5月 横須賀

 渚咲なぎさが家出した。

 いま東京にいるらしい。

 




「こんなところにいたんだ……」



 渚咲なぎさを見つけて、私は深い溜息を吐いた。もう渚咲なぎさに振り回されるのは、これで何回目だろう。それに比べて渚咲なぎさとくれば、全く詫び入れる様子が無かった。探し回って結局会えたのは新橋のSLの前。それで、私の姿に気が付くなり、おーいと手を振りながら屈託のない笑みを浮かべるのだ。もう勝手にしてくれと思った。



藤花とうか!! なんでいんのー?」

「こっちのセリフ。何してんの?」


 

 訊くと、渚咲なぎさはポーチからパスポートを取り出して、私に放ってきた。咄嗟とっさにキャッチする。こんなものまで持ち出してたのか。驚く私に、渚咲なぎさは「アメリカに行きたかった」と白状した。



「でもさ、見てよ。期限切れてたわ」

「馬鹿なの?」

「こんなもんが無いと海外行けないとか、シケてるよねー。いらね。あげる」

「てか、行って何する気だったの?」

「イーロンマスクに宇宙に行きたいって!! 直談判!! 藤花とうか千遥ちはると私の三人で!! ねっ」

「後輩まで巻き込むな。ほら、帰るよ、鳥取に」



 ふっふっふー。と、渚咲なぎさは不気味に笑う。今度は何だ? そう思っていると、渚咲なぎさは得意げにとある検索結果を見せた。



「もう遅いわ!! 空の便はありませーん。陸路も、新幹線はあるけど、スーパーはくとの乗り換えには間に合いませーん。それで、どうやって帰ろうと言うのかな? ふふーん? ……そうさ。くなる上は、密航!! 密航しかない!! 行こう、新大陸が待っている!!」

「明日の始発で帰るよ」

「……ありゃ? じゃあ泊まるってこと? 夜行バスで帰るんじゃなく?」

渚咲なぎさ、夜行バス嫌いでしょ?」



 そう言って、ホテル探しのために踵を返そうとすると、「わかってんじゃーん」と後ろから抱き着かれた。あーもう、鬱陶しい。そうして、スマホで空き部屋を検索していると、千遥ちはるからLINEの通知が飛んできた。二手に分かれて探していた彼女からのメッセージは、「渚咲なぎさ先輩が見当たりません」。絵文字も感嘆符もない単純なもので、ましてやスタンプを添える余裕もない調子。



「ほら。千遥ちはる拾いにいくよ」

「うぇっ!? 千遥ちはるも来てんの? どこどこ?」

江戸見えどみ坂だってさ」



 新橋駅から江戸見えどみ坂までは、歩いていくには少し距離を感じる。それでも、千遥ちはるがそこを捜索場所に選んだのには、納得できるだけの理由があった。「だとうかがっていましたので」。そう言う千遥ちはるは、渚咲なぎさの姿を見るなり、泣きそうになりながら駆け寄って来た。ばかばかばか!! 先輩のばか、と言って渚咲なぎさをポカポカ殴った。



「ほんっっっと何考えてるんですか、渚咲なぎさ先輩はッ!! 突然、家出!! しかも今度は東京!! どうしちゃったんですか!?」

「い゛、家出いえでぇ!? 待って、待って!? ちゃんと書置きしたよ?」

「なんでなんにも言わずに行っちゃうんですか!!」

「だから今回は書置きしたし、二人にもLINEで伝えたじゃーん」



 上野なう。事後報告である。一歩遅ければ、渚咲の父親おじさんが捜索願を出すところだった。書置きもあって無いようなもので、「数日間おらんけ」のみ。一方、おばさんは「ほっとけば帰って来るでしょ」と楽観的。私もおばさんの意見に一票を投じたが、おじさんは火山のように噴火した。あの子に何かあったらどうする気だ。よくも他人事でいられるな。それに対して、おばさんも抵抗。あの子を縛るべきじゃない。あの子のやりたいようにやらせてあげるべき。――私と千遥ちはるがいるというのに、玄関先で大喧嘩。事態がややこしくなったのは、千遥ちはるがおじさんに加勢したこと。かくして、元凶不在の大喧嘩に私も巻き込まれた。


