5月 横須賀
いま東京にいるらしい。
「こんなところにいたんだ……」
「
「こっちのセリフ。何してんの?」
訊くと、
「でもさ、見てよ。期限切れてたわ」
「馬鹿なの?」
「こんなもんが無いと海外行けないとか、シケてるよねー。いらね。あげる」
「てか、行って何する気だったの?」
「イーロンマスクに宇宙に行きたいって!! 直談判!!
「後輩まで巻き込むな。ほら、帰るよ、鳥取に」
ふっふっふー。と、
「もう遅いわ!! 空の便はありませーん。陸路も、新幹線はあるけど、スーパーはくとの乗り換えには間に合いませーん。それで、どうやって帰ろうと言うのかな? ふふーん? ……そうさ。
「明日の始発で帰るよ」
「……ありゃ? じゃあ泊まるってこと? 夜行バスで帰るんじゃなく?」
「
そう言って、ホテル探しのために踵を返そうとすると、「わかってんじゃーん」と後ろから抱き着かれた。あーもう、鬱陶しい。そうして、スマホで空き部屋を検索していると、
「ほら。
「うぇっ!?
「
新橋駅から
「ほんっっっと何考えてるんですか、
「い゛、
「なんで
「だから今回は書置きしたし、二人にもLINEで伝えたじゃーん」
上野なう。事後報告である。一歩遅ければ、
そして、敗戦。決定打は、
「大袈裟だなぁ……。って、あれ? これ、帰ったら怒られる?」
「みんな心配してるんです!! 帰りましょう!!」
「ついでに生徒指導の
「んがああぁぁぁあああっ!! 放せええぇぇぇっ!!」
「で、どこに行く気だったの?」
「金星じゃい!!」
「
「じゃあ、横須賀じゃい!!」
「なるほど。在日米軍に紛れて密航すると?」
「Exactly」
何が「なるほど」だ。
夜明けの航海者。
帰る場所のない根無し草。彼女はいまも、
光が失せていく。ビルの群れの向こう側に吸い込まれていく茜。
「ねぇ、ソーニャ。いつになったら人は宇宙に行けるの?」
「ロキシー……」
「あれから半世紀。……なんで人は地球に縛られたままなの? 世界はこんなにも広いのに、どうして……。もう待てないよ。いつになったら私は宇宙に行けるの?」
この世界には、存在したはずのものが存在しない。かつて宇宙へ向いていた人々の熱は、いまや仮想世界に向かう。宇宙に行くには金がかかる。そして、行ったところで何かがあるわけでもない。政治家たちが宇宙で見つけたのは、想像を絶する闇の広さと、さもなくば不毛な大地だった。ある国際政治学者は、彼の著書のなかで「宇宙に出た人間が獲得したのは、さらなるフロンティアではなく、大気圏外から内を見る視点であった。人類は『内へ』向かう視点をもつことになったのである₍₁₎」と述べた。図書館でこれを見つけた時、私は唸らされたが、
次の日のことだ。
ねぇ、「はやぶさ2」がリュウグウまで行ったよ。そんなことを言っても
本当は、迎えになんか行きたくなかった。
「
「……」
「それで……我慢する」
我慢なんてするな。行きたい場所に行けばいい!!
