十月 黒い霧

「消費税10%? ……ごめんね渚咲なぎさ、こっちの世界じゃまだ消費税なんてないよ。君らと同じ平成の産物じゃん。――もう少し心臓、貸してもらうよ」



 胸を抑えながら、ふっと小さく不敵に笑うロキシー。こんのぉ、クソ悪魔!! そんな言葉が、53年後の未来から聞こえてくる。



 一九六六年十月、ロキシー・ヘルナンデスの姿は鳥取市内にあった。城下町らしく複雑に入り組んだ道によって作られた街。しかし、城を失ったいま、もはや何を守るための作りなのだろう。夕日が沈む空と同じ色に染まった山々。あれだけ盛んであった生命の色は、もはや夏風と共に去って行ってしまった。潜伏先はあって無い様なもの。いまやあらゆる組織に狙われている。そして、最も守りたかったはずのソーニャは、もうまともに動けない。

 ソーニャが撃たれて一カ月。神戸に立ち寄った時のことだ。いま思い返せば、ソーニャを撃ったのはソ連の情報機関員だったかもしれないが、犯人の所属はもはや問題ではなかった。かねてよりコネクションのあった闇医者・江夏えなつ真琴まことの手によって一命を取り止めたものの、以前と同じことをソーニャに要求できなくなっていた。そこにきて、ついにロキシーの身体も悲鳴を上げてしまった。街の見回りに歩いただけ――それだけで心臓弁が圧迫されるのを感じた。誰かに見張られていることは分かっている。けれど、そいつを捕まえる力はもはやない。

「私たちは……ここまでか……。儚い冒険だったなぁ……」

 渋々、足を引きずるようにして帰路につく。後を付けているのは誰なのか分からない。いずれにせよ、拠点に帰れば、奴らは突入して来るだろう。そして、私たちは殺される。ロキシーが持つコルト・ガバメントの残弾数は二つ。たった二発かと思っていたが、その数字が何か運命に導かれたもののように思え始めた。



「あとちょっとくらい……心臓……貸してよ、渚咲なぎさ。いいじゃん。そっちは、藤花とうかって子とまだまだいられるんだからさ」



 旅を続けてね。そう願う。

 ロキシーが自分の不調に気が付いたのは、年の初めころだった。それでも一過性のものだろうと思い込んでいた。本格的にまずいと感じたのは、ソーニャと夜を過ごすようになってから。一緒に絡み合うことが楽しいはずなのに、気持ちに反して胸が圧迫される感覚に陥り、呼吸が荒くなった。それを誤魔化すためにソーニャに身体を大仰に押し付けたが、もともと演技が下手なロキシーのことだ。ソーニャには心臓外来を受診することを薦められてしまった。



「悪いね。アンタの病気は私でも治せないよ」



 闇医者・江夏えなつ真琴まことはそう言った。切れ長の目が告げたのは「もって十年」。それも静かに過ごした場合。乱暴な使い方をしているアンタはもっと短いかも、とのことだった。後に続いた、五十年後なら適切な処置を受ければ天寿を全うできるんだけどね、という言葉はできれば聞きたくなかった。



 ――ただいま。

 ――おかえり。



 念話でソーニャに帰宅を伝える。東京を出てから二カ月。とうとうゾーイが追って来ることは無かった。けれど、寂しさはないし、失望もない。各々おのおのが自分のやりたいようにすればいい。それがロキシーの考え方だった。三人で幸せになるのも、それはそれで幸せな未来に思えたが、ソーニャを独り占めできるというのも結末としては上出来だ。拳銃に残された二発が、それを完成させる。これが、楽園エデンから叡智ソフィアを盗み出した罪に対する罰か。ロキシーにとってはむしろ褒賞でしかなかった。込められているのは、45APC弾。ソーニャの初めてを奪った弾丸。君の初めてで、君を永遠にしよう。

 ――酔ってる?

