5 ショック

 雪に成り損なった雨が、僕のスーツの肩にまばらな模様を描いた。


 冬場は手がかじかむ。


 湯灌は浴槽の運び出しと運び入れがあるため、業務中かなりの距離を何往復もしなければならない。


 浴槽は重く、運ぶのは重労働だ。


 葬儀場のご家族控室から駐車場までが果てしなく遠い。


 一瞬も止まっていられない忙しさから背中と脇は汗びっしょりでワイシャツが張りつくのに、手指は凍えて言う事を聞いてくれない。


 体力と気力が奪われていく。


 それでも僕には文句を垂れる余裕がなかった。






 ――故人様は、五十代女性、溺死。


 長時間お湯に浸かっていたため皮膚の下にティシューガスが発生し、顔と手足が風船のように膨れていた。


 ご遺体の腐敗が進行しているのは明らかだ。


 身近な方の死に突然直面したご家族の悲しみとショックが深かった。


 故人様のお姉様が目線を膝頭に固定させて、唇を震わせた。


「……風呂で溺れて亡くなってから、何時間も水の中にいたんです。冬場だから冷たかったでしょうね……」


 先輩が、ショックをこれ以上深めないためかほんの気持ち明るめの声のトーンで応えた。


「もしかしたら逆にそれが、妹様の亡くなった後のご状態にとっては良かったかもしれません。

 温かいお湯の中にいると、言い方は良くないのですが、どうしてもお体、徐々に腐敗してきてしまいますので……。

 冬場だったからこそ、今お顔が綺麗なご状態なのかもしれません……」


 その後は、ご家族の興味が死後のご状態の変化に移り、深い悲しみとショックの気配は和らいだ。






 業務を終えてから、先輩が「聞き取りの時、何でご家族の話題を逸らしたか分かる?」と僕に尋ねた。

 僕は首肯した。


「ご家族、特にお姉さんは悲しみが深かったからね。思い詰め過ぎないように淡々と聞いたんよ。

 もし私があの場で『そうですねぇ、お辛いですねえ』って深く共感してしまったら、ご家族は更に落ち込むだけだからね。分かる?」


「はい」


 さっきの対応が絶対正解とは言えないわけだけど、先輩の言わんとする事は、僕でも分かる気がする。


 実体験を引き合いに出すならば、僕も祖父の葬式では泣くだけ泣いた時間と、家族で静かに笑い合った時間があった。


 落ち込み続けるのは心が持たないと人間は本能的に知っているのかもしれない。


 大切な人がいなくなった後も人生は続いていく。


 大切な人が遺した物を背負いながら自分自身のこれからに希望を見出す事が、生きていく、という積み重ねなのかもしれない。






「てか今日『起こし』できてたじゃん」と先輩から唐突に褒められた。


 先輩の言う「起こし」とは故人様を抱きかかえてお着替えさせる事だ。


 これまで僕はコツを掴めずお着替えに手間取っていたが、今日は多少拙くも及第点くらいには上手くいった。


「故人様さ、ティシューガスで結構皮膚が裂けやすくなってたの分かった? あれねズルってなっちゃう事多いんよー。

 よく綺麗に起こしたね。偉いじゃん!」


「……いえ、あの、はい。まだまだ頑張ります」


 あの火のついたような忙しさの中で、先輩は僕の様子まで見ていてくれたらしい。


 あ、この人は僕を一人前の納棺師に育てようとしてくれてるんだ……。


 小さな感動が胸の底をつつく。


「よしよし。もう『起こし』はできるから、次は一分でも三十秒でも、業務の時間短縮、目指そうね?」


 あ、めっちゃ厳しい……。


 小さな感動が瞬く間に情けなくしぼんだ。





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