八月 ソフィア

 一九六五年八月、某所。




 銃声に気が付かなかったのは、夏の夜空に添えられた弔花のせいだった。窓の外に咲き誇る大輪の花。しかし、それが寂しく思えるのは、きっと今年が冷夏だからだろう。そんなふうにロキシーは思っていた。

 隣のマンションには、KGBの奴らが数人。こちらの取引の様子を盗聴していることに、ロキシーは自身の能力で気が付いていた。今年の二月にアメリカは北ヴェトナムに対する空爆を開始。それを受けて、組織されたベ平連。それを潰すために暴力団に資金を流す。そんな取引をCIAがやっているなどと世間に暴露されることは、防がねばならない。様子を見てきて欲しい。そんなふうに、それとなくヘンリーとサリーを向かわせた。君は勘のいい子だからね、本当に居るかもしれないから気を付けるよ。冗談めかしてそう言ったヘンリー。彼は優秀なヒットマンで、その腕にロキシーは全幅の信頼を寄せていた。少々スリルを求めてしまうところが玉にきずだったが、そこを慎重な性格のサリーがバックアップする。二人はベテランのやり手だった。


「悪いね、名前も知らないソ連の能力者さん。色々と訊かせてもらうよ」


 僥倖ぎょうこうとはまさにこのこと。ロキシーは口角を釣り上げていたかもしれない。盗聴している彼らの中には、ソ連の超能力者も混ざっていた。こちらを盗聴しようと試みているようだが、逆に捕縛して、機密情報を洗いざらい吐いてもらうとしよう。果たして、ソ連の超能力開発の実態はどんなものなのだろう。どんなふうに研究が行われているのだろう。人権なんて無視し放題の国だ。電極に繋いだり、投薬してみたり、身体をいじってみたりすることは当然なのだろう。自由の国で生まれたロキシーですらそうだった。ならば、少々の痛みには慣れているのだろう。だから、名も知らない彼女を、拷問して超能力開発の内情を吐かせることは難しいだろう。さて、どうしたものか。


 そんなことを考えていたところで。

 ロキシーは、仲間の鮮血を浴びた。



「なッ……!?」



 何が起こったのか、一瞬分からなかった。突如として眼前に転がったのは、仲間が射殺されたという事実。なぜ、と無駄な思考を働かせたせいで、死体が目の前に二つ増えた。死は闇の中からやってきた。次はお前だ。そうして、振りかざされた白銀しろがねの大鎌が見えた気がして、咄嗟とっさにロキシーは回避行動を取った。振り下ろされた不条理。刃は取引相手を刈り取ってしまった。風影ふうえいを纏う常闇の死神の登場に、作戦は失敗した。

 しかし、死神は許してはくれなかった。闇を駆ける辻風が望んだものは、この場に居る生命の絶滅だった。化物め。殺戮を望むマカロフPMに向けて、ロキシーはM1911の銃口を向けた。数の上では有利。しかし、そんなものは混乱と恐怖の前では意味を成さなかった。



「どうして……」

 紫黒しこくの双眸が、抵抗する意味を殺す。

「どうして……ッ」

 数など、冥府の門の前では無意味。

「どうして……ッ!?」

 鮮血の刃は、理不尽を条理に変える。

「どうして当たらないの!?」



 全弾外れた。黒い陽炎でも見ているのか。黒い衣をはためかせる様は、舞踊を演じる影そのものであり、実態があるようには思えなかった。放った銃弾は、全て虚像の中。弾は撃ち尽くした。



「運が良かったね。こっちも弾切れだよ」

「…………」

「こっちを覗き見してたのって、あんた? ……まぁ、もうどうでもいいや。――さよならДо свидания



 待て!! 逃げるな!! くそ、共産主義者め!! 叫ぼうと思ったが、声にならなかった。獣のような声を出しては、床を殴った。お前は誰だ!? 誰なんだ!? そうやって叫び散らすロキシー。そんな彼女の脳裏に、四文字のキリル文字が流れ込んできた。



「С……о……н……я…………ソーニャ?」



 死神の名前は、ソフィア・ルキーニシュナ・マヤコーフスカヤ。この日、ロキシーから全てを奪った紫黒しこくの死神は、ロキシーの全てになった。




 *****




「実は一発当たってたのか……」

「初めてだったよ、当てられたの」



 薄明りの中、ロキシーは布団の上でソーニャの素肌を撫でる。これが黒い衣を取り去った死神の正体か。触れれば分かる。なんてことは無い。一人の女の子だ。きめ細やかな肌。絹のように白く柔らかい。それだけに、左肩に残された銃痕が痛々しい。消えない傷。自らが付けた刻印。そんなふうに考えると、ロキシーの胸のうちに熱いものが込み上げてきた。何をしようと咎める者はこの場に居ない。衝動に駆られるままに銃痕を舐めてみると、ソーニャはくすぐったかったのか顔をわずかに背けた。

