた。

 構えを取り、ステップを刻み、パンチを打つ。その一連の動作が終わると、またせわしなくメジャーでキャンバスを測っているのだった。


 おかしいといえば、静川はシャドーも妙だ。


 これまでの四戦で見たこともないようなフォームを試したり、いつもとは逆の構えで何ラウンドもシャドーを行っているのだ。ジムの壁に設置した鏡に、水性マジックで何度もラインを引いて何かの目安にしているらしかったが、目的も定かでないその練習は、新海には怪しげな儀式にしかみえなかった。


 大体、サウスポーである静川がわざわざオーソドックスで練習する姿は、ふざけているとしか思えないのだ。まだ十代、基礎練習にこそ時間をかけるべきなのに、この男はそうしない。否、基礎練習をするにはするのだが、同じ時間だけ、またあの妙な悪ふざけをはじめてしまう。


 まともな指導を行う気力は、はじめの三日でなくなった。新海が何を言っても「必要な事をやる」としか答えない。こんなクソ野郎が試合で勝てるわけがない……、そう思っていただけに、実績に裏切られた衝撃は大きかった。


「ふん」


 静川は好きなようにやればいい、新海は新海でやりたいことをやるだけだ。

 象牙が勝手に己を磨くというのなら、彼は売ることだけに専念すればいい。クリーンレコードを続ける限り、この馬鹿は最低限の金を生むのだ。


「まぁ、いつか負ける時がくるさ」


 そん時は、ゴミ屑みたいにくたばれ。


 胸の内でそう吐き捨てて、新海は灰皿で吸殻をひねりつぶした。



◆      ◆     ◆



 南泰平みなみたいへいは、関西出身のプロボクサーである。


 高校ではアマチュア二冠を達成。卒業と同時に名門・天久保ジムにスカウトされると、南は学生時代の実績が評価され、B級プロライセンスを取得した。アマ時代の戦績は、88戦72勝(40KO/RSC)10敗6分け、カウンターを得意とした。


 事前に取り寄せた資料と映像から予想していた通り、南は出入りの激しいボクシングを好む性格のようだった。


――たった今、右頬をかすめていった左ストレートを見て、静川は確信を得る。


 1ラウンド二分が経過、残り六十秒。

 逃げているだけでは南にポイントを奪われてしまうだろう。軽量級ならではの高速ステップワークから、ジャブとストレートをテンポよく打ち込む南は、静川のパンチにはスウェーとヘッドスリップのみで応じている。その反面、この男はブロッキング、パーリングといった防御はほとんど使用していない。


 一見危うげに見える南のこの戦い方は、対戦相手から雑なパンチを引き出すための『誘い』に過ぎない。しかも、南の狡猾こうかつなところは、目的のパンチを相手が出してこない場合でも、ジャブの手数とヒット数で確実にポイントを稼いでいる点にある。


 デビュー戦にもかかわらず、相手コーナーのセコンドが余計な指示を飛ばしていない。この事からも、今のこの状況が、南の予定していたゲームプラン通りの展開であるという裏付けであった。


 本当に、よく鍛えこんでいる。


 実際、ここまで試合をコントロールするために、南は相当走り込んだはずだ。ジャブも、顔面へのヒットは少ないものの、ガードの隙間からボディへ何発か喰らっている。ただ、そんなことを考えられる程度には、静川も冷静だった。


 残り十五秒。一方的な展開を続ける南は、しかし、勝負を焦る様子がない。アマチュアで築いたキャリアか、ポイントリードの余裕か、もうしばらくは今のペースを保持する腹積もりでいるらしい。


 リングの中央に陣取っていた南が異変に気付いたのは、その時だ。

 しびれを切らした静川が右足を大きく踏み込み、左のオーバーハンドをモーションする。叩き上げのさがか、優秀なコーチの不在のせいか、まだ1ラウンド目だというのに隙だらけの拳を振りかぶるド素人に、南は思わず哀れみを感じてしまう。


 阿呆が、この程度で焦んなや。まだ序盤――。


 南の思考が寸断されたのは、カウンターを叩き込むべく踏み込んだ瞬間、静川が驚きの行動に出たからだ。振りかぶった左拳を後ろに引っ込めると、飛び込んできた南に右肩でタックルをかましたのである。


