明日をみる人面獣

腹音鳴らし

第1話『共食い生け簀』


「い、今、なんて言った……?」


 かねてより高血圧を指摘されていた新海宏しんかいひろしだが、その日は怒りのあまり、視界の上半分が真っ赤になっていた。

 新海が相手の顔をまともに見る事ができなかったのは、自身の体調不良だけが原因ではない。目の前の男が発したくだらない一言が、ただでさえ短い新海の堪忍袋かんにんぶくろを、端微塵ぱみじんに吹き飛ばしたからだ。


 新海ボクシングジムは、時代から取り残されたようなボロビルの一階に居を構えていた。

 スタイリッシュな都会のジムとはまるで異質なこの空間には、汗臭いマット、ガムテープとボロ布で何度も補修されたサンドバッグ、茶色く変色した窓ガラスが嫌でも目に付く。どれもこれも、このジムの住人に相応しいみすぼらしさだ。


「もういっぺん、言ってみろ。静川しずかわ

「……次の対戦相手、できるだけ弱い奴を探してください」

「てめええぇえええ!」


 パイプ椅子から立ち上がった宏は激昂して静川に掴みかかったが、赤く染まった視界のせいで相手の胸倉をとらえ損ねた。……ばかりか、コーナーポストに顔面から突っ込んでしまい、彼は盛大に鼻血を噴き出す羽目になる。


 気勢を削がれてうずくまる新海の前に、幽鬼のような男が立っている。

 身長は百七十センチ台半ば、手も足もそれほど長くはないが、Tシャツの袖から伸びた二の腕は、心持ち太くみえる。

 だが、この男のもつ最大の特徴は、その眼にあった。

 熱さも冷たさもない、非生物的な輝きを放つ、眼。


 ダイエット目的の中年相手に小狡こずるく稼ごうとしていた新海にとって、静川は文字通り最初で最後のジム会員である。そして皮肉なことに、彼は新海の運命を一手に握っていた。


3戦3勝。それがC級ライセンスをもつ静川のレコードだった。残り、あと一試合勝つことができれば、晴れてB級ボクサーへ仲間入りという段階である。


 高校でアマ経験があるわけでもなく、いきなりプロでクリーンなレコードを作り上げた静川は、現代のボクサーとしては異色の存在であった。

 若く、いかにも勢いのある静川を、ジムのホープとして売り出そうとしていた新海の目論見は、しかし、先ほど彼が口にした反吐の出るような浅知恵によって、ぶち壊しにされてしまう。


「おれは、世界チャンピオンになりたいんですよ」


 いけしゃあしゃあと、静川は言う。

 新海には、この男が何を考えているのか、まるで理解できなかった。



◆      ◆     ◆



 ボクシングをしている間だけ、不感症になれた。少なくとも、気分だけは。


 静川の眼球が捉えたパンチの情報は、脳からの指示を待たず、脊髄から全身へと最速で回避を伝達していた。

 

 近代ボクシングにおけるトレーニングは、ディフェンステクニックの向上に多大な時間をかけている。殴り合いが本質であるこの競技に、進んで参加しようという選手達。そのほとんどが、対戦相手を傷つけるための力を先天的に備えているからだ。

 そこで、疎かになりがちな被弾のリスクを低減するため、トレーナーは彼らにこの技術を叩き込む。上体でパンチをかわすスウェー、頭を振るウィービング、単純なアームブロックから、相手のパンチをグローブで弾くパーリング。覚えることは山のようにある。


 ところが、静川大樹は前述した選手達とは正反対の気性を持って、ボクシングの世界へ足を踏み入れていた。

 

 彼は対戦相手から殴られるのが誰よりも恐ろしく、そして殴るのも同等に恐ろしいものと考えていた。

 人体は脆弱で、殴っただけですぐに壊れる。

 かといって相手を殴れば、とたんにいらぬ怨恨を生み、のちのちまで憂鬱な気分にさせられるからだ。その結果、静川が選んだ道は、すべての攻撃を回避しつつ、相手の意識を一撃で断ち切って勝つ、というものだ。

……もちろんそれが夢物語である事は、たった今、彼の対戦相手が血だるまになって反撃を繰り返していることからも、明らかだった。


 身の毛もよだつようなパンチをかいくぐり、己の理想とはかけ離れた現実を前にして、しかし静川の眼はなお冷ややかだった。

 相手に対する過度の敵愾心てきがいしんや憎悪、恐怖といった感情は、己の体の操作状況を悪くするばかりでメリットがないのである。故に、静川はリングへ上がる前にそれらを捨てていた。


