七月 三角形

 一緒に探してください。

 そう千春ちはるは言った。




「放っておいたら帰って来るでしょ」

 私は煎れたコーヒーを片手にそう返す。いつもより薄暗くなった部屋。外から響く雨音。それがよく響くものだから、知っていたよりも部屋は広かったんだなと朧げに思った。それでも、天気予報は昼には雨は上がると告げている。止まない雨はない。なぎさも雨に飽いたら帰ってくる筈だ。ぽっかりと空いてしまったこの空間も、すぐに賑やかになるだろう。なぎさに何があったか知らないが、放っておいた方が彼女のためになるだろう。書置きも、言伝も無かった。それが、私には放っておいて欲しいという彼女の無言の言葉のように思えた。

 しかし、千春ちはるの考えは違ったようだ。玄関には三人分の傘があった。なぎさは、傘も差さずに行ってしまった。なら傘を届けに行ってあげたい。落ち込んでいるのなら隣に居て寄り添ってあげたい。

なぎさ先輩は……コンサートで悲しげにしていました……。私にはそれがどうしても気がかりなんです」

 千春ちはるも気が付いていたのか。そう告げると千春ちはるは、警官だらけのコンサートなんて集中できるわけないですよと自嘲気味に答えた。けれどすぐに、冬花とうか先輩も気づいてたんですね、と表情を曇らせた。


冬花とうか先輩は心配じゃないんですか?」

「頼みの綱のアメリカさんが居なくなった途端に何も出来なくなるんだね、千春ちはるは」

「っ!? どうして、そういう言い方しか出来ないんですか?」

「そういう言い方しかできないよ。申し訳ないけどね」


 私を睨む勢いの千春ちはるだったが、すぐに含意を読み取ってくれたのか、彼女は唇を噛みながら黙った。そもそも秋月あきづきなぎさはCIA工作員である。そんな彼女の私情に付き合う義理はない。

 秋月あきづきなぎさとはあくまで敵。そんな彼女と私がこうして接触している目的は、水面下での情報共有・情報交換・外交交渉をするためだ。――上にはそう説明しているし、実際にヴェトナム戦争に関する戦況、ジョンソン政権の姿勢、ソ連指導部の意向を伝えあう裏ルートとなっていた。

 そしてこれは、湖雪こゆき千春ちはるに対しても同様である。特に七月末にはソ連外相グロムイコの訪日が控えており、それに向けた詳細や、他にも領土問題、漁業問題、中共、ヴェトナム情勢に関する意見交換を行っていた。もちろん、実務レベルでの調整を行うのは当局だが、細かい情報のやり取りを行うルートの一つに、私と千春ちはるはなっていた。つけ加えるならば、一九六六年は日ソ共同宣言十周年。そうしたこともあり、両国ともに確実に何らかの成果を残したい思いがあった。一月には椎名しいな外相がソ連を訪問するなどの動きもあった。

 千春ちはるとの交流は、なぎさとは違った意味で刺激的であり、また有意義なものだった。やり取りをしていくうち、佐藤さとう栄作えいさく政権の外交姿勢が、対米追従一辺倒であるという認識は改める必要があるように思われた。昨年の沖縄演説の時からそんな節はあったが、千春ちはると意見交換する中で日本が独自の外交路線を打ち出そうとしているとの確信を得ることが出来たし、そうして得られた有意義な情報は、胸を張って上に報告することが出来た。

 そうして、いわば奇妙な日米ソ同舟がこの部屋に出来上がっているわけだが、友達ごっこならまだしも、馴れ合いになると話が変わって来る。船の中で料理人になることは許されているが、場合が場合なら航海士と通信士を殺すように命じられている。さもなければ、私は同胞に裏切り者と見做みなされて始末されるだろう。


「それに、行き先も分からないようじゃ探しようもない」

「……江戸見えどみ坂……とか?」

「分かってないね、千春ちはるなぎさは一つの場所になんてこだわらないよ。出会いの場所は、最初の場所でしかない。なぎさにとって、思い出の場所は、思い入れの場所じゃない」