「我慢せず声出しなよ。ソーニャの声聞きたい」

「ゾーイが起きるかも」

「そしたら二人相手にすればいいじゃん」

「簡単に言う」

 ロキシーのことごとくは、ソーニャに奪われた。仲間もそう。春先にできた後輩もそう。初めてさえも彼女に奪われた。ソーニャの身体は本当に魅力的で、ハニートラップと分かっていながらも、ロキシーは断ることが出来なかった。滑らかな曲線。しなやかな肌。神が産み落とした叡智を、穢れた自らの指でなぶり、独占する。そんな背徳感も相まって、ついに行き場を失った体温が、吐息となって目の前の女体に自らの高揚を伝えた。ソーニャはというと、貞操を守ることに大して価値を置いていなかった。武器として使えるのなら使う。自らが信じるイデオロギーの純潔ささえ守れるのであれば、肉体などは如何いかようにも酷使できた。しかし、そんな考えだったからか、感じたことは一度もなかった。これまでに経験したのは、生理的な嫌悪か、さもなくば痛み。だから、とこの上では演技をするものとばかり思っていた。その意味では、ソーニャにとっての特別はロキシーであった。それに傷物になった身体はもう使えない。肉体の所有権は、ロキシーに独占されていた。

「ソーニャ……。舌、絡めたい」

「どんなねだり方だよ……」

 ソーニャは覆いかぶさるようにして、彼女もまた存在そのものを押しつけた。三人で幸せになろう。その考えに、ロキシーは不服だった。ロキシーは我儘で妥協を知らない。自分が半分こにされるならまだしも、ソーニャを誰かと仲良く半分こにするなど考えられなかった。全て私のもの。全部欲しかった。強欲に、貪食に、傲慢。あらゆる罪を犯したロキシーだったが、自らの内に入ってくるソーニャが、全ての罪を正当化した。

「そういうソーニャもだいぶ溜まってるじゃん」

「激しい?」

「好きにしなよ。……ねぇ、下の口とキスしたい」

「その言い方、どうにかならない?」

 ロキシーが入ってくる。内から突き上げてくる快楽に、思わず喘ぐソーニャ。胸の中で、ペンダントが揺れた。普段は隠しているが、飾り物に選んだのは歪んだ45APC弾の一部。一年前にロキシーのコルト・ガバメントから放たれたもので、ソーニャの左肩に残っていたものだ。初めこそ、被弾した屈辱を忘れないために身につけていたものだったが、いまや愛着のあるものに変わっていた。自分が初めて貰った物。一部は、まだ取り除けずにいる。ロキシーの一部は、ずっと身体の中に残ったままだ。

「コルト・ガバメントは好きだよ。扱いやすいし……私の初めてだから」

「ソーニャって、よく分かんないところで変人っていうか……変態だよね」

「比喩だよ。――私の全部をあげる。好きにしていいよ」

「お。じゃあ、KGB辞めるんだ?」

「そっちこそ。……もう続けられないんでしょ?」

 ソーニャの放った言葉は、悲哀に満ちていた。星の下で、ロキシーはCIAを辞めるからKGBを辞めるよう提案してきた。だが、ロキシーはどのみちCIAを辞める気でいた。その企みがばれたと知ってムキになったロキシーは、ソーニャを押し倒しては自らを誤魔化すように身体を押し付ける。けれど、ソーニャは確信を得た。


「やっぱ演技下手くそだね。ロキシーは正直で分かりやすい」


 三人で空を見上げた時からそうだった。ロキシーに三人で幸せになる気はなかった。もちろんロキシーはソーニャもゾーイも、両方好きだった。けれどそれ以上に、三人が各々好きなようにすればいいと考えていた。自由放任。もしそれで調和するようなことがあれば、それもよし。決裂すればそれまでだと。とにかく自分の思ったことが最優先事項。まさに彼女は冒険者だった。


「そっか、気付いてたか。私が演技、下手ってこと」


 興味関心のあるものには心を開き、蔑みの対象には心を閉ざす。それが顔に出やすい。それは知っていた。だが、そんなことをロキシーは言っているのではないとも、同時に理解していた。不自然に息が上がり、顔色もどこか悪い。薄明かりの中で映し出される彼女の影が、いまにも消えてしまいそうなほどに弱々しい理由を、ソーニャは知っていた。