 大幅に狂ってしまった作戦に、静川はいちいちイラついたりしなかった。

 それが、失った人間性と引き換えに、彼が手に入れたもの。


 対戦相手の志賀京太しがきょうたろう郎は不良あがりの分かりやすいインファイターで、攻撃本能のコントロールに難のある選手だった。過去の試合映像を見るかぎり、攻め過ぎて防御が甘くなり、中盤から後半にかけて相手の被弾を許してKO負け、というパターンが目立つ。


 志賀はまだ五戦目のキャリアだが、被弾を恐れないファイトスタイルのせいで、試合の前からまぶたが垂れていた。加えて、先ほどから続く攻撃も精度を欠いており、打たれ過ぎによる視覚の不具合を感じさせている。

 もちろん、静川は試合の開始直後から、機械的に志賀の眼球周辺にパンチを集中させていた。


 ボクサーであるにもかかわらず、実は相手を殴る事に心理的な躊躇ためらいを持つ静川だが、同時に彼は徹底したリアリストでもあった。

 このまま志賀の頭部にパンチを集め、失明させるような結果になれば、当人から復讐を受けることはまずあるまい。おおよそアスリートのそれとはかけ離れた思想だが、遺恨を断つ鮮やかな勝ち方ができないのであれば、できるかぎりのダメージを与えて心身を折らねばならないと、静川は決意を固めていた。


 無論、見ている客は気分が悪くなるだろうが、それは静川にとって好都合だった。

 リングの外では、常に鼻つまみ者でありたいのだ。他人から興味を持たれることほど、恐ろしいことはないのだから。


 ふいに、志賀の左フックが右肩に引っ掛かった。

 クリーンヒットには程遠い、無様な一発。しかし鍛えられたボクサーの、命を投げ出すような一発が、ガードの上からでさえダメージを与えられることを、静川はもう知っている。パンチはやはり痛かった。


 これまでの経験から、この種のパンチを打ってくる男が不屈の精神を備えていることを察した静川は、志賀の中で頼りなく燃えているボクサーとしての灯火ともしびを、消すと決めた。


 3ラウンドをかけてジャブをヒットさせ続けた志賀の両瞼りょうまぶたは、見るも無残に腫れ上がり、眉の下が切れて血がしたたっていた。

 あの傷口を、今よりもっと広げてやれば、試合の途中でもドクターストップがありうる。しかし、4ラウンドに入ってからの静川は、あえてボディーを執拗に狙い打っていた。


 C級は4回戦、つまり今は最終ラウンドなのである。ポイントで大差がついているのを理解している志賀が玉砕覚悟で特攻してくるものと、セコンドの新海は心配していたが、静川の小刻みなジャブやボディー打ちがそれを許さない。

 なんとかインファイトに持ち込みたい志賀の踏み込みを、静川の両拳が徹底的に寸断し続けている。


 この、ボクサーにはまるで向いていなさそうな男は、相手を圧倒するスピードも、強打も持ち合わせていない。しかし、命中精度だけは特筆すべきものがある。

 3ラウンド、実に9分もの時間をかけて、その事実を体に刻み込まれた志賀もまた、やすやすとボディーブローをもらうような隙はみせなかった……、静川の狙い通りに。


 あるボクサーは、すべてのKOはボディー打ちから生まれると明言している。

 ヘッドショットは容易なKOをもたらすが、そこに至るまでの過程で必ずボディー打ちが必要になるからだ。『意識を散らす』、と、口で言うのは簡単だが、集中力を研ぎ澄ましたボクサー相手に事を成すのは至難の業である。だからこそ、ボクサーは積み重ねたパンチの『数』と『重さ』で、相手の肉体と集中力を『削る』のだ。


 志賀は、もう擦り切れていた。


 腹をガードした腕に飛んでくるはずだった、静川のパンチが、志賀の頭に突き刺さった。眉間みけん顎部がくぶ、側頭部にテンポよくパンチをねじ込まれ、元々見えにくかった志賀の視界が、完全に閉ざされる。


 試合前から目を患い、ボクサーとしてもう幾ばくもない志賀の寿命をかき消すような一撃が、彼の右のこめかみを打ち抜いた。しかし、静川は止まらない。彼は勝利を確信していながらも、志賀からの反撃を許さぬため、ひいては今後一切の武力解除の必要性を感じていた。


