6 魂

 余寒よかんの厳しい朝だった。


 故人様は六十代男性、死因不明。


 検死後なのだというそのご遺体は、パウチと呼ばれる防臭・防水性の白い袋に包まれていた。






 死後硬直しごこうちょくがなかなか取れない、と思って腕のマッサージを続けようとしたら先輩から叱られた。


「待って。そこ麻痺まひだから。無理矢理したら腕折れるよ」


 鋭く厳しい指摘に、反射的に怯んだ。


 死後硬直はマッサージで解けるが、生前からあった麻痺は解けない――。


 僕は叱られて怯んだ二秒後、自分が故人様の腕を折ってしまっていたかもしれない怖ろしさで、心臓を掴まれたように竦み上がった。


 細く息を吐き、大事故に繋がる失敗に怯え出しかけたが、それは業務に余計な感情だと言い聞かせ、どうにか追い出した。


 今は目の前の故人様のお整えをする事に最善を尽くさなければ。






 湯灌が始まった。


 故人様を横たえた浴槽の前にご家族が集まる。


 四名いらっしゃったが、その内のお一人が他のご家族に「終わったら呼んで」と言い、退席された。


 湯灌の儀を依頼されるご遺族は必ずしも皆が儀式に立ち会う事を希望されるわけではない。


 僕は、無理もない、と思う。


 実際これまでにも「顔をずっと見てると悲しくなってくる」とおっしゃるご家族はおられた。


 僕は湯灌の始まりの口上を述べ、故人様の髪を洗うため後頭部を手で支えた。


 その時、初めてその事に気付いた。


「――っ!?」


 息を呑んで、胸に沸き立った衝撃を力業で押し流した。


 自分の手元を盗み見るように見下ろす。


 故人様の頭部に大きな切開跡があり、手術用のホチキスで留められていた。


 ……頭が……とても軽い……。


 頭蓋骨ずがいこつの硬さはちゃんとあるのに、その中に質量を感じない。


 頭の中が、まるで空洞のようにも思った。実際どうかは、僕には分からない。


 ご家族からの聞き取りで多少の経緯を知った。


 故人様の、重さがほとんどないお体。

 おそらく脳や内臓のほとんどが解剖の際に預けられたのだ。


 湯灌が終わりに差し掛かり、先輩納棺師がご家族の視線を、故人様の耳に自然に誘導した。


「たくさん、お声をかけてあげてください。お亡くなりになった後も聴覚は最期まで残っていると言われております。ご家族様の言葉はきっとお父様に届いています」


 胸の内に無意識に湧く疑問。


 ――本当に、聴こえて、いるのだろうか――?


 指先から力が抜けてへたり込みそうになるのを、僕はなんとか堪えた。


 人の魂は、どこに宿るのだろう。


 心臓か脳か、命を終えたと同時に肉体からは飛び去ってしまうのか。


 魂、というのは宗教的な問いなのかもしれない。


 だとすると人それぞれに様々な正答が存在するのだと思うし、いくつあっても正しいのだと思う。


 その時点で人の魂の宿る場所に答えはない。


 だけど、考えずにはいられなかった。

 僕なりの答えなんて少し考えただけで思いつきはしないのだけど。


 今日僕がお会いした故人様はちゃんとご家族に別れを告げる事が出来たのだろうか。


 悔いはあるかもしれないが未練は残さずこの世に流していけただろうか。


 僕は祭壇さいだんに向かって手を合わせながら、どうかそうであってほしい、と祈るように何度も唱えていた。





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