 偶然は必然じゃない。千遥ちはるは、私が新橋で渚咲なぎさを見つけられた時に「流石です」と言ったが、あれは偶然だった。そして今回は、書置きも、言伝もないから、行き先など尚更なおさら分かる筈もなかった。それどころか、かつて遠い未来、渚咲なぎさが飛び出しては向かって行った成田空港はまだ無い。代わりに、建設予定地の天神峰てんじんみねには、成田闘争のための「団結小屋」が作られた。また、仮にアメリカへ向かったとしても、イーロン・マスクもまだ生まれていない。それどころか、人はまだ月に行っていない。


「……怪しい挙動をするCIA職員がいるんです」

「…………」

「一緒に後をつけませんか?」


 千春ちはるは恐る恐る私の方に視線をよこしてきた。身長差があるので、私を見上げる形になる。わずかに潤む瞳の向こう側で、翠玉エメラルドが静かに燃えている。深く、温かな新緑に包み込まれている感覚に陥って、思い知らされる。彼女の方こそ、なぎさの理解者なのだと。外の世界への興味、外の世界へ飛び出していく力のベクトル。それはきっと、なぎさの波長と合うに違いない。二人が話す時は、いつも楽しげだ。踏み込んだ会話もできる。二人の間で、会話が途切れることは無かった。なぎさが書置きや言伝をしなかったのは、弱みを見せまいとしたから。心の底では追いかけてきて欲しい。それなのに私は、壁を隔てているくせに、なぎさの持つ色を尊重していることを装っていた。


「きっと……鳥取にいます」

「根拠は?」

冬花とうか先輩なら、どこを探すか考えました。なぎさ先輩のことを一番分かってるのは、冬花とうか先輩なので」

「……」


 東海道新幹線に乗る。その頃になって、千春ちはるの動揺が収まったのか、自信のない心の内を打ち明けて来た。もしかしたら、なぎさ先輩の理解者面をしているだけなのかもしれない、と。本当は冬花とうか先輩が正しくて、放っておくのが正しいのかもしれない、と。

 なぎさの行先なんて分かった気になっただけだ。そんな気がするだけ。山陽新幹線もまだ無い。智頭急行線もまだ無い。おまけに今年は、飛行機事故が相次いでいる。そんな中で遠く離れた鳥取に向かうなんてことが本当にあるのだろうか。

 

千春ちはるがそう思うんなら、鳥取なんだろうね。現に、千春ちはるは私の考えを当てた」

「買い被り過ぎです。――なぎさ先輩が居ないので、ついでに言うと、私が頼りになるって思っているのは冬花とうか先輩の方ですよ。一緒に居たいって思うのも、そう。支えてくださるのはいつも冬花とうか先輩です」

「……いきなりどうした?」

「冷静な返しやめてください。言った私が恥ずかしいじゃないですか」


 なぎさを追いかけるのも、結局追いかけたいから。自分のエゴなんだと、千春ちはるは言う。けれど、そんな千春ちはるにこそ私は憧れていた。きっと、なぎさは自分のエゴをぶつけていい相手だ。なぎさも多分それを待ってる。それを正直に出来る千春ちはるは羨ましかった。

 一緒に居たいと言ってくれたが、それは私の方こそそうだった。車内での暇つぶしにと持ってきた本。それが、お互いに遠藤周作の『沈黙』だったものだから、読了後に感想を語り合うことになった。でも同じような感想だったから、すぐに飽きてしまって、むしろなぎさならどう考えるんだろうという話題の方で盛り上がった。


「あー、もう!! なんか、なぎさ先輩に腹立ってきました。折角なので、あの人に対する愚痴でも言い合いませんか?」

「強引。理解不能。傍若無人」

「いつも突然。落ち着きがない」

「奇天烈。奇想天外」

「驚かされてばかり」

「居てくれたら、空気が変わる」

「一緒に居るだけで明るくなります」


 だから、引っ張っていって欲しい。どこまでも連れてっていって欲しい。そんなふうに被害者の会だった筈のものが、気が付けば褒め称える会に変わっていたから不思議だった。他にも、スレンダーで羨ましいなんて話も出た。それに関しては、なぎさなら二人のおっぱい様の方が羨ましいぜ、なんて言うだろうなんて話もして盛り上がった。そうして、なぎさに対する不満が、要望に変わり、崇拝に変わったところで、お互いに赤面していることに気が付いて、話はそこまでとなった。そのうち、長旅に疲れて眠ってしまった千春ちはる。小さな肩をわずかに上下させながらすぅーすぅーと寝息を吐く姿には、肩を寄せたくなった。