 コーナーポストに寄りかかる志賀がダウンするまで、あと一秒もない。レフェリーが身を挺して二人の間に割ってくるのを、静川はわざと体でブロックした。驚いたような志賀の顔に、一発、二発、三発まで左右のフックを叩き込み、勢い余ったふりをして大きくよろける。


「ストップ! ストップだ静川ッ!」


 ようやく声を上げたレフェリーに押しのけられて、静川は自分のコーナーに戻っていく。


 カウントがないのを確認すると、彼は口元を緩めた。うつぶせに倒れた志賀がピクリとも動かない。じわり、と安心のぬくもりが、胸の内に広がっていくようだった。


 もう二度と、リングの内外でこの男と会うことはないだろう。


 眉根を寄せたレフェリーが、静川の手を持ち上げてコールした。

 まばらな拍手も、相手コーナーからの罵倒も、忌々しそうにこちらをねぎらう新海の声さえ、彼には聞こえていなかった。ただ、名残惜しそうに回転数を落としていく心臓の音と、志賀が体に刻んでいった拳の熱だけを感じながら、静川はリングを降りていく。

 花道を帰る静川の背中に、観客からの賞賛の声はなかったが、それはいつものことだった。


 彼が控室に戻ると、新海が血走った目をして詰め寄ってきた。


「てめえ、いつまでこんな試合を続けるつもりだ? え?」

「……、なんの話ですか?」

「しらばっくれてんじゃねえよ、ポイントでリードしてんだからわざわざ倒しにいくな。それと、試合中に笑ってんじゃねえ」

「KOはボクシングの華でしょうに」

「あれじゃただの弱い者いじめだろうが。レフェリーどころか観客まで敵に回しやがって、もう二度とあのジムからスパーリング・パートナーは呼べねえぞ。てめえそれでもプロか?」


 それだけではない。悪い噂はすぐに広まる。

 きっと明日には、新海の懇意にしている数少ない知人のうち、いくつかのジムの会長から絶縁を申し渡されるのは目にみえていた。そうなれば、新海はただでさえいけ好かないこの所属ボクサーに、さらなる依存を強いられることになる。もうこの男をマネジメントする以外、生き残る道がなくなるだろう。


 はっきり言って、ボクサーとしてクリーン・レコードをもつ静川に今ジムを去られれば、新海は終わりだ。


「話、終わりましたか? 早く、グローブ外してください」

「……、いつまでもそんなんじゃ、ファンもスポンサーもつかねえぞ」

「別に、いりません」

「馬鹿野郎。後援会なしで、世界なんぞ行けるわけねえだろうが」

「そういうもんですか?」

「そういうもんなんだよ」


 グローブを外した静川は空中を見つめたまま、しばらくたたずんでいた。相変わらず何を考えているのかまるで分らないその横顔に、新海はもう掛ける言葉すら探すのを諦めて、先に帰ってしまった。


 祝勝会などという発想は、ハナから存在しない。勝手に帰って、勝手に休んで、勝手に練習して、試合を組む時だけまともな会話が成立する。信じがたい事に、静川と新海はもう一年もそんな関係を築いてきた。


 静川は深く、深く息をする。

 体はまだ熱を帯びていた。

 

 今日の勝利でB級に昇格したことで、次戦からは手頃な雑魚を探すのにも手間がかかるようになるだろう。最終的にチャンピオンと戦う事になるのだから、強いボクサーと対戦経験を積むのが王道なのだが、静川はこの命懸けのゲームを舐めてはいなかった。


 彼は本当に、必要に迫られるその時まで、試合でのダメージは一切受けるわけにはいかない、と考えていた。


 幸い、静川が志賀から受けたダメージは、すべてブロックの上からのものだったので、一日休めば筋肉痛も取れる算段はついていた。つまり、明後日からはまた通常のトレーニングを行える。対戦相手の都合さえつけば、次の試合は一か月後でも構わないと彼は思っていた。



「……、なぁ君、血が出てるぞ?」



 真正面に立っていた見知らぬ選手が、静川に声を掛けてきた。


 打たれたわけでもないのに、鼻の右穴から顎にかけて血が一筋、垂れている。

 だが静川は返事もせずに、ぼんやりと空中を眺め続けていた。


 同室にいた他のジム関係者や選手達は、その異様な雰囲気を気味悪がっていたが、静川は誰もいなくなるまで、その場から動かなかった。


◆      ◆     ◆

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