9月 先輩後輩

 ――ごめん。今日遅れる。

 藤花とうかからのLINEは、この一言だけだった。





「一体どうされたんでしょう?」



 帰路についた千遥ちはるは、隣を歩く渚咲なぎさに尋ねる。「あぢぃいよー」と、渚咲なぎさは胸元をパタパタさせる。残暑というより猛暑。今日も35℃になる勢いだった。


 そうかと思えば、関東には大型台風が直撃。台風に名付けられた名前が、ファクサイだったものだから、Twitter上には台風の進路図に白菜が貼り付けられたクソコラが出回っていた。一か月後にはこれが、別の台風によって北陸新幹線水没の画像に置き換わってしまう。今年は、浅間山が噴火した。山形県沖の地震もあった。風に、水に、火に、土……とうとう日本も終わり始めたのではないか。尋常ではない熱気は、根拠のない終末論を、無条件に肯定しているように思われた。



藤花とうかなら、今頃冷房の効いた部屋だよ」

「何をされてるんですか?」

「追試」

「……へ?」



 思いもよらないワードに、はじめ千遥ちはるは冗談かと思った。けれど、しばらく待っても、渚咲なぎさから訂正の言葉はない。無言の時間を、蝉しぐれが埋め始めて、千遥ちはるの頬を汗がつたった。



「意外です……」

藤花とうかってば、なんか英語に嫌われてるんだよねー。50年前を思い出せーとは思うけどさ」



 藤花とうかは、放つ雰囲気や言動から頭が良さそうに思われがちであるが、どちらかと言えば努力の人だった。逆に、一見すると成績が悪そうな渚咲なぎさは天才。休み明けテストでは、学年の順位を意図的に調整する遊びをするほどだった。英語1位。数学2位。国語3位。物理4位。化学5位。日本史6位を藤花とうかに奪われて、やっぱ無理かぁーと笑う。そうかと思えば、全教科77位を狙うんだと無意味なパチスロを唐突にやることもあったので、渚咲なぎさのテスト結果の推移はジグザグしていた。しかし、まさかそんなことをやる人間がいるとは思えないので、基本的に渚咲なぎさは中の上くらいの成績保持者と見做みなされてる。そんなんだから今回は、どの教科担任にも「やればできるじゃないか」と言われたという。あとは、「はよ課題提出しろ」とも。



「特に芝浦しばうらはインターポールだ。休みの日のローソンも安全じゃない」

「もういい加減自首してください。最近は外堀から埋めようってことなのか芝浦しばうら先生は、私にまで目をつけ始めてます。――学校で、私たちのこと何って呼ばれてるか知ってますか? バミューダ・トライアングルです」

「わぁお、カリビアン」

「呑気なこと言ってる場合じゃないです。渚咲なぎさ先輩はその頂点って言われてるんですよ」

「ぷぷぷー。三角形の頂点は3つですぅー。まさかn角形の頂点の数をご存じでない?」

「言葉の綾に決まってるじゃないですか」



 溜息を吐く千遥ちはる。なんだか藤花とうか先輩みたいなこと言ってるなと思うと不思議な気分になった。それと同時に、渚咲なぎさの図太さにも憧れてしまう。こんな二人の先輩に囲まれて、何て自分は幸せ者なんだろう。バミューダ・トライアングルと呼ばれるのには抵抗があったが、かと言ってサマー・トライアングルと呼ばれても、それはそれでこそばゆい。


 私は二人が大好きだ。千遥ちはるは胸を張ってそう言えた。9月9日――日付が変わったと同時に二人からは「誕生日おめでとう」とメッセージが送られてきた。けれど、私は二人と肩を並べるに相応しい存在なのだろうか。そんなことを千遥ちはるは考えてしまう。資格なんか要らないよと渚咲なぎさなら言うことも、考えすぎだよと藤花とうかが言うことも、千遥ちはるには分かっていた。それでも考えてしまう。