「……冬花とうか先輩…………大好き」


 おい、寝言はズルいぞ。

 

「いつか行きましょう……三人で……宇宙……」




 *****




「よくここが分かったね。冬花とうか千春ちはる

「……」

「……」


 私がなぎさを見つけた時、彼女は何食わぬ顔をしてそこに居た。それどころか私を試していたと言わんばかりの口調。来るのは分かっていた。そんな彼女の態度に、安堵よりも反感が勝り、私は眉をひそめた。

 場所は、夜の高校のグラウンド。いいや、高校と呼ぶにはまだ早かった。安全第一の看板。足場の組まれた鉄骨の塊は、いまだ建設中であることを物語っていた。それでも、それが高校だと分かったのは――


「――冬花とうかも見たんだね。五十年後の世界を」


 言葉だけを投げかける。なぎさはというと、私たちの方に一瞥もくれない。代わりに、目の前に置いた望遠鏡に御執心だった。しかし、七月の頭は生憎の雨。折角晴れた七月三日の夜も満月だった。月を見たいならまだしも、天体観測日和とは言い難い。とことん不運が重なるものだなと、私たちを振り回した罰だと思えば小気味よかったが、それでもなぎさの心中を察すれば同情するしかなかった。

 しかし、どう声を掛けたらよいものだろう。なぎさの様子を眺めるばかりで、いざ彼女を目の前にすると言葉が出てこなかった。「星は見える?」だろうか。単刀直入に、「何がしたいの?」だろうか。それとも、もっと踏み込んで「ざまあないね」だろうか。

 そうやって、ただ立ち尽くしたまま、しばしの時間が過ぎた。そうして手をこまねいていると、それを見かねたのか、誰かが私の耳元でささやいた。ここは任せて。それは五〇年先の未来から届いた声。その声の主――藤花とうかと名乗る誰かに、私はハンドルを預けた。



「帰るよ、不審者」



 透き通った声だった。夜の闇を裂く白銀しろがねの刃のようでもあり、しかし蛍の光と調和する音色。脳髄を揺らす荘厳な音色のようであり、それでいて流星にも似た儚い煌めき。例えるなら紫水晶アメジスト。こんな声色が、自分の声帯から発せられたのかと、私が一番驚いた。

 なぎさの手がピタリと止まった。これまでこちらに一瞥もくれなかったなぎさだったが、いまやその額に透明のデコピンが加えられた。流石に、顔を上げないわけにはいかない。私の方に向き直った彼女の瞳には、琥珀が宿っていた。

 


「不審者ぁ? 失敬な。私は未来の在校生ですぅ」

「あんたが女子高生? 50年早いよ」

「50年かぁ……熟成した女子高生。略して熟女!! もちろん合法ロリだね」



 有害指定受けろ、big teaserビッグティザー。そう言って私は、渚咲なぎさのもとへ歩み寄った。やっと追いついた。いつの間にか三人は、未来での制服に身を包んでいて、星空の下にいる。月齢は0.3――ゼロ。2019年7月3日は新月。空を見上げるための天体望遠鏡はタイムカプセルに入っていた。それを掘り出して、こっそり屋上に忍び込んでは、三人で空を眺めた。だけど、ちょっと雲が邪魔だなぁ……。そんなことを言いながら、夜空と睨めっこをする。


 どうして、人は星を眺めるのか。きっと、この問いに答えはない。けれど、私たちは望遠鏡にその答えを見出していた。誰かが言った。〈アナグラムANAGRAMS〉とは〈偉大な芸術ARS MAGNA〉であると。だから、〈望遠鏡A TELESCOPE〉も、私たちの〈場所をTO知るためSEEのものPLACE〉だった。迷った時は、空を眺める。星の歌に耳を傾けて、幾億年を越えてやって来た光の旅の物語を心に刻む。




「やめなよ、KGB」

 星を眺めながら、不意になぎさは言った。

「私もCIAやめるからさ」




 嫌になっちゃうよ、と。コンサートに来ていた人の群れ。あの時は、あれが敵に見えてしまった。千春ちはるですら敵に見えてしまった自分がいて、そんな自分がどうしようもなく嫌いになって、何もかも嫌になって、気が付いたら衝動のままに逃げ出していたと、なぎさは白状した。