 そして、敗戦。決定打は、千遥ちはるの「私が連れて帰ります!! それだったら問題ないでしょ!?」という発言。なにが? 正直、頓珍漢トンチンカンな発言だったが、その場で飛行機のチケットを買い始めたために、言い合いどころではなくなった。とはいえ、この千遥ちはるのことだ。いざという時の行動力は凄いが、基本スペックは天然ゆるふわ。ミイラ取りがミイラになる未来が簡単に予想できた。かといって、おじさんが向かえば、それはそれで何の成果も得られなさそう。そこで、「いちばん渚咲なぎさのことを分かってるのは藤花とうかちゃんだから」と、私が引率役を務めることになった。



「大袈裟だなぁ……。って、あれ? これ、帰ったら怒られる?」

「みんな心配してるんです!! 帰りましょう!!」

「ついでに生徒指導の芝浦しばうらもスタンバイしてる。よかったね」



 途端とたんに、渚咲なぎさは駆けだした。ふぇ、と呆気に取られる千遥ちはる。けれど、私には見えていた。逃がさん。数十メートルの全力疾走の後、渚咲なぎさを拘束した。



「んがああぁぁぁあああっ!! 放せええぇぇぇっ!!」

「で、どこに行く気だったの?」

「金星じゃい!!」

御託ごたくはいいから。現実路線で」

「じゃあ、横須賀じゃい!!」

「なるほど。在日米軍に紛れて密航すると?」

「Exactly」



 何が「なるほど」だ。渚咲なぎさの思考が読めてしまった自分に溜息を吐く。どうしてそうまでしてアメリカに行きたいのだろう。もしかして、それって帰巣本能なの? そうこうと思ったけれど、躊躇ためらわれた。帰巣本能であるはずがない。もし、渚咲なぎさがアメリカにいたのなら日本に行きたいと言い出したはずだ。


 夜明けの航海者。


 帰る場所のない根無し草。彼女はいまも、辿たどく場所を探して彷徨さまよっている。終わらない旅こそ、彼女の喜びだった。彼女はエネルギーで満ちていた。それは自分自身では制御できないほどの強大な力。外の世界に飛び出していきたい。それなのに、自分は縛られている。


 光が失せていく。ビルの群れの向こう側に吸い込まれていく茜。黄昏誰そ彼で人は、魔に出逢うらしい。渚咲なぎさロキシーだった。彼女は私の腕の中で闇に沈んでいく。そうして降りて来た夜の色に染まった琥珀は、力なく言葉をらす。



「ねぇ、ソーニャ。いつになったら人は宇宙に行けるの?」

「ロキシー……」

「あれから半世紀。……なんで人は地球に縛られたままなの? 世界はこんなにも広いのに、どうして……。もう待てないよ。いつになったら私は宇宙に行けるの?」



 この世界には、存在したはずのものが存在しない。かつて宇宙へ向いていた人々の熱は、いまや仮想世界に向かう。宇宙に行くには金がかかる。そして、行ったところで何かがあるわけでもない。政治家たちが宇宙で見つけたのは、想像を絶する闇の広さと、さもなくば不毛な大地だった。ある国際政治学者は、彼の著書のなかで「宇宙に出た人間が獲得したのは、さらなるフロンティアではなく、大気圏外から内を見る視点であった。人類は『内へ』向かう視点をもつことになったのである₍₁₎」と述べた。図書館でこれを見つけた時、私は唸らされたが、渚咲なぎさは硬直したまましばらく動かなくなった。そのあと、いつもは騒がしい渚咲なぎさは、何も喋らなかった。


 次の日のことだ。渚咲なぎさが姿を消したのは。みんな大騒ぎをしていたけれど、理由は明白だった。本の一節にショックを受けてしまったから。そして、こういう時は、放っておいてあげるのが一番だと知っていた。


 ねぇ、「はやぶさ2」がリュウグウまで行ったよ。そんなことを言ってもなぐさめにならないことは知っていた。53年前のあの日、人々のなかにあった期待は「5年後に月旅行に行けるのでは?」というもの。確かにあの後、アメリカは人類初の月面着陸を成し遂げた。だが、それで終わりだった。50年待った結果、人は月旅行にさえ手が届かない。