「引き返すなら今だよ、ロキシー?」

「ソーニャとなら踊れるかも」

 ソーニャはソ連が作り出した超能力者。その能力を無理やり分類するのなら催眠術。視認した相手の認識を歪めることで、大抵の攻撃を避けることが出来た。さながら戦場の死神。同時に、存在自体がソ連の国家機密であった。それを独占しようとするロキシー。助かる見込みがあるとは思えない。

「敵は増えるよ。ソ連だけじゃない。アメリカ、中国、日本……。ロキシーは、世界中を敵に回せる?」

「その方がいいよ。私たち以外は敵。分かりやすくていいじゃん」

 悪魔みたいだ。ソーニャは呆れながらそう言った。実際、ロキシーは悪魔のような笑みを浮かべていた。すうっと猛禽もうきん類を思わせる黄金の双眸が眼前に浮かびあがる。それでいて、それはさながら夜明けに現れる天上の琥珀。道化師のように飄々とする彼女が、手玉に取ろうとしているのは世界。その企ては面白いのかもしれない。自棄を感じさせないのが、なお小気味いい。ならば、身をゆだねてしまおうか。

「堕ちなよ、ソーニャ」

「宇宙はもういいの?」

「行くよ。もちろん」

「ならついて行くよ、女王様Вели́кая。世界を広げてよ、私のエカチェリーナ」

「よく真顔で言えるね」

「比喩だよ」



 と、ドアが開いた。

 そこには、寝ぼけたゾーイの姿があった。



「ふあぁ…………うるさいなぁ……何ごとです…? ――って、わわわわわ、せせせせ先輩ッ!? な、な、な、って、ふぇええ!? 何やって、何やって、ななな、何やってるんですかっ!?」



 目の前の光景を目の当たりにし、眠気が一気に吹き飛んだゾーイ。顔を真っ赤にしながら、困惑と狼狽の中で、訳も分からず手で顔を覆った。しかし、恥ずかしがっているのはゾーイだけだった。見られたからといってロキシーもソーニャもどうということは無かった。しいて言うのなら、起こしてごめんねという程度の反応。見られて恥ずかしいという感情は一切なかった。

「何って……」

「プロレスごっこ?」

「なわけあるかっっっ!!」

 堂々とした立ち振る舞いに、ゾーイは思わず声を荒げた。二人の関係性が深いことは知っていたし、そんな二人を見て惚れ惚れしていたゾーイ。しかし、まさか……。いざ目の前にすると、「あわわわわ」としか声が出ないのだった。

「どう?」

「一緒に?」

「い、いえ!! 結構です!! し、し、し失礼しましたあぁぁっ!!」

 早足で隣の部屋に立ち去るゾーイ。それで、暗がりの中で足元がおぼつかなかったのか、足の指を角にぶつけた音がして、悶えながら布団に飛び込んだ音が聞こえてきた。顔を見合わせるロキシーとソーニャ。かといって、お互いに続きをする気にもなれなかったので、お開きにすることにした。




 *****




「なーらーべー!! 横入りすんな!! 焦るな、焦るな。ハンコは逃げないからさ」



 翌朝の蝉時雨の中、ロキシーの姿は最寄りの公園にあった。彼女の周りには、ラジオ体操を終えた小学生がハンコを求めて群がっている。

 ロキシーは、この地区では有名人かつ人気者で、子どもたちが夏休みに行うラジオ体操のラジオ係兼ハンコ係を暗黙に公認されていた。ソーニャが目立たないように活動するのとは対照的に、ロキシーは敢えて目立つことで周囲に溶け込んだ。明るく元気なお姉さん。誰がそんな人物を工作員だと思うだろう。時には、自分の流したい情報を、子どもたちに面白い噂話として流したりしていたものだから恐ろしい。しかもそれを狙ってではなく遊び感覚でやるものだから、なおのことだった。明朗快活な性格なだけに騙されそうになるが、愉快に笑いながら使えるものは全部使い、奪えるものは全部奪う。

「じゃーねー。Have nice day!!」

「じゃーな、ばばぁ!!」

「英語ばぁさん!!」

 生意気な男児の挑発。それに対しても、「なにおうッ!!」と追いかけまわして、受けて立つ気さくなお姉さんにしか、傍からは見えない。そんなロキシーは、たまに時間が経つのを忘れてしまうので、朝食ができたと呼びに行く。それがゾーイの日課だった。