 ――酔わなきゃやってらんないよ。

 ロキシーは悲し気に笑いながら、再度残弾数を確認すると、コルト・ガバメントのスライドを引いた。

 ソーニャは、そんなロキシーを黙ってまっすぐに見つめていた。彼女が帰路についた時点で、考えは読めていた。逃げようと思えば逃げられた。いまだって、言葉を失ってしまったとはいえ、何らかの方法で拒絶を示したり、抵抗の意志を示すことはできた。しかし、ソーニャが取った行動はトイレに行くこと。――撃たれた後のことを考えていた。

 二人とも、すでに旅立つ準備はできていた。残されていたのは方法論のみ。ロキシーが撃つか。ソーニャが撃つか。せめて銃が二丁あれば話は早かった。けれど、この場にあるのは一丁のみ。自分が殺されるのは満更でもないが、殺させるのはどうにも遺恨が残る。自分だけ気持ちよくしてもらって、相手には自分で満足してくださいというのは、お互いに気が引けた。

 ――あんたには無理だよ、資本主義者。

 ――言葉返すよ。共産主義者。

 ――相手のイカせ方なら熟知してる。

 ――おっと。これ私の玩具おもちゃなんだけど?



「なら、私が介錯しますよ。後輩として」




 *****

 



 ドアが轟音を立てて破られる。突入する機動隊。その中央には、武装した湖雪こゆき千春ちはるの姿があった。



「あー。誰か嗅ぎまわってると思ったら、千春ちはるだったのかぁ……」



 現れた千春ちはるの姿に、ロキシーとソーニャの警戒が解ける。けれど千春ちはるは冷たい視線を投げるばかりで表情を変えなかった。裏切り? いいや、裏切り者はロキシーとソーニャだった。忠誠を誓った国を裏切り、二人で逃げ出した。そしていま心中しようとしている。そんな二人に対して、千春ちはるは自らの義務を果たしていた。ヘルメットには旭日章きょくじつしょう。 



「似合ってるよ、権力のワンちゃん」

「なら先輩方は駄犬だけんです。死に場所も、死に方も選べない。惨めですね。自由になりたいはずが、自由を剥奪されている。他人に自由を蹂躙される。あなた方が望んだ未来は、こんなものだったんですか?」



 そうして千春ちはるが投げかける視線は、別人のように研ぎ澄まされたものだった。瞳の奥で燃える翠玉エメラルド。それはいつかのように温かいものではなく、冷気を纏う雷撃のようであった。 



「死んでください。ロキシー・ヘルナンデス。ソフィア・ルキーニシュナ・マヤコーフスカヤ。お別れです」







 この物語には、二つの筋書きが用意されていた。







 ソーニャがロキシーを撃ち殺す。そんな結末を迎えた時、読者だった千遥ちはるは激怒した。そんなことがあっていいはずがない。そんな物語を書いた、江夏えなつ亮介りょうすけという文芸部員をロクでなしとそしった。お前が二人を救わないと言うのなら、私が二人を救ってやる。そう豪語して、千遥ちはるは、千の時を超える遥かなる冒険者となった。


 ロキシーを救いたい。そんな思いから、第二のエンディングでロキシーを救うことが出来た。けれど、江夏えなつ亮介りょうすけから裏設定というものを聞いていなかった。ロキシーは重い病に侵されていて、ソーニャはそれも知っていて撃つことにしたのだと。「そんなの聞いてない!!」と千遥ちはるは怒鳴ったが、亮介は渋い顔をしながら「一話から言ってたことだし……」と顔を背けた。



「うわー、泣かしたー。亮介りょうすけ、サイテー」



 渚咲なぎさにそう詰め寄られて、亮介りょうすけはとうとう困ってしまった。その上、「てかロキシーのモデル私だよね」と看破されて、亮介りょうすけは額に変な汗を浮かべながら後ずさる。トドめに、「私が藤花とうかを殺すとかありえないし」と言われて、亮介りょうすけはとうとう土下座した。