「人は先輩に生まれるんじゃない。先輩になるんだ」



 先輩になることが出来たのは、千遥ちはるがいたからだよと、二人はボーヴォワールの言葉を引用して言った。ちょうど53年前に来日した、ボーヴォワール。伴侶であるサルトルと共に日本を旅した彼女もまた、実存主義の立場から人間の在り方に迫った思想家だった。

 彼女の議論は面白い。彼女はその著書『第二の性』の冒頭で、女性は〈他者〉であるとして、〈主体〉たる男性の副次的存在となってしまっていると言う。理由として多く挙げられるのは、生物的理由――すなわち、ホルモンによって心身が大きく左右されるため、男性に比べ不安定な存在であること。言い換えれば、女が雌であることに縛られるがゆえであるとする論者がいることを紹介する。しかしボーヴォワールは、そうした説に対して、女性が男性に対して多くのハンディキャップを負っていることの説明になっているとは認めつつも、女性が〈他者〉になった理由は説明できないとする。生物的理由が原因ではない。そうではなく、のちの社会によって生み出されたものであると。初めこそ、原初の社会においては、男女平等の動きこそなかったが、逆に女性を抑圧する原理も存在しなかった。女は重い荷物を運ぶ肉体労働に従事し、くわを振りかざしては大地を耕した。そこに地母神の起源が見出せる。そのように、むしろ女性は崇拝の対象であった。世界は、光と闇、陰と陽、善なるものと悪なるもので構成されていたが、男性を陽とし、女性が陰とされたのは後世の後付けであった。

 男は女の神秘を恐れた。女性崇拝は愛ゆえではなく恐怖ゆえだった。男性は弱い存在であった。それゆえに男性は、女性を〈他者〉にするしかなかった。自らのものとすることで、闘争が起らぬうちに、女性を不安定と混乱の原因に仕立て上げることに成功した。そうして出現した私有財産が、女の権威を失墜させたとボーヴォワールは分析する。

 六〇年代頃から盛り上がったフェミニズム運動。これは当時の時代背景と無関係ではなかった。学園闘争、ヴェトナム反戦運動、社会主義への憧憬。これらは、虐げられていると感じた者たちの逆襲であった。敵は社会構造。敵は大人たち。敵は帝国主義。敵は植民地主義。敵は男性中心の社会。敵は権力。グレーがカラーに変わった時、彼ら彼女らは歴史の主役となった。自らを解放するために、投企プロジェに身を置けとボーヴォワールは言った。しかる後に、人は束縛アンガジェされ、人間は自らに生きる意味を見出せるのだと、サルトルは言った。しかしこうした議論の欠点は、共産主義の肯定に容易に繋がりうることだった。そしてまさに、カミュ=サルトル論争の中心は、そうした議論であった。共産主義が0と1にもなれぬノイズとして忘却されたいま、これらの議論はよりフラットなものとして受け入れることが出来るかもしれない。だがその反面、エネルギーの発散場所を失い、一部では議論がいびつな形に歪んでしまったのも確かだ。同じ主張でも、場所と時代と文化によって受容のされ方が異なる。その感覚が、千遥ちはるには不思議に思われた。


 だから自分の考えも、ことによれば歪んだものかもしれない。そう自覚しながらも、千遥ちはるは、作家としてのカミュを好みながらも、思想家としてはサルトルやボーヴォワールの方が好きだった。「人生に意味はない」とするカミュよりも、人間の可能性の広さを示すサルトルとボーヴォワールの方が好きだった。しかし同時に、サルトルとボーヴォワールの考え方は千遥ちはるに見えない壁を与えた。「人は先輩に生まれるのではなく、先輩になるのだ」とは言う。だが、裏を返せば千遥ちはるは後輩に生まれた。――果たして私は、後輩になれているのだろうか。二人が誇れる後輩になれているのだろうか。


 千遥ちはるが危ない目に遭えば、躊躇することなく二人は守ってくれるに違いない。けれど、千遥ちはるは? 二人に魔の手が迫った時、守ることが出来るのだろうか。口ではいくらでも言える。けれどいざその場に居合わせたら、足がすくんで動けなくなってしまうのではないだろうか。