「なっっ!?」


 無論、ボクシングにおけるショルダータックルは、反則である。


 ただし、レフェリーがコールすれば、の話だ。


 この時レフェリーは南の左斜め後ろに立っており、サウスポーである静川の右拳がきわめて見えにくい位置にいた。

 さらに、カウンターのために飛び出した南の背中が邪魔になり、静川の右前腕が完全に視界から消える形となり、ショルダータックルかボディー打ちか判別不能な状態になっていたのだ。


 体重も体格もまるで違う静川のタックルは、南の小さな体を軽々と、真後ろにあったコーナーポストへ激突させた。

 しかも、まさかの、レフェリーによるコールがなし!


――、なんや今のは!? なんで試合が中断されんのや!? 


 恐慌状態に陥った南は、判断能力の大部分を失っていた。コーナーにぶつかった反動で思い切り正面へ突き飛ばされる形になり、構えもくそもない無様な格好をいられる。


 その、ガラ空きになった顎の先端へ、静川は右ストレートを突き込んだ。


 パンチの接触によって瞬時に正気を取り戻した南は、自分が喰らった拳が『右』であることに安堵した。

 サウスポーの右ストレートは所詮しょせんジャブの延長。威力は知れている――、最後までそんな勘違いをしたまま、南の視界がレッドアウトした。


 静川は本来右利き、いわゆる。そして彼が放ったパンチは、正確にはボクシングのストレートではなく、拳法でいうところの『順突き』であった。


 単純な体の規格でいえば、静川の適正はフェザー級からスーパーフェザー級にあたり、今戦っているこのライトフライ級とでは、


 耐久限界を超えた衝撃に、南の下顎骨かがくこつは中央から真っ二つにち割られ、半断裂した唇と歯茎で皮膚がギリギリつながっている状態だった。


 パンチのショックで仰向けに倒れた南は、大げさに痙攣けいれんしていた。しかし、目耳鼻口すべての穴から出血がみられた為、レフェリーは速やかに試合を終了する。


 誰も、何も言わなかった。

 直前のショルダータックルは、相手セコンドにも見られていただろう。だが彼らは知っているのだ。プロのリングでは、一度つけられた裁定はけして覆らない、ということを。


 だから、その場で誰よりも怒り狂っていたのは新海だった。

 罵倒の言葉すら見つからぬ、果てしない激怒に飲み込まれた新海は、全身の血液が頭にのぼっている。真っ赤などという表現では生ぬるい。新海の顔は、彼の目の色と同じ焦げ茶色になっていた。


 ホールの天井を見上げたまま、静川はライトの冷たい輝きに打たれていた。


 いつかこの光が、温度をもつ日がくるのだろうか。

 その答えが世界戦のリングにしかないことは、彼にもわかっていた。


 勝利の喜び、試合を終えた達成感。勝者にあるべきそれらの感情が、静川の瞳から一切感じられない事に、レフェリーは当惑する。コールの際に掴んだ静川の腕は、たった今戦いを終えたばかりの選手とは思えないほど、冷たかった。


 数秒前に、対戦相手を破壊してのけた狂気さえ、ない。

 ただ、虫のように乾いた『何か』が、この男の皮膚の下でうごめいている、そんな非人間性を感じてしまう。気味が悪くなったレフェリーは、しかし静川から視線を外さないまま、リングを降りた。


 担架で運ばれていく南の姿には、ついに一瞥いちべつもくれず、静川は花道を帰っていく。相手コーナーに挨拶をしなかったのは、わざとだった。一度戦った相手とジムには、二度と関わりたくないという怯えがそうさせた。