 一九六六年、冷戦を戦っていた東西陣営だが、両陣営共に内部にはほころびが見え始めていた。七月一日、フランスはNATO軍事機構から脱退した。三年後には、西ドイツの首相ブラントが東方政策オストポリティークを打ち出し、それまでの西側一辺倒に終止符をうち、東側との関係改善を模索し始める。他方、東側にあったチェコスロバキアではプラハの春が起きた。春風のように訪れた自由化への流れ。そんな民主改革の芽をソ連の戦車が踏みつぶした時、ソ連に対する幻滅は世界に広がった。かねてよりくすぶっていた中ソ対立は、ついにウスリー川で燃え上がった。もはや、世界は二つではなかった。一九六八年には、日本はアメリカに次ぐ第二位の国内総生産を誇る経済大国となる。白黒モノクロからカラーへ。二極世界は、多極化への道を歩み始めていた。そうしてカラーテレビが伝えたもの――



「25年後に、ソ連は地図上に無いよ? ソ連に未来を創造する力はない」

「50年後のアメリカは勝ち馬じゃない。アメリカは月旅行を可能にしない」



 この物語に用意されていた筋書きは二つあった。


 一つ目は、ソーニャの物語。サハリンで生まれ育った彼女は、半分日本人、半分ロシア人。戦後の混乱期に残留民として境界地域に取り残され、歴史に忘却された一人だった。小さいころに聞かされた話はこうだ。日本は身勝手な戦争をした。その挙句、お前を見捨てた。そんな酷い奴らの血が半分。しかし、もう半分は、もっとロクでなしの火事場泥棒。だから、血も民族も国境も関係ない共産主義は、ソーニャにとっての救いだった。世界を混乱に陥れる元凶は、自由を掲げて競争原理を持ち込もうとする西側にあるのだと、怒りの矛先を定めることが出来た。日本も、アメリカも、それからロシアも、自分を虐げる存在だ。けれど、ソヴィエトは平等だった。ソーニャにはソヴィエトしかなかった。ソヴィエトだけが自分にとっての救いだった。だから、何でもできた。ロキシーを名乗る敵国人を撃ち殺すことも簡単にできた。そうやって身も心も捧げたソ連は、突如として終わりの時を迎える。一九九一年八月に、ソーニャはモスクワに居た。ソ連存続を賭けた最後の試みが虚しく終わり、もしロキシーと生きる未来があったならと、そんな在りもしない未来を想像しながら、自らに引き金を引いた。


 もう一つは、ロキシーの物語。生まれは、天使と名付けられた街――ロサンゼルスLos Ángeles。そんな彼女の身体に流れるのは、半分は真珠湾に奇襲を仕掛ける卑怯な奴らの血。もう半分は、明治時代にやって来た偉大な旅人たちを迫害したクソ野郎どもの血。こんなにも穢れ切ってる自分は、きっと堕天使なんだろう。自らの内側に目を向けるたびに、闇に飲まれていく気がした。それが嫌で、外の世界に目を向けることにした。するとどうだろう。世界は面白いもので満たされていた。人に、文化に、思想に、歴史に、そして圧倒的な大自然に、ロキシーの心は奪われた。人生は旅だ。そんな中で、ソーニャに出逢った。ゾーイに出逢った。沢山の美しいものと、穢れたものに出逢った。カラフルな世界。それを赤一色に染めようとする奴らがいる。平等なんていう綺麗事で、恐怖一色に染めようとする奴らが。そうして、ついに自分の冒険にソーニャが邪魔になった時、ロキシーは簡単に彼女を撃ち殺すことが出来た。しかしどうしたことだろう。その瞬間に世界は色を失ってしまった。自由主義一色に染まった世界。アメリカはロキシーを救わなかった。星の世界に手を伸ばすどころか、イラクに手を出して、無駄な血と労力と予算を支払った。最後にロキシーが幸せになれる方法があるとすれば、それは薬だった。2011年7月に終えたスペースシャトルの運用。その頃には廃人になった彼女は、空に身を投げて、その生涯を終えた。