 その時、ふと千遥ちはるの脳裏に一つの情景が浮かんだ。そこは学校で、階段を下りる藤花とうかの姿がある。追試を終えて一息。どうして今日に限って追試なんだよ。千遥ちはるにとっては大切な日なのに、と自分の不出来を責めていた。だから、こうしてはいられない。早く二人と合流して――そんなことを考えている藤花とうかの背後に不気味な影が一つ。男? 女? 分からない。だが、それは伽藍洞の目をしていた。



 ――悪いねぇ、ソーニャ。君に恨みはないけど、消せって言われてるんだ。



 声で振り返る。

 刹那、藤花とうかの足は宙にあった。




 *****




 映像は現実だった。


 渚咲なぎさ千遥ちはるが学校に戻ると、張りつめた空気が待ち構えていた。中空を駆ける回転灯の赤。それは自らの存在を伝えるためのもののはずなのに、どこか非現実的で、存在の実感を与えてくれない。中庭近くに停められた車体は、拒絶の白。それを見守る数人の生徒。学校を出た時にあったはずの気温は失せていた。


 ちょうど、校舎からストレチャーに乗せられて誰かが運び出されてくる。確かめるまでもなかった。渚咲なぎさは駆けだしていた。千遥ちはるもすぐ後を追う。救急車のバックドア付近には、発見者なのか生徒指導の芝浦しばうらの姿があったが知ったことではない。いままさに付添人として乗り込もうとする養護教諭と共に、渚咲なぎさ千遥ちはるは救急車へ飛び乗ろうとした。



「おい!! 何やってる!?」



 芝浦しばうらの怒号が飛んだ。だが、それは制止ではなく、二人の背中を押すものだった。いままでどこほっつき歩いていたんだ。二言目にはそんな言葉が聞こえてきそうだった。



「乗れ!! 早く!!」



 芝浦の言葉が、救急隊員の仕事を減らした。ストレッチャーに乗せられた人物は、二人にとって特別な人である。そんな関係性が、たった二言で説明された。当の渚咲なぎさは「言われなくとも」といったふうだった。時間に余裕さえあれば、「サンキュ」と拳を合わせたかもしれない。千遥ちはるも心のなかで芝浦に会釈をして救急車に乗り込んだ。



藤花とうか!!」

藤花とうか先輩!!」



 声を掛ける。が、顔を見て、一瞬別人かと思ってしまった。横たわっていたのは、確かに藤花とうか。しかし、彼女からは生気と呼べるものが一切感じられなかった。意識不明。その四文字が脳裏で鮮明に浮かび上がる。渚咲なぎさは手を握って名前を呼ぶ。ともすれば、落ち着いてと言われそうな渚咲なぎさだったが、彼女がいたって冷静で、パニックに陥っていないことは琥珀の瞳が証明していた。救いはあった。モニターの心拍と血圧は正常の範囲内で、呼吸もある。身体の左側を主に強く打ったようで、頭からの出血と、左腕に骨折の可能性があるとのこと。病院に付くまでに出来るのは、名前を呼ぶことくらいか――


 不意に、藤花とうかが勢いよく起き上がった。


 呼吸が荒くなった。辺りを見回す藤花とうかは、目を見開き、それどころか血走らせていた。まるで、藤花とうかではない別の誰かが乗り移ったような。纏う雰囲気も尋常ではなかった。



「ここは何処!? ロキシー!! ロキシーは何処!? ゾーイ!! ゾーイはッ!?」



 その言葉に誰もが困惑した。ロキシー? ゾーイ? 何を言っている? それでもと意識の確認のために名前を訊こうとする救急隊員を跳ねのけようとしたものだから、重度の錯乱状態に陥ったものと思われた。



「放せ!! 私に触るな!! どこだここは!?」

藤花とうか……」

「ロキシーは!? ゾーイを何処にやった」

藤花とうか

「あぁ!! 誰だお前は!?」

藤花とうか!!」



 真っすぐに見つめて名前を叫ぶ。渚咲なぎさの言葉は、目の前の誰かではなく、届けたい最愛の人に向けられた。そして、射止めた。瞳の中で燃えていた怨嗟の炎は、徐々にその熱を失い、藤花とうかの呼吸は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。