亮介りょうすけ。私の心臓使って」

「……」

「そしたら、ロキシーは助かるんでしょ?」



 助からないよ。亮介りょうすけはまたもや苦しそうに答えた。それで、生命維持は出来るかもしれない。けれど、ロキシーの夢は叶えられない。長く生きられたとしても、宇宙へは行けない。50年経って、宇宙に行けない事実を知って、渚咲なぎさだって絶望したじゃないか。それと同じだよと、亮介りょうすけが説明すると「あー」と渚咲なぎさは納得した。


 だが、それで納得しない少女が一名。藤花とうかだ。藤花とうかは同じ文芸部員として亮介りょうすけに書き直しを命じた。お前はそんな物語が書きたいのかと、罵倒された。私たちを何度も殺して、何度も絶望に叩き落して、そうやって楽しむのかと。悪趣味だ。反吐が出る。



「違うよ!! 違う違う違う違う違う違う!! そんな話を僕は書きたいんじゃない!! 僕が書きたいのは、叛逆の物語だ。運命に抗う少女二人の物語!! でも、運命が強すぎるんだよ。藤花とうかなら分かるだろ? 透明の壁だよ!! 透明の壁がいつだって阻んでくる。なぁ、だったら教えてくれよ藤花とうか。この透明の壁の壊し方をさ!!」



 じゃあ、教えてくれよと亮介りょうすけは、コルト・ガバメントのエアガンを藤花とうかに手渡した。資料用にと部費で買った玩具おもちゃ。だが、しっかりと二発のBB弾が込められている。それでどうやって運命を殺せるというのか。乾いた音を二回出して楽しめる程度の無力なプラスチックに過ぎない。ならばせめて、どう使うのかを教えてくれ、と問うた。


 渚咲なぎさ藤花とうかの答えは一緒だった。心中してやる。結論は一致していた。だが、どっちが撃つかで揉め始めた。文芸部の備品だから渚咲なぎさは勝手に障るなとか、骨折してる藤花とうかが扱えるわけないとか、とにかく言い合っては軽い乱痴気騒ぎになった。



「先輩は、頭がいいのに馬鹿野郎です!! どうして、二人の幸せを考えないんですか!! 分かりましたよ。二人が幸せになる気が無いことはよぉぉーく分かりました!! だったら、私が幸せにしますよ。わたしがあんたらのホログラムをぶち壊しますよ。それでいいですね?」



 何が? 正直、意味がわからなかったが、千遥ちはるはエアガンを即座に没収した。本当に自分勝手な先輩たちだ。だったら、私も好きにやらせてもらう。そう言って、千遥ちはるは旅立った。渚咲なぎさ藤花とうかは先輩なんかじゃない。犬畜生だ。……そしてすぐに、言い過ぎたと後悔した。それは言い過ぎで、たぶん狛犬こまいぬかなんかだ。いつも阿吽の呼吸が揃っているのに、いつまで経っても間の溝を埋めようとしない。


 だったら、私が二人を繋いでやる。プロキオンとシリウスを繋ぐベテルギウスになってやる。私は小さいけど、巨人だ。悲劇を終わらせる生命ゾーイだ。終わりの時だ、江夏えなつ亮介りょうすけ。この茶番劇を終わらせよう。



「ロキシーとソーニャは私が殺します」



 千春ちはるは銃を向けながら、二人に用意して来たものを放り投げた。二冊のパスポート。そこには、それぞれロキシーとソーニャの顔写真。しかし、見慣れない日本人の名前が記してある。



「偽造パスポートを作るのに手間がかかり、お二人のもとに駆け付けるのが遅れました。お二人の新しい名前です。現時刻をもって、お二人は私の保護観察下に置かれた超能力者です。そして、責任をもって日本国がお二人の自由・生命・財産を保護することをお約束します。――それとも何ですか? まだ死にたいですか? いいですよ。お好きな方を選んでください。ハロウィンらしく、トリック・オア・トリートといきましょう」








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