第2話『共食い生け簀』
その日の昼休みは、勝手が違っていた。
初夏の爽やかな風が吹き込む教室の中には、笑い声が絶えなかった。
小学四年生という年代は、ひどく自由だ。低学年のような右も左もわからない年でもなく、また五、六年生のように中学への準備を始めるような段階でもない。慣れ親しんだ校舎の中で、好き勝手にしたいことをやる。子供達には、それが等しく許されていた。
自然、グループ形成にも差が現れる。運動好きな男子達はこぞってボールを奪い合い、サッカーやドッチボールに繰り出していく。女子は少人数で分裂し、おしゃべりに興じているのが常だった。
その日はたまたま人数が足りず、アウトドア派閥の男子達がサッカーのメンツを探していた。教室を見渡すと、窓際には何人かの男子が集まっている。彼らはいつも室内遊戯に興じているグループで、今は最近流行っているカードゲームに熱中しているようだった。
ボールを持った体格の良い少年が、彼らのもとへ近づいた。
「なぁ、サッカーしようぜ」
普段は声をかけたこともない。そんな別世界の人間を誘ったのは、サッカーが人数を必要とするスポーツだったからだ。でなければ一生関わり合いになることはない、とさえ、その少年は思っていた。
「サッカーしようぜ」
もう一度、少年は言った。
カードゲームをプレイしていた少年たちは、迷惑そうな顔を作ってから「また今度な」と言った。
その『今度』が、一生来ない事を察した体格の良い少年は、なんとか彼らにサッカーをさせたかった。かといって、彼らを無理矢理運動場へ引っ張っていったところで、無気力にうろうろされるだけで意味がないというのも理解していたので、少年はますます困ってしまう。
カードの束をシャッフルしていた少年の一人が、体格の良い少年に声をかけたのは、その時だった。
「そんなにサッカーやりたいのかよ?」
彼らはお互いに、いやな目をした奴だと思った。
◆ ◆ ◆
……雨が、降っている。
六月の雨粒には、冬場のそれほど鋭さはない。だが、とめどなく降りそそぐ大粒の雨は、じわり、じわりと体力を削り取っていく。
静川が服を着替え終わったのは、試合が終わって一時間も経った後だった。シャワーも浴びずに荷物をまとめた彼は、まるで夜逃げのように会場をあとにした。
死に物狂いの練習、それに匹敵するほどの減量苦。しかし、そうやって手にいれたはずの勝利は、舌はおろか脳にさえ後味を残さない。ただ、スポーツドリンクの事務的な人工甘味だけが、減量と試合から解放された喉を潤すだけだった。
撥水加工を施されたウィンドブレーカーが、懸命に雨をはじき返している。
静川はサンドバッグになった気分だった。相手の手数が多すぎて、耐えきれなくなった生地にじきダメージが染みていく。試合を終えた緊張感の途切れによって、彼の体は最大アラームで栄養を欲していたが、それよりも今はベッドに倒れ込みたい欲求のほうが勝っていた。
行きの電車賃しか持っていなかったせいで、帰りは歩く羽目になってしまったが、静川は仕方がないと諦めた。
浴び損ねたシャワーのかわりに、世界中の毒素をこれでもかと空気中で凝縮した驟雨が、静川の脳天や肩を殴打する。乾いた汗はその度に洗い流されていったが、濁った視界がとらえた空は、怒りとも悲しみともとれない灰色で、なぜか眺めているだけで心が落ち着くような気さえした。
大胸筋の内側でローギアに入った心臓が、眠そうにトクン、トクンと脈打つ音がする。もう減量は終わったはずたが、静川が試合前日に補給した食事だけでは、十分な回復など見込めるはずもない。ガス欠は目前だった。
街は、思いのほか静かだった。
雨音、心音、それらのシンプルなリズムだけが、
最後の曲がり角を過ぎると、築三十年の一軒家が見えてきた。
そうしている間にも、静川の思考はすでに次の目標へ向けられている。今日の試合の映像は、早いうちに見直しておきたかった。実戦で不意に出てしまうクセや致命的な隙がないか、確認しておく必要がある。
新海宏がトレーナーとして機能していない以上、静川が試合後に行う弱点の洗い出しは、まさに彼の生命線そのものだった。
そういえば、今日の対戦相手、どんなヤツだったっけ――?
