8 死後のこと

 終末期医療を主とするその病院には、足音も咳払いも脇道を走る車のエンジン音もどこかひっそりと響く。


 曇天。自然光の遠慮がちに差しこむ廊下は、そこに漂う静かな気配の正体を曖昧なままにしておきたいようだった。






 裏玄関で名簿に署名し、スリッパを履いて病室を訪ねた。


 病室のベッドの上に横たわる故人様は八十代女性、病死。


 死亡確認されてから数時間しか経っていないらしく、まだ体温がある。


 背中の死斑しはんも淡くにじむくらいの見え方だ。


 点滴が引き抜かれた傷からじわりじわりと血液が滲み出して、ベッドカバーの三分の一ほども血溜りが広がり、赤褐色の染みになっていた。


 マスク越しにも血の匂いが鼻をつく。


「生きてる人は点滴の針くらいの傷ならこんなに出血しないんよ。時間が経てば血は止まる。

 でも亡くなると体の血を止める機能も止まるからね。ガーゼを当ててるだけじゃ、ずーっと出続けるよ」


 高校の生物基礎で習った「血小板の働き」が僕の頭に浮かんだ。


 血を固めて止血する機能が全部消えるという事は、血が出続けるという事なのだ。


 生きている人間に当たり前に備わっている人体の生理現象が、死後には失われる。


 先輩は説明を加えながら、手早く防水シートで腕をぐるぐる巻きにして頑丈なテープで留めた。


「医者や看護師は生きてる人間の体には詳しくても、亡くなった後の事はよく知らないからね。

 前にご家族に看護師さんがいたんだけど『亡くなった後顔色が悪くなったから体を暖めておきました』ってガンガン暖房入れてたんよね。うっそん、状態悪くなるからやめてー!って思ったね。

 ご状態綺麗に保つには、とにかくドライアイスで冷やす、とにかく止血。大事だよね」


 僕は改めて納棺師という仕事の特殊さを感じた。

 そうか、納棺師の専門性の一つはそこなのかもしれない。


 先輩が葬儀社さんから預かった遺影用の写真と、ベッドに横たわっている故人様とを素早く見比べた。


 お化粧を施し終えると、明らかにお顔が柔らかな表情になった。


 僕は気付いた。


 今まで見ていたお顔は、死に際の苦しさに耐えるお顔だったんだ。


 今、お化粧をすることで現れたのが、おそらく生前ご家族が見ていた普段のお顔だ。


 おそらく最期に故人様がご家族に見せたいお顔だ。


 勝手かもしれないが、そう思った。






 ご家族は納棺には立ち会わなかった。


 故人様はこの後、葬儀社さんが迎えに来て葬儀場に運ばれる事となる。


 長い闘病生活お疲れさまでした。どうか安らかにお眠りください。


 病室を去る時、そんな思いを届けるように僕は深く一礼した。





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