 緊張の糸が切れたかのようにストレッチャーに身を預ける藤花とうか。意識は戻った。安堵の息を漏らす渚咲なぎさ。小さく笑みを浮かべながら「あなたの名前は?」と尋ねた。藤花とうかは、ちょうどその時、痛覚も感じ始めたようで、表情を歪ませながらではあったが、それでもいつもの声のトーンで答えた。



宮間みやま藤花とうか。2002年10月15日生まれ。血液型はrh+のO型。今日は昭和……じゃなくて、令和元年九9月9日。時間は……分かんなくてもいいか。いまは救急車で搬送中。理由は…………階段から落ちたから?」

「落ちた? 本当にぃ?」



 藤花とうかの饒舌っぷりに、救急隊員たちが驚くと共に、意識を正常に取り戻したことに安堵の表情が戻ってくる。そんな中で、渚咲なぎさはいつもの飄々とした調子で疑問を投げた。落ちたんじゃなく、突き落とされたの間違いじゃない、と。だが、藤花とうかはこの場では「足を滑らせた」と断言した。


 頭の左側に違和感があったのか、触ろうとする藤花とうか。出血していたので、ガーゼで応急処置がしてある。それだけに、触ることを止められた。



「私しかいなかったよ」

「怪しいなぁ……」

「……それじゃあ何? 頭の左側を銃でぶち抜かれたって言えば、納得するわけ? ねぇ?」



 ふと、語気が荒くなった。藤花とうかも声を荒げるつもりはなかった。だが、何かがスイッチを押してしまったのか、止まらなくなった。途端とたんに心拍と血圧の上昇を電子音が告げはじめた。



「ああっ!! そうだよ!! 突然現れた刺客に撃たれたんだよ!! おかげで脳味噌がぐちゃぐちゃだ!! そのせいでソーニャは自由に喋れなくなった!! 言葉が奪われた!! ソーニャは言葉が理解出来なくなった!!」



 藤花とうかの勢いは止まらなかった。落ち着いてと平静を促す言葉を、るさいッと薙ぎ払った。彼女は再び自分が誰か分からなくなっていた。怨嗟に取り憑かれた彼女。それは誰かの慟哭だった。



「ちゃんと読めだって!? 出来るもんならやってるよ。でもね、文字に見えないんだよ、文字にッ!! 何喋ってるかも分かんないし……本当に人の言葉か? ただ猿が喚いているようにしか聞こえないんだよ!!」



 起き上がりはしなかった。だが、動く右手に――渚咲なぎさが握る手に力がこもる。握り潰して、その骨を粉々に砕いてやる。それくらいの勢いがあった。渚咲なぎさは痛みに表情を歪めたが、堪えることにした。なんなら受け止めてやるつもりでいた。突き付けられる怒り。しかしそれは、それほど長くは続かなかった。


 藤花とうかは瞳を閉じて、荒くなった呼吸を整えようとしていた。しかし、整えようとすれば整えようとするほどに、込み上げてきた感情が邪魔をした。閉じられたはずの目から零れた一筋。――藤花とうかは泣いていた。



「夢で見るんだ。何回も何回も見る夢。そこには渚咲なぎさ千遥ちはるに似た子がいて、楽しげに喋ってる。私も混ざりたいって思った。けどね、二人は英語で喋ってて、何言ってるか分かんないんだ。聞き取れる場所もあるんだけど……自分の言葉を英語に出来ない……。二人と話したい。だから英語はやめない。けど……どう頑張ればいいか……もう、わかんないよ……」



 それ以上、藤花とうかは何も言わなかった。




 *****




藤花とうか先輩、大丈夫なんでしょうか……」



 一時間後。渚咲なぎさ千遥ちはるの姿は、病院の待合室にあった。今頃、検査が終わって、医者からの診断を聞かされているのだろうか。何事もなければいいが。そんな思いから吐き出された千遥ちはるの言葉だったが、「いや、ヤバいでしょあれ」と渚咲なぎさに切り捨てられた。予想外の言葉に、驚いた千遥ちはる渚咲なぎさの方を見やると、飲み終わったパックにストローで空気を入れたり抜いたりを繰り返して遊んでいる。態度こそ、いつもの彼女らしかったが、しかしその瞳に活気は無かった。