「ソ連があれば、あなたは宇宙に行けるかもしれない。競争の中で、アメリカは宇宙を目指した。だから、私はソ連を支える。あなたの幸せのために」


 気が付けばそんなことを言っていた。ソ連の宇宙開発は、確かに多くの場合、その場しのぎのハリボテだった。けれど、そのロケットは安価なわりに優秀だった。ソ連崩壊後に経済危機と外貨不足に陥ったロシアは、アメリカにロケットを売ることとなった。アメリカもアメリカで、国際宇宙ステーション(ISS)に宇宙飛行士を送るためにはソユーズの宇宙船が必要であったりと、多くの面でロシアを頼ることになった。その依存度が白日の下に晒されたのは、2014年に起こったクリミア危機以降のこと。アメリカは、自分の足だけで宇宙へ行けないことを思い知ることになった。そんな時に脚光を浴びたのが、民間宇宙会社――イーロン・マスクやジェフ・ベゾスといった人物だった。


「――だからって、世界を閉ざしちゃ駄目でしょ。作った壁は壊れる。高ければ高いほど、圧倒的に壊れる。可能性を閉ざして、想像力の狭まった世界に未来があるとは思えないよ。やっぱ、藤花とうかに相応しいのは自由な世界だよ」


 渚咲なぎさの言葉が突き刺さる。西側と東側。どちらが創造性に満ちた社会かは見れば一目瞭然だった。図書館に行けば自由な意見で満ちていた。街往く人の服装は、みな華やかだ。そして、ビートルズのコンサートでは心が躍った。望むものは、自由な世界の中にこそあった。

 だから、こっちに来なよ。ソ連なんて捨てちゃいなよ。そう言う渚咲なぎさの口を、私は自分の口で塞いだ。咄嗟とっさに抵抗しようとする手を捕まえて絡め取っては、身体を無遠慮に押し付けた。背後で、わっと千遥ちはるが驚いて顔を真っ赤にしたが、知ったことか。私の自由だ。渚咲なぎさの香り、渚咲なぎさの柔らかさ、渚咲なぎさの体温、その全部を味わい尽くす。


「私は幸せだよ。けど、渚咲なぎさは? 幸せになれるの?」

「ソ連は、壊れちゃうんだよ!? 藤花とうかまでそれに付き合う必要ない!!」

「変えられる……かもしれない」

「うそだ!! 大きな運命の流れは変わらない!!」

「普段は理想主義者のくせに……」

「いつもは現実主義者のくせに……」


 話にならない。平行線だ。いいや、相手の幸せを願うという一点が共有されているだけに、二人はさながらV字の線。想えば想うほどに、離れていくばかりだ。願いの数だけ星があるのだとすれば、ベガとアルタイルを隔てる天の川は深く広くなる。橋を架ける存在があればいいのに。一つだけでいい。一つだけでいいから、私たちを結んでくれる点がありさえすれば……。


「二人は、ほんっっっと馬鹿野郎です!!」



 ――闖入者がいた。


 

 *****




「いつも二人はそうです!! 相手のことばっかり。自分の幸せでもなく、相手の幸せでもなく、どうして二人の幸せを考えないんですか!?」


 


 私は二人のことが大好きなんです。だから、二人に幸せになって欲しい。そんなふうに小さな巨人が絡みつく私たちに飛び込んできた。瞳を潤ませながらも、訴えかけようとする表情があまりにも必死で、私となぎさは冷静になった。先輩たちは頭がいいのに、どうして馬鹿なんですかと。ばかばかばか、と。そうやって私たちにしがみつく千春ちはるは、もはや私たちの間にある火が消し止められていることに気付いてなかった。それどころか決壊してしまった涙腺のせいで、私たちがどんな顔をしているのかにも気が付かない。ひっく、ひっくと嗚咽を漏らしながら、さらに私たちを掴む力が強くなっていく。

 私となぎさは顔を見合わせる。なぎさは苦笑いを浮かべて、私は溜息を吐く。なぎさの表情はいつも通りになっている。しかし、その代償が後輩を泣かせることとは、なんとも情けない先輩二人だ。これでは先輩失格だ。

 これは二人の物語じゃない。二人だけでは辿たどり着けなかった場所に行くための物語。だから、二人じゃ駄目だ。私は千春ちはるを腕の中に抱き入れた。これは、過去、現在、未来を繋ぐ〈歴史History〉なんかじゃない。これは、私、あなた、彼女を繋ぐ〈私達の物語Our Story〉を描くんだと。未来の彼女たちに届くと信じて、満月の下で穴を掘った。