 それほどに、静川にとってリングの外は、恐ろしい事ばかりだった。


 控室に入るなり、背後からついてきていた新海の罵声が放たれた。


「クズ野郎が……。あれのどこがボクシングなんだよ? ええ?」

「パンチで倒した。ボクシングだろ?」

「ふざけんじゃねえ! てめえそれでも――」

「じゃあアンタ、?」


 静川の一言は、新海の思考を文字通り凍りつかせた。


 そう。元はといえば、試合の準備期間を無視した新海の無茶なマネジメントが、すべての原因なのだ。だから静川は勝つために、ルールの限界を攻めただけ。

 それほどに、ボクサーとしての南泰平は『本物』だったのだ。


 ほんの少し冷静さを取り戻した新海は、そこでようやく、今の静川の状態に気がついた。


「お前……」

「…………なんですか?」


 ベンチに座る静川大樹の全身には、1ラウンドKOという結果には不釣り合いなほどのダメージが刻まれていた。腫れ上がった頬、内出血した脇腹、致命打こそ防いでいたが、南の拳は確実に静川を削っていたのである。


 キャリアで勝る南泰平を相手に、長期戦は自殺行為。だが、早期決着を急げばカウンターの餌食になる。そんなジレンマを乗り越えるため、静川は綿密に試合運びを練っていた。


 試合開始直後からディフエンスに徹し、静川は南にリング中央を、つまり主導権を渡したようにみせかけた。そして南を中心にサークリングしながら、静川はレフェリーが目的の位置に来るまで耐え続けたのだ。それも、自分と南とコーナーポスト、この三つが一直線につながる瞬間に、タイミングまで調整しなければならなかった。


 さらに、南のパンチは甘くない。

 アマチュア時代、勝った試合のKO率が50パーセントを超えるような男の拳が、ぬるいわけがない。データを見た瞬間に、静川はこの試合を無事で終わらせるのは諦めた。どう考えても、そんなことは不可能だったのだ。


 静川は勝つために、ひたすら耐えていた。だからこそあの千載一遇のチャンスに、南へ行った攻撃のすべてに、躊躇ためらいなどなかったのである。


 しかし、静川もまた無事では済まなかった。その事実が、唐突に新海を正気に戻していた。

 当たり前の話だが、静川もまた一人の人間であり、痛みを感じない人形ではないのだ。これまで彼が行ってきた言動の数々が、周囲の人間の目をくらませていただけなのである。


「……明日病院いけ。次の試合は、それから決める」


 それだけ言って、新海は静川のグローブを外してやった。


 同情など、しない。この男が自分で決めて自分でやった不始末の結果が、この傷なのだ。

新海が静川の事情を詮索する理由も、義務もない。明日からはまた、これまで通りの距離感でマネジメントをするだけだった。


 だが、これで5戦5勝。

 新海も、そろそろ本格的に静川の売り込みをする時期かもしれなかった。今日の対戦相手であった南もそうだが、これから先は敵がどんどん強くなる。B級ボクサーの上位陣というものは、すぐにでもA級で通用するような曲者揃いなのである。


 自身はプロ経験のない新海だが、以前は様々なジムでボクシング興行に携わってきた。業界の事情にも少しは通じているのだ。だからこそ、今まで見てきたどの選手、どのボクサータイプにも該当しない静川の存在が、否応なしに気になってしまう。


 いつも通り先に帰ろうとした新海は、控室を出ていく際にそっと静川の様子を盗み見た。

 そこにはやはり、いつも通りの静川がいた。中身を丸ごとリングの上に置き忘れてきてしまったような、抜け殻になったボクサーの姿。


 新海は、金にも勝利にも興味がないボクサーなど、聞いたことがなかった。練習法や生活態度などよりも、それはプロアスリートとして、よほど致命的な資質の欠如ではないだろうかとも、思う。


 静川によれば、彼は世界チャンピオンになるためボクシングをしているらしい。しかし普段の言動をみるかぎり、あの男がチャンピオンベルトや王座に対して憧れを抱いているとは、新海にはとても思えない。


 事情の詮索はしないと決めておきながら、静川大樹を気にかけている己に、新海はバツが悪くなる。だから彼はすぐに、帰ったら酒でも呷って、とっとと寝てしまおうと決心した。


 それにしても、



「……、勝った時くらい、嬉しそうなつらァしやがれ」


 

去り際、新海もまた一人の人間として、静川に軽蔑以外の感情が沸いてこなかった。



◆      ◆     ◆

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