 本当は、迎えになんか行きたくなかった。渚咲なぎさの落ち込んだ顔を見たくなかったから。会いたくなかった。それでも新橋で出会った時、表情がいつも通りで私は安心した。安心していたのに……。



藤花とうか……。明日、横須賀に行こ?」

「……」

「それで……我慢する」



 我慢なんてするな。行きたい場所に行けばいい!! 千遥ちはるだって心の底ではそう思っている。おじさんだって、生徒指導の芝浦しばうらだって、渚咲なぎさの背中を押してあげたい。それなのに、誰もが渚咲なぎさのことを叱る。心配だからとか、未成年だからとか、それっぽい理屈をつけてはいるが、とどのつまりそれらは後付けの理由だ。みんな嫉妬しているんだ。渚咲なぎさの剛速球ストレートに。



「行きましょう!!」



 後から追ってきた千遥ちはるが声を上げた。横須賀、行きましょう。折角ここまで来たんです。何か見ないと私も帰れません。みんなで叱られましょう、と。千遥ちはるは、普段の大人しさから誤解されがちだが、決して優等生ではなかった。むしろ悪ガキの素質があった。もし、事前にアメリカ行きを誘われていたなら、ほいほい着いて行ったに違いない。



「つれてってよ、渚咲なぎさ



 ぎゅっと腕に力を込める。人工の光で、星が消えた空。東京の夜は明るいのに寂しい。早く明けてくれ。そして、夜明けを知らせに来てくれ航海者。あの琥珀に煌めく明星と共に。何止まってんだよ。「しっかり捕まってないと置いてくよ」ぐらい言ってくれ。そうしないと、私の腕は縛るための鎖になってしまう。縛るのではなく、しがみ付くに変えてくれ。


 しばらくの静寂。やはり、相当落ち込んでいるのだろうか。そう考えていたが、それにしては渚咲なぎさの様子がどこかおかしいことに気が付く。くふふ、と漏れてくる変な声。渚咲なぎさの表情は変態オヤジのそれになっていた。



「背中でも感じてしまう藤花とうかのおっぱい様……最高だぜ」

「最初からそれが狙いか、……資本主義者め」

「確かに、渚咲なぎさ先輩が理由もなく止まるわけないですもんね」


 


 *****




おっはようッどーぶれー、うーとらぁ!!」




 次の日の早朝、出来損ないのロシア語で私は叩き起こされた。時刻はまだ4時。まだ日の出には時間がある。始発で横須賀へ。かかる時間は横須賀線で約1時間。そんでもって、着いた先で朝カレーとしゃれこもうじゃないか、というのが渚咲なぎさのプランだった。



「ふざけるな。寝る」

「おっかしいなぁ、昨日は『夜明けを知らせに来てくれ航海者』って言ってなかったっけ?」

「言ってないよ。記憶を捏造するな」

「いんや、心の中で言ってたじゃん」

「…………」

「ほほう、寝たふりですか。おかしちゃお」



 冷静に考えれば、それもありよりのありだったが、低血圧の思考回路が渚咲なぎさを跳ね飛ばした。はいはい、起きますよ。起きればいいんでしょと、脳味噌が半分眠ったまま身支度を始める。結局、千遥ちはるが起きられず、雑なプランが頓挫したものだから、マーフィーの法則は実在するんだなと思った。一時間遅れで乗ることになった横須賀線の中。千遥ちはるは何度も謝ったが、彼女に非は全くない。全部行き当たりばったりに天を運行する惑星のせいだ。


 