「大丈夫じゃないって、どういうことですか?」

「救急車のなかで、あんだけ訳わかんないこと叫んだんだよ? ロキシー? ゾーイ? 何言ってんだってなるじゃん? おかしくなっちゃったと思われても仕方がない。今日は、検査入院だろうねー。――ってのもあるけど、向こうの世界が相当ヤバいことになってるかもね。……まぁ、そっちの方こそ気にして何とかなるわけじゃないか」



 思いのほか冷静な反応に、千遥ちはるは寒気さえ感じた。目の前にいるのは、本当に渚咲なぎさ先輩なのだろうか。心配ないよ。平気平気。大丈夫に決まってる。いつもならそう言ってくれるはずの存在はそこにいなかった。どこか他人事で、正しいことを言ってるはずなのに、冷たい分析に聞こえる。待合室が暗くなったのは、日が落ちたせいだけではない気がした。


 それとも、自分のなかにある不安を殺そうと、変に気負っているのだろうか。ちらりと目に入ったストローは噛み痕だらけだった。――いいや。これが不機嫌な時に渚咲なぎさが見せる態度だった。あまりに静かな怒りの燃やし方。ほとんど見せることが無いため、この時も千遥ちはるは感情の所在に気付くことすらできなかった。



「ロキシーはどう考えてるか知らないけどさ、私はソーニャって奴が嫌い。……どんだけ藤花とうかを苦しめれば気が済むの、あいつ?」

「……先輩?」

「全部あいつのせいだ。あいつが弾を避けれなかったせいだ。そうじゃなきゃ、納得できない。なんで藤花とうかはあんなにも苦しまなきゃいけないの? 全然悪いことしてないじゃん。それなのに……文字を読むのに、人の二倍も三倍も労力を使わなきゃいけない……不条理だ」



 渚咲なぎさ藤花とうかは、幼い頃からずっと一緒だった。同じ幼稚園。同じ小学校。同じ中学。だから、成長過程をずっと見て来た。藤花とうかは真面目な子で、頭も良かった。だが、一点――言語習得の速度は遅かった。学習における最初の一段目が高すぎた。渚咲なぎさが50音覚えた時、藤花とうかは「あ」の書き方に戸惑っていた。渚咲なぎさがカタカナをクリアした時、藤花とうかは「わ」と「れ」の違いを理解してなかった。渚咲なぎさは理解できないことが理解できなかった。「見れば分かるじゃん」。その一言が、二人の間に起こった最初の喧嘩の原因だった。



「第二次大戦は、漢字ドリル。渚咲なぎさみたいに早く終わるわけないから、一人で遊んどけば……ってつけ放された。――私はどう寄り添えばよかったのかな? 寄り添うって考え方自体が間違ってたのかな?」



 視線を落として自嘲気味に笑う渚咲なぎさ。それが原因だったんですか、と目を丸くする千遥ちはる。同時に千遥ちはるは居心地が悪くなった。こんな話、初めて聞いた。やはり、自分は先輩たちのことを知った気になっていただけだ。全然知らない先輩二人の姿を目の当たりにして、遠くに感じてしまう。


 藤花とうかが言語習得に苦労する姿は千遥ちはるも見ていた。しかし、傍から見れば要領が悪いだけのようにも見えた。音読が苦手で、読書速度が遅い子。かといって全くできないわけでもない。だから、わずかな違和感こそあれど、無視できるレベルだった。



「そう、遅いだけなんだよ。だから、そのせいで余計に努力不足だって言われる。英単語の書き取りなんか、毎回泣きそうになりながらやってた……」



 読書が遅いのは、読書慣れしてないからって言われた。二倍三倍の労力をかけて、二倍三倍の量を読んだ。結果、読書速度は少しだけ早くなった――雀の涙ほど。確かに、人よりは読み書きに困難を感じるかもしれないが、障害と呼ぶほどのものでもない。中途半端に出来てしまう。だからこそ、壁は透明の色をしていた。