「行きましょう!!」
後から追ってきた
「つれてってよ、
ぎゅっと腕に力を込める。人工の光で、星が消えた空。東京の夜は明るいのに寂しい。早く明けてくれ。そして、夜明けを知らせに来てくれ航海者。あの琥珀に煌めく明星と共に。何止まってんだよ。「しっかり捕まってないと置いてくよ」ぐらい言ってくれ。そうしないと、私の腕は縛るための鎖になってしまう。縛るのではなく、しがみ付くに変えてくれ。
しばらくの静寂。やはり、相当落ち込んでいるのだろうか。そう考えていたが、それにしては
「背中でも感じてしまう
「最初からそれが狙いか、……資本主義者め」
「確かに、
*****
「
次の日の早朝、出来損ないのロシア語で私は叩き起こされた。時刻はまだ4時。まだ日の出には時間がある。始発で横須賀へ。かかる時間は横須賀線で約1時間。そんでもって、着いた先で朝カレーとしゃれこもうじゃないか、というのが
「ふざけるな。寝る」
「おっかしいなぁ、昨日は『夜明けを知らせに来てくれ航海者』って言ってなかったっけ?」
「言ってないよ。記憶を捏造するな」
「いんや、心の中で言ってたじゃん」
「…………」
「ほほう、寝たふりですか。おかしちゃお」
冷静に考えれば、それもありよりのありだったが、低血圧の思考回路が
「やっぱ横須賀と言えばカレー。カレーと言えば
「カレー以外にも作ってあげたでしょ?」
「私は
身を寄せながら食べるカレー。53年前の食卓の思い出を語り合いながら、心を過去へと持って行く。
過去は存在しない。作られた物語があるだけだ。ならば同様に、未来も存在しないのかもしれない。それは、想像された未来であり、同時に創造された物語なのかもしれない。
コンクリートの上に停泊した戦艦三笠。甲板から海を眺めては、それを日本海に見立てる。二〇三高地の攻略後、旅順港を脱出した戦艦セヴァストポリは、東郷艦隊の水雷艇の攻撃によって大破した。戦闘が行われた中心地は対馬海域だったが、その砲撃音は隠岐まで轟いたらしい。ならば、その音は白兎海岸にも聞こえたのだろうか。その真偽は、もはや分からない。仮に収音機があったとして、その収音機が音を拾っていたとしても、住民の誰も聞いていなければ、砲撃音は存在しなかったことになる。ああ、そうだ。誰も見ていない時に、月は存在しない。逆に月が幻影であったとしても、誰かが観測したのなら月は存在する。事実、隠岐の住人は、砲撃音を聴いて、近くの海域に日本艦隊が集結していると考えた。彼らの歴史の中では、日本艦隊は隠岐周辺にいたのである。
そのうち、
――帰りましょう。
眼前の0と1が、白と黒に変わる。
湾内に目をやれば、海面から顔を出した艦橋。潜水艦だ。その後ろには、空母キティーホークの姿がある。ヴェトナム戦争の最前線に居た空母。しかし、問題となったのは潜水艦の方。――原子力潜水艦スヌーク。昭和四十一年五月三〇日。彼らは横須賀に入港した。
もはや、日本がアメリカの西太平洋における戦略の一部であることは隠せない。極東の海を権力闘争の場に変えたのは誰か。アメリカ、ロシア、中国、はたまたイギリスか……。真実は分からないが、事実は二つ。一つは、日本はその全てと戦い、敗北したこと。もう一つは、戦後日本が、東アジアにあった権力闘争をアチソンラインの向こう側に忘却したことだ。日本は島国ではあるが、海洋国家であることを諦めた。強大な力を持つ
帝国は滅びる運命にあると言う。ローマは滅びた。明は滅びた。イギリス帝国は滅びた。ソ連は滅びた。だが、アメリカは滅びない。二十一世紀においても超大国の座に座り続けている。その力の源泉は、世界中に張り巡らされた同盟網だ。東アジアに、中東に、欧州に……各地に置かれた米軍基地は、世界中への力の投射を可能にする。それを自らの力だと
だが、二十一世紀が世界を0と1に変えたとすれば、0と1に否定されたものが牙を剥くのもまた二十一世紀なのだろう。調和はノイズによって搔き乱される。無かったことにされたノイズの逆襲が始まる。
「
昭和四十一年。
白にも黒にも成れぬ者の慟哭。
0にも1にも成れぬ者の怨嗟。
そして、彼女は謳う。
現在は過去であり未来なのだと。
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⁽¹⁾ 中西寛『国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 』(中公新書、二〇〇三年)、七九頁。
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