必死に考えてみたものの、静川にはもう、顔も名前も思い出せなかった。
「……あ、う……?」
気が付くと、ベッドの上で横になっていた。
一体、どれほどの時間、気を失っていたのだろうか? 服はすっかり乾いていた。
外は暗い。家にたどり着いたところまでは覚えているのだが、玄関から部屋までの記憶が飛んでいる。
しかし、静川は深く考えるのをやめた。
ハードワークや試合の後は、こうした状況に陥りやすい。無闇に頭部を打たせた覚えはないが、過剰な無酸素運動のツケは確実に脳を蝕む。その程度のリスクは、静川も織り込み済みだった。
フローリングの上にはベッドとペット用の小さなケージ、ノートPCが一つだけ。ほかには何もない。見慣れた自分の部屋だった。
静川が携帯の電源を入れると、表示された日時は試合から二日ほど経っていた。
体が異常に軽い。胃の中身はもちろん、内臓という内臓が引き抜かれたような感覚がする。ベッドから身を起こした静川は、ひどく臭う服を脱ぎ捨てて、バスルームへ向かった。
深夜のことである。ほかの住人を起こさないように、静川は足音を殺して階段を下りていく。
脱衣場の鏡に映った彼の姿は、死にかけた犬のようだった。
落ちくぼんだ眼、青白い肌、不自然に浮き上がった肋骨。そのくせ、胸も腹も引き締まり、横から見ると体の後ろ半分にだけ妙に筋肉が寄っている。
ボクサーに、否、プロアスリートになるということは、ある意味で人間を辞めてしまうという事である。競技の進行に最適な形へ肉体を改造し、それを機械のように正確に動かす為、反復練習によって動作パターンを全身に染み込ませていく。
そして、皆、なにかを失うのだ。
強さを手に入れるということは、悪魔との取引に似ている。代償の大きさに比例して、より強大な力を手に入れることができるからだ。多くの場合、それは時間と労力という形で商材になるが、実はこの取引が不平等なものだという事実に、静川はもう気付いている。
求められる代償は人によって
その点でいえば、静川大樹は、確実に後者側の人間であった。
冷え切った体に、シャワーの熱が痛かった。
試合のダメージもあるのだろうが、脂肪をそぎ落としてエッジの立った全身には、あらゆる接触が攻撃に等しい。悪魔との取引を重ね続けた静川の体には、余計なものはもうほとんど残っていなかった。
過去の彼を知る者たちが、今のこの姿を見ても誰もそうとは気づかないだろう。静川自身でさえ、そう思うのだ。成長期を挟んだ変化とはいえ、ひとりの人間がここまで変貌するなど、そうはあるまい。
静川は疲労のせいか、いつにもまして全身が自分の物ではないような感覚がした。
体を引きずるようにバスルームを出た静川は、無意識に体重計へ乗っていた。
プロになってから一日に最低三度は計量する習慣になっているが、その甲斐あって静川はウエイトコントロールに自信がついている。試合直後ということもあって、体重はずいぶん目減りしていたが、その分食べられるというサインでもあった。
脱衣場からキッチンまでの数メートルが、異常に遠く感じる。とうとう限界に達した空腹が、指先の震えとなって現れていたが、静川は壁に寄りかかりながら、なんとか足を動かした。
冷蔵庫の扉を無造作に開くと、彼は理性をフル稼働して経口補水液を手に取った。
いくら度を超えた空腹に晒されていても、ここで手順を間違えれば命取りだ。
減量後の栄養補給も同じである。前日計量を終えた格闘家の中には、補給を焦って病院送りになる者もいるのだ。消化準備の整っていない体内にいきなり固形物を放り込むことは、冗談でも何でもなく、自殺行為なのである。
喉奥を滑り落ちていく液体の感触が、胃に収まるまでの間、静川は家の外の雨音に耳を澄ませていた。
闘志は、まだ回復していない。
だが、全勝の余韻に浸るような余裕もない。
数分後、ようやく落ち着きを取り戻した静川は、冷蔵庫の奥に仕舞っておいた作り置きの食料に手を付けた。
鶏のささ身と卵白だけをかき混ぜて、焼いただけのものだ。およそ料理と呼べない代物だが、体を作るためだけの機能を備えた燃料である。前回の食事から丸二日、汗だけはたっぷりと掻いていたので、申し訳程度に塩コショウを振り、彼は温めもせずに口へ放り込む。
いまだ成長期のさなかにある静川の肉体は、さらなる栄養を求め続けていた。
しかし、想像を絶するほど強烈なその欲求を、彼は断つ。必要なのはボクシングで勝つための機能だけ。不用意な栄養摂取は予期せぬサイズアップを招いてしまう。
静川の属しているライトフライ級は47.627キロから48.988キロまでというウエイト幅をもつ。この、たった1キロちょっとの重量幅に、自分の体重を押し込めなくてはならない。
ウエイト制を導入している現代格闘技では、選手が己の体格に適した階級で試合を行うことは、ほぼ、ない。
あらゆる減量によって無理矢理脂肪と水分を絞り出し、前日計量時にだけ、契約ウエイト通りの体重を偽るのだ。そして試合開始までの二十数時間で、減量で失った水分やエネルギーを取り戻し、契約ウエイトよりも大きな体格と大容量の筋肉を、試合会場に持ち込むわけである。
だからこそ、普段の節制が物を言うのである。
ただでさえ、身長が百七十センチに達してしまっている静川は、これ以上無駄な体重を1グラムも増やすわけにはいかない。リミット48.98キロ、そこから内臓と骨重量を差し引いた残りは、可能な限りボクシングに必要な筋肉に変えなくてはならないのである。
本当なら、試合後はダメージやストレスからの回復を優先して食事を行うものである。だが、静川にその選択肢はない。一度体重が増えてしまうと、そこからの再減量が不可能なほど、骨格がライトフライ級の規格を超過してしまっているのだ。
だから、さらなる食料を求めようとする手を強引にポケットへ突っ込んで、静川は逃げるように自室へと戻っていた。
あと数時間もすれば、またロードワークに出ることになる。
せめて、それまでは何も考えず、夢の中に沈んでいたかった。
静川はすっかり温度の抜けた布団に潜り込み、そっと目を閉じた。だが、睡魔はすでに部屋から出ていった後だった。
ベッドに横たえた体が、思い出したように軋みをあげている。
プロのリングの過酷さはこういう形でも現れる。たとえ直撃を許したわけではなくても、全開出力での運動は短時間で筋肉痛を引き起こすのだ。脂肪が落ちて敏感になった体には、それは拷問も同然の痛みだった。
……、世界チャンピオンに、なる。
たったそれだけの言葉で、いかなる苦痛にも耐えられる。
どんなことでも、できる。
いつの間にか戻ってきた闘志が、軽々と瞼を持ち上げていた。
一秒でも早く、強くなりたい。
自分に残された時間があとわずかだという確かな予感が、静川を駆り立てる。やがて現れた朝日の輝きが、夜を殴り殺すさまを、彼はカーテンの隙間から見ていた。
◆ ◆ ◆
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