 中学の時、道徳の授業で「障害じゃなくて個性ととらえよう」という話が紹介された時、渚咲なぎさはその綺麗事に違和感を覚えた。藤花とうかが抱える苦しみを、個性だって言えばどうなるか。第三次大戦になることが渚咲なぎさには簡単に予想できた。「欲しくもないこのハンデを、個性だなんて思ったことは一度もねぇよ」。そんなふうにブチ切れられることは目に見えていた。


 真に個性と呼べるものなら、喧嘩の原因になるはずがない。


 渚咲なぎさは触れないようにし、藤花とうか藤花とうかで二度と喧嘩の原因にならないように克服しようと、黙って一人で努力して、一人で背負い込むようになってしまった。それしか方法がなかった。


 そうしたことから、藤花とうかは一時、カミュの不条理の哲学に惹かれたことがあった。不条理を目の前にした時、人はどう生きればいいのか。しかし、カミュの思想が藤花とうかを救うことは無かった。あまりに文学的で、理想論にしか思えなかった。むしろ、人間とは自由な存在であるとするサルトルにこそ可能性を見出した。――そこへ、蝶が一匹。「胡蝶の夢」に魅せられた時、不条理は認識の産物にすぎないのではないかと仮説を立てた。そうして高校に入学する頃、藤花とうかはある一つの結論に至る。




 ――透明の壁を、ホログラムと名付けた。




 なるほど。この世界は、所詮は夢なのだと。結局のところは、宮間みやま藤花とうかという人物が描く物語の中に生きているに過ぎないのだと。苦しいと思うのは、苦しいと思うから。うまく行かないのは、うまく行かないという夢を見ているから。世界中の誰もが、何かしらの夢を見ていて、各々が描く物語のなかにいる。本来、宇宙は虚ろ。意味など存在しない空の器。しかし、物語を失っては人間は生きていくことが出来ない。だから、人間は自らの認識によって生きる世界を構築する。自分もそんなホログラムな人生を生きていくしかないんだ、と。



「んで、藤花とうかってば文芸部に入った途端、すごい勢いで物を書き始めた。文字書くの遅いからどうするんだろうって思ってたけど、タイピングの速さは無茶苦茶速いわけ!! そりゃそうだよね。「あ」の文字の形を思い出す前に、Aを押せばいい。漢字の形を思い出す前に、スペースキーで変換すればいい。ほんと水を得た魚って感じだった」



 そのうち、同じく文芸部の江夏えなつ亮介りょうすけという男子生徒が、藤花とうかに共同で何か小説を書かないかと誘った。何それおもしろそうじゃーんと、渚咲なぎさも混ざった。登場人物のモデルは、この三人になった。そうして出来上がった小説は、冊子にして図書室の一角にひっそりと置くことにした。――タイトルは『ホログラムな人生』。



「ねぇ……この世界はホログラムなんでしょ? だったらさ、書きなよ藤花とうか藤花とうか自身が幸せになれる物語を」






 *****




 前触れは無かった。

 千遥ちはるの前で、渚咲なぎさが倒れた。



「せ、先輩!?」



 慌てて、倒れた渚咲なぎさのもとにしゃがみ込む。バランスを崩しただけ? そんなはずがなかった。渚咲なぎさは苦悶の表情を浮かべながら、大きく肩で息をしながら、胸を手で押さえる。どこが原因かは、その様子を見れば一目瞭然だった――心臓。急激に減った血中の酸素に喘ぎながら、それでも歪む表情の中で自嘲気味に口角は釣りあがっていた。



「何回も言ってんじゃん、ロキシー。これ……私の心臓やつぅ……。来月から消費税10%にさせて……もらいますよっと。――それとも自分のが、とうとうお釈迦になったん?」











 ――お互い何やってんの。情けないよ、私たち。

 ――ホントそれ。今日は、大切な千遥ちはるの誕生日なのに。








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