「やっぱ横須賀と言えばカレー。カレーと言えば藤花とうかだよねー」

「カレー以外にも作ってあげたでしょ?」

「私は藤花とうか先輩と言えば八宝菜です。最初の歓迎会で頂いたものですから」



 身を寄せながら食べるカレー。53年前の食卓の思い出を語り合いながら、心を過去へと持って行く。


 過去は存在しない。作られた物語があるだけだ。ならば同様に、未来も存在しないのかもしれない。それは、想像された未来であり、同時に創造された物語なのかもしれない。


 コンクリートの上に停泊した戦艦三笠。甲板から海を眺めては、それを日本海に見立てる。二〇三高地の攻略後、旅順港を脱出した戦艦セヴァストポリは、東郷艦隊の水雷艇の攻撃によって大破した。戦闘が行われた中心地は対馬海域だったが、その砲撃音は隠岐まで轟いたらしい。ならば、その音は白兎海岸にも聞こえたのだろうか。その真偽は、もはや分からない。仮に収音機があったとして、その収音機が音を拾っていたとしても、住民の誰も聞いていなければ、砲撃音は存在しなかったことになる。ああ、そうだ。誰も見ていない時に、月は存在しない。逆に月が幻影であったとしても、誰かが観測したのなら月は存在する。事実、隠岐の住人は、砲撃音を聴いて、近くの海域に日本艦隊が集結していると考えた。彼らの歴史の中では、日本艦隊は隠岐周辺にいたのである。


 そのうち、千遥ちはるが「帰りましょう」と呟いた。「帰ればまた来られるから」と。それは、キスカ島撤退作戦時に放たれた木村きむら昌福まさとみの言葉の引用か、それとも気分が高揚して提督になった彼女が放ったものか、私には計り兼ねた。それでも、三人の気持ちは一緒だった。



 ――帰りましょう。



 眼前の0と1が、白と黒に変わる。


 湾内に目をやれば、海面から顔を出した艦橋。潜水艦だ。その後ろには、空母キティーホークの姿がある。ヴェトナム戦争の最前線に居た空母。しかし、問題となったのは潜水艦の方。――原子力潜水艦スヌーク。昭和四十一年五月三〇日。彼らは横須賀に入港した。

 もはや、日本がアメリカの西太平洋における戦略の一部であることは隠せない。極東の海を権力闘争の場に変えたのは誰か。アメリカ、ロシア、中国、はたまたイギリスか……。真実は分からないが、事実は二つ。一つは、日本はその全てと戦い、敗北したこと。もう一つは、戦後日本が、東アジアにあった権力闘争をアチソンラインの向こう側に忘却したことだ。日本は島国ではあるが、海洋国家であることを諦めた。強大な力を持つアメリカ疑似リヴァイアサンにその座を譲り、それがもたらす秩序の一部となった。

 帝国は滅びる運命にあると言う。ローマは滅びた。明は滅びた。イギリス帝国は滅びた。ソ連は滅びた。だが、アメリカは滅びない。二十一世紀においても超大国の座に座り続けている。その力の源泉は、世界中に張り巡らされた同盟網だ。東アジアに、中東に、欧州に……各地に置かれた米軍基地は、世界中への力の投射を可能にする。それを自らの力だとおごったアメリカは、ヴェトナムで失敗した。だが将来、アメリカが衰退した時、その時にこそ同盟国は同盟の重要性を認識する。そしてほころびを修復しようとする。同盟国はアメリカの力を欲し、アメリカは力の源泉である同盟を欲する。冷戦を通じて、アメリカは世界に「友」を持った。一方でソ連は、仲間をイデオロギーと銃口でしか作れなかった。冷戦を一人で戦った。イデオロギーはユーゴスラビアと中華人民共和国の遠心力となり、銃口で作った恐怖の代償は、冷戦後に支払うことになった。取り残され、1になれなかった東欧諸国は、こぞってEUとNATOへ流れていった。0と1の世界で、アメリカは唯一の超大国になった。

 だが、二十一世紀が世界を0と1に変えたとすれば、0と1に否定されたものが牙を剥くのもまた二十一世紀なのだろう。調和はノイズによって搔き乱される。無かったことにされたノイズの逆襲が始まる。



おかえりなさいWelcome back冬花とうか先輩。ノイズの時代へ」


 

 昭和四十一年。白黒モノクロの世界の中で、鈍色のノイズの塊が入港した原子力潜水艦にシュプレヒコールを上げている。彼らは確かに存在していた。消されてしまったものが此処にはある。


 白にも黒にも成れぬ者の慟哭。

 0にも1にも成れぬ者の怨嗟。


 そして、彼女は謳う。

 現在は過去であり未来なのだと。









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⁽¹⁾ 中西寛『国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 』(中公新書、二〇〇三年)、七九頁。

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