15 思慕と労り

 先輩がいなくなって、ペアが変わっての業務だった。


 夏を讃える蝉時雨せみしぐれを避けるように片陰かたかげにひっそり佇む葬儀場の最上階。


 ご家族の控室に向かうだけでも荷物の重さに押し潰されかけて、へろへろだ。


 お部屋に到着した。


 異様な、と言うのはこれまでのご家族との対面とは明らかに違う、息の詰まるような重苦しい雰囲気が漂っていた。


 故人様は六十代男性、三年前に行方不明となり数日前にご遺体で発見された。


 首元から下の全身を覆うようにお布団が、お顔には白布がかけられていた。


 お布団の上から体格を見るに、かなり大柄な方だ。


 故人様の奥様と、息子様が三名、故人様が安置されている部屋と襖を挟んで隣のご家族控室にいらっしゃった。


「私見てられない。見ないから全部やってもらって」


 湯灌のご説明をしている途中、掠れる声で奥様がおっしゃって退室された。


 お体のご状態を見るために浴衣をくつろげた時に気づいた。左手の小指がない。


 お顔は腐敗が進行しており、赤黒く変色していた。


 僕の顎先から汗が滴り落ちた。


 先輩方から散々聞かされていた通り、夏の湯灌は地獄の暑さだ。


 控室の冷房の設定温度をこっそり下げた。


 熱中症になって納棺師が倒れました、などという事態になるよりマシだ。






 ご家族の立ち合い一切無しの湯灌が始まった。


 髪を何度洗っても後から後から傷んだ血液が零れてきた。

 閉まらない蛇口から水がぽとぽと落ち続けるように血が止まらない。


 故人様の今日までの人生やご家族の事情を僕は何一つ知らないけれど、せめて最期くらい清潔なご状態にして差し上げたい。


 どんな人生を歩んだ方であれ、僕は納棺師として全力を尽くしたい。


 僕はひたすら必死になって、手を動かしていた。






 湯灌の途中、とんとんと襖を叩く音がした。


「はいっ」


 僕は反射的に返事をした。


 こちらを窺うように開いた襖の奥に、故人様の息子様がおられた。


 確か次男様だ。


「あ……ちょっとお風呂、見ても、大丈夫ですか……?」


「はい。どうぞお近くへいらっしゃってください」


 僕は返事をしながら素早く座布団を敷く。


 故人様の足元に近い場所に敢えて誘導した。

 お顔を直視するのは多分お辛いはずだから。


 息子様はしばらく微動だにせず故人様の湯灌を見つめておられた。


 湯灌の終わり頃、お体を拭き上げている時に掠れるような吐息を零された。


「……何か思ったより、綺麗ですね」


「これから顔色の良くなるお化粧をさせていただきますので、もっと格好良くなられますよ」


 息子様が小さく笑って、


「またお化粧終わったら教えてください。これなら母も……怖がらず、父に会えるかもしれないので」


「かしこまりました。ではご納棺前にお呼びいたしますね」


 僕は思考を高速回転させて、室内光の具合を見ながら、手早く丁寧に化粧を施す。


 故人様の安置されている部屋は暖色系の仄かな灯りだが、お通夜の際には葬式場に移動する。


 先程ちらりと視線を滑らせてチェックした葬式場は、このお部屋より明るく白い照明だった。


 それを見越して顔色を自然に見せる厚化粧をする。


 女性ではないため、お化粧しています感が出ると、普段の、ご家族が良く知っておられるお顔と印象が変わってしまう。

 慎重な加減が必要だ。


 お化粧が終わってご家族を呼びに行った。

 息子様は三名ともいらっしゃったが奥様は来られなかった。


 ご納棺をして枕飾りをして、葬式場にお棺を移動した。


 ご挨拶して立ち去ろうとした、その時だった。


 遠慮がちにお棺に歩み寄る奥様の姿があった。


 僕は周囲に悟られないよう、そっと息を呑んだ。


「――お父さん……あなた、ねえ、何で死んじゃったの……?」


 か細い、悲鳴のような声だった。


 押し殺していた思いが決壊するように奥様は手を伸ばして、お棺に触れた。


 それから故人様のお顔を撫でるような仕草で空中に指を置いた。


「本当に……本当に、もうちょっと、長生きしててくれたらねえ。……生きて……生きて会えたかもしれないのに……」


 非難と、それを何倍も上回る思慕と労り。


 奥様は縮こまるように肩を震わせた。


 お棺の中、故人様は口元を固く引き結んで、代わりに瞼は朗らかに閉じられていた。


 まるで奥様の言葉の一つ一つを噛み締めて聴いておられるようだと、僕は錯覚した。






 僕らが改めて奥様にご挨拶すると、奥様は睫毛まつげを涙で湿らせて、それでも口元に小さな笑みを乗せた。


「ありがとう……ございました……」


 僕らに向けられた感謝の言葉。


 その言葉が脳に届くやいなや喉元から熱がこみ上げてきて、僕は泣くもんかと懸命に押しこめた。


 故人様の枕元にお飾りした純白の胡蝶蘭こちょうらんが悲しみを受け止めるように、その花弁に雫を湛えていた。





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