「三人の幸せを見つけましょう。三人で」

「いやぁ、そういう功利主義的なのはちょっとなぁ……」

「よし、千春ちはる。こいつをトロッコでこう」



 *****



 七月二四日、ソ連外相グロムイコが訪日。椎名しいな外相、佐藤さとう首相らと相次いで会談した。領事協定の締結など、佐藤さとう政権下では対ソ関係において多くの成果を残すこととなったが、このことに関して後にグロムイコは、「日本の首相の中ではめずらしく、佐藤がソ連との良好な関係維持の重要性を極めてよく理解している₍₁₎」と回想した。

 他方、大陸に目を向けると文化大革命の火ぶたが切られていた。十年にわたり中国全土が大混乱に陥れることになる大衆を巻き込んだ政治闘争だが、この運動の思想には、「修正主義」ソ連に対する反発もあった。アメリカと関係改善を目指していくソ連。そして、いまや日本とも関係を深めていくソ連。グロムイコ訪日を受けて、『人民日報』は「米日ソの神聖同盟」とその様を表現した。これは、国際的に孤立を深めていた中国の歪んだ見方に違いなかったが、しかし同時に、歴史に隠された少女三人の様を言い表すにしては少々控えめな表現であった。


 しかしこの時、すでに永田ながた町は「黒い霧」で覆われていた。次々と明るみになる不祥事。その先駆けとなったのが、田中たなか彰治しょうじ事件であった。――そして、それと時を同じくするようにして、暗躍する影が一つ。



「ソーニャという工作員、かなりほだされとるようだね」



 報告を受け取ったその男は、すうっと微笑を浮かべた。まるで友人と語り合うかのような口調。しかし、そうしながらも、彼の表情にはどこか凄みがあった。生来慎重である彼は、目の前の報告者に警戒心を解かない。彼の笑みが、いつ冷厳な表情に変わるのか。日本人にしては一七〇センチという平均より八センチ程高い背が、彼の中に潜む底知れぬ力の大きさを物語っていた。

 彼に相対するのは、ロキシー・ヘルナンデス。CIAとはもう一つ異なる顔を持っていた彼女は、ここ半年の成果報告のために男のもとを訪れていた。それは、ソ連の超能力者開発に関する調査。代表としては、ニーナ・クラギーナがサイコキネシスの持ち主として注目されていたが、米諜報機関もまた超能力研究に関心を寄せていた。そうした中で、超能力を持つソ連諜報機関員の女が、日本で活動しているという情報をこの男は掴んだ。――ロキシーの能力によるものである。

 日本はスパイ天国だと言われる。ならばさせておけばいい。放っておいても、彼女らは日本にやって来る。口を開けているだけで、勝手に異能力者が集まって来る。あとは、それを味わえばいい。そしてついに、楽園エデンから勝手に知恵の実が落ちて来た。叡智ソフィアが落ちてきたのである。



「ソーニャってば、何度も私の居場所を当てちゃうんだもん。びっくりしたなーもー」



 例を上げればキリがない。江戸見えどみ坂。新橋。それどころか、七〇〇キロ離れた地である鳥取に行っても、その能力は健在だった。もしかすると今も、ロキシーの居場所は筒抜けかもしれない。しかし同時に、ソーニャの居場所もまた常に把握されている。そうして、超能力に関する情報は、集まっていく――永田ながた町に。首相官邸に。



「でもさ、くれぐれも、捕まえて人体実験したり、身体をさばいて秘密を探れるとか期待しないでね。こちとら、いやってほどいじられてるんだ。もう痛いのは勘弁だよ。――もし、私らに手を出そうってんなら……」


「ふっ……。田中君の不祥事の発覚。あれは、警告のつもりか? なるほど、君もほだされとるんだな」


「そ。二人のためなら、政権の一つくらいはひっくり返せちゃう。だから、仲良くしよ、えーちゃん」


「いちいち癪に障る女だ。言葉に気を付けろ。おれは総理大臣だ」




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八月二日 火

九時半から経済閣僚会議。(中略)夕刻白洲君がロックヘラーの番頭さんを連れて来る。暫く駄弁る。同時に宮沢君の待遇について話合う。


佐藤栄作(伊藤隆監修)『佐藤栄作日記 第二巻』(朝日新聞社、一九九八年)、四六七頁。

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⁽¹⁾ アンドレイ・グロムイコ(読売新聞社外報部訳)『グロムイコ回顧録――ソ連外交秘史』(読売新聞社、1989年)、三九一頁。

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