「昨晩は……あの……すいませんでした……」


 いつもなら、男児を容赦なく追いかけ回すロキシーに対して、大人げないですよと止めに入るゾーイ。しかし、今日ばかりは肩を落として自信なげに視線を落とす。ロキシーは何のことだか分からなかったが、ゾーイは唇を震わせていて、何かに怯えているようにさえ感じられた。

「どしたの?」

「昨晩は……慌てて逃げてしまって……失礼しました」

「あー、驚かせちゃったね。ごめん、ごめん」

「……お二人は……凄いんですね……」

 ごめんなさい。それしかゾーイには言えなかった。自分の中の感情を、ゾーイ自身ですら言語化できていなかった。だが、突き詰めて言えば、自信の喪失と自己に対する嫌悪だった。

 ロキシーとソーニャの二人が親密な関係であることは知っていた。そんな二人をゾーイは慕っていたし、大好きだった。けれども同時にこれまでは、二人が自分を置いて何処かへ行ってしまうのではないかという漠然とした不安があった。三人で幸せになりたい。だから、頑張ってついて行きます。だから、置いて行かないで。そんなふうに……。けれど、昨晩は違った。二人はゾーイのことを誘ってくれた。二人は自分のことを待ってくれていた。それなのに、自分は先輩方の提案を無碍に断ってしまった。本当に二人のことを慕っているというのなら、それに応えるべきだ。それなのに、そっぽを向いてしまった。自分の二人への想いはその程度のものだったのだろうか。ひょっとすれば、二人が勝手にどこかへ行ってしまうことを免罪符にして、自分が寄り添えていないことを正当化していたのではないか。

「お二人に……私は相応しくないのかも……しれません」

「え? どゆこと?」

「最初っから場違いだったんです。きっと……」

「もしかして、怖がらせちゃった?」

「怖いだなんて、そんな!! 違います!! ちょっと、驚いただけで……。けど……お二人にとっては普通……なんですよね」

「……うっそだ。めっちゃビビってるじゃん」

 怖がっているし、無理している。ロキシー自身、演技に自信が無いことは自覚していたが、それ以上にゾーイの心境は手に取るように分かった。表情は強張こわばっていて、手も震えている。


「何言ってんの、ゾーイ。私とソーニャを繋げてくれたのは、ゾーイじゃん。場違いなんかじゃないよ」


 ぽん、とゾーイの頭に手を置いた。本来ならば、ソーニャに撃たれて死ぬ運命にあったロキシー。宿敵同士だった二人。それを今は、こうして同じ屋根の下で過ごしている。ロキシーとソーニャだけでは、辿たどり着けなかった世界に居る。この幸せは、誰によってもたらされたのか。もはや、論じる必要は無かった。

 三人で幸せを。そんなことはロキシーも分かっていた。だからこそ、自分の考える幸せを全力でぶつけることにした。自由にやらせてもらう。もしそれで、見えざる手によって調和することになるなら、それでよし。もしそれで、トロッコ問題が発生してしまい、それで自分がかれることになったとしても、それでよし。ロキシーは我儘で傲慢だった。

「ソーニャと私は、特別っていうかお互い変態なんだよ。ゾーイも変態なの?」

「何言ってるんですか?」

「まあ聞きなよ。ソーニャも私も、嫌ってほど身体を弄られてて、お互い命の取引をしたこともあって、並大抵のことじゃ満足できない身体になっちゃってるわけ」

 けど、ゾーイは違うでしょ、とロキシーは手を繋いだ。ゾーイは驚いた。ロキシーの手は思っていたよりも細くて、冷たかった。なんて寂しい手だろう。蝉の声さえも、彼女の存在を嘲笑っているように思われた。けれど、その中にあるわずかな温もりを、ゾーイは感じた。

「どう?」

「……?」

「ゾーイにもこれだけじゃ伝わらない。私がゾーイのこと好きだって気持ち。ソーニャの時みたいに、もっと激しくしないと分からない? 銃を向け合わないと駄目?」

「そんなことは……ない……です」

「思うんだけど、ABCは方法で目的じゃないよ。愛が伝えられるんなら、いろはでも一二三でも、合ったやり方でいいんじゃないかな? ゾーイといるの、私は好きだよ」

「…………」

 

 引っ越すよ。と、ロキシーは告げた。


 八月いっぱいで自分は全てを投げ出す、と。ソ連の国家機密を独占して、世界に対して宣戦布告をすると。鳥取に向かったのは、潜伏先を探すための下見だったことを明かした。もう戦う準備は出来ている。そうささやくロキシーは、本当に悪魔のようだった。



「どう一緒に堕ちる? ……それとも、ゾーイは違う道を行く?」








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