四月 ゾーイ

 桜とともに、家に少女が訪ねてきた。

 少女は、湖雪こゆき千春ちはると名乗った。





 突然の来訪者に戸惑っていると、「部屋の新メンバーを紹介するね」となぎさが切り出した。聞くと、どうやらこの人物はなぎさの後輩で、この春から彼女の所属するサークルのメンバーになったという。「おじゃまします」と発せられた声は、さながらフルートのような優しい音色。春の香りを纏って現れた彼女には、背景色に選ばれた空の青さえも、暖色だと錯覚させられた。とはいえ、大人びていると表現するには、やや初々ういういしさが目立つ。どうやら緊張しているのか、彼女の心拍が私にも聞こえてくるようだった。

 とはいえ、なぎさが理由もなく、他人をこの家に招くわけがない。サークルの後輩。そんなものは、表向きの理由に過ぎない。果たして、湖雪こゆき千春ちはるとは何者であろうか。そんなことを考えながらお茶を用意する。来客……というわけではなく、三人目の同居人だと言われた。このことについて、秋月あきづきなぎさは、今日の今日まで何も言わなかった。確かに、私への事前通告の義務はない。だが、目の前で二人が親しげに会話しているのを見ると、ふつふつと心の底から込み上げてくるものがあった。これは……焦燥? 焦りを感じているのか? ならば、何に焦っているというのか。焦りであるはずがない。これは、危機感であった。正体が明かされないことに対する危機感に違いなかった。

「Anyway, how was ... the cherry blossom viewing party today? 」

「Well, it was dreamlike. I was honored to meet the Prime Minister more than anything else. 」

「……」

 興奮する二人。つい母語である英語で話し始めてしまったなぎさに、千春ちはるは英語で応える。訛りの感じからネイティブではなさそう。しかし、訛りがあるとはいえ、コミュニケーションを取るのに全く支障はない。それどころか国際的に通用するレベルで、日本語で喋っていた時と同等かそれ以上の流暢さをもって受け答えしている。そんなんだから、盛り上がっていく二人だけの会話。私はただただその様子を聞いているばかりだった。もちろん、英語は扱えるが、介入はしない。むしろ二人に感心してしまう。よくもまぁ、敵国人がいる目の前で、ベラベラ喋れるものだ。

 おかげで会話の内容から、湖雪こゆき千春ちはるの人物像が見えて来た。父を外交官に持つ彼女は、幼少期から英語に触れてきたこと。その父に連れられて、今日は新宿御苑で花見をしたこと。そこで、佐藤さとう栄作えいさく首相に会って興奮したという。



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四月十四日 木

百武君が久しぶりに来宅。橋本龍太郎君は式次第で相談に。奥村綱雄君は上林山栄吉君の依頼で来たらしい。寛子の要求で道玄坂の写真屋が来る。その後、新宿御苑の桜花招待。雨が降るとの予報だったが、照らず無風の花曇りで、こんないゝ花見はない様だ。来客も至極多い。


佐藤栄作(伊藤隆監修)『佐藤栄作日記 第二巻』(朝日新聞社、一九九八年)、四一一頁。

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 催事の名は、「桜を見る会」。それこそ、佐藤さとう栄作えいさくの親戚にあたる吉田よしだしげるが首相であった一九五二年に、「観桜会」を復活する形で始まった。今日の花見は九時半から始まり、招待された皇族、外交団、国会議員、そして各界の代表は、警察庁音楽隊が奏でるワルツの中で、各々おのおの春を楽しんだという。外交儀礼の側面もあった行事。私となぎさは招待されなかったものの、外交官の肩書を借りたCIAとKGBの職員の姿もまたそこにはあった。そんな場に招かれた湖雪こゆき千春ちはる。語学に堪能な彼女は、そこで通訳を買って出る場面もあったという。外交官の娘。いいや、その手の業界に精通している人物。彼女もまた「諜報員」の一人であった。


「――っと。話はこの辺にしとこ、千春ちはる冬花とうかがジェラシー感じちゃってる」

「あっ……。す、すいません」

「別にいいよ。どうぞ、続けて」


 そうねるな、ばかちん。なぎさは私の肩にタックルを食らわせた。そして、言う。湖雪こゆき千春ちはるは偽名であること。そして、内閣情報調査室の関係者であること――簡単な話が日本版CIAである。機関の役割としては、情報の収集・分析・調査が主なものであり、CIAのカウンターパートとなる存在でもある。実際この時期には、沖縄返還問題や中共の核実験に関して委託研究がなされており、首相直属の情報機関として佐藤さとう栄作えいさく政権を支えることとなった。


「――とまあ、小難しい話は、ここまで!! さーて、今日は千春ちはるちゃんの歓迎会だ!!」


 何が歓迎会だ。結局、この部屋に親米政権が一つ増えただけじゃないか。そんなことを思っていると、そっとなぎさが私に耳打ちをした。あと千春ちはるちゃんを呼んだ本当の理由を教えてあげる、と。




 *****




 そうして歓迎会を開くことになったが、湖雪こゆき千春ちはるもまた手ぶらでやって来たわけではなかった。大切そうに取り出したのは、三七〇円のレコード。それは、ちょうど先月リリースされたばかりのせん昌夫まさおのシングルであった。私は特に反応を示さなかったが、ここでもなぎさは「いいものを持ってくるじゃないか、ううん?」と大はしゃぎだった。早く聴こう、早く聴こう。レコードが目に入ってからというもの、折角作った夕飯の存在はまるで忘れられたかのようだった。


「何がいいんだか……」

「いいでしょー。『歌は心を潤してくれる』」

「……はぁ?」


 誰かの言葉だろうか。特に尋ねる気にもなれなかったのは、心に余裕がなかったからかもしれない。とはいえ、ひかかるような言い回しだった。そのうち、曲が終わりB面に移る。グロッケンとアコースティックギターが織りなす落ち着いたイントロ。それが流れたかと思うと、なぎさは待ってましたと言わんばかりに、ペンを片手に私たちの前に躍り出る。ペンは、マイクの代わりだった。

「歌います!! せん昌夫まさおで『星影のワルツ』!!」

「はぁ……」

「んわかれぇぇーええるッ、こぉとぉはわあぁーツライぃぃいけぇぇどぉぉぉ~♪」

 全力じゃん。呆れるほどの熱唱っぷりだった。まるで自分が演歌歌手になったとでも言わんばかりに、なぎさは全身を震わせながら歌う。こぶしが利いている。ビブラートの響かせ方が本気だ。思わず魅入ってしまうほどの気迫がそこにはあった。


 途端とたんに、ある情景が思い浮かんだ。此処ではないどこか。そしておそらく、それは五十年後の未来の情景だった。私たち三人は狭い個室の中に居て、今からは信じられないほど薄くなったテレビを目の前にしながら、代わる代わるにうたを歌う。えぇッ!? 今ので79点なのぉ!? 落ち込むなぎさに対して、私は「いや、譜面ガン無視で歌うからでしょ?」とツッコむ。分かっててやったくせに。そんなことを思いながらも、私はなぎさうたが好きだった。音程は合ってる。歌唱能力はかなり高い。選曲が演歌だから、言葉に力を入れるぶん譜面は無視したくなる。そんなイレギュラーに、と採点機能は減点を加える。ふざけるな。機械ごときが人間を知った気になるな。私たちを測れると思うな。まるで珍回答に対して融通の利かない教師のそれだ。せめて、評価者が人間であったなら、別の結果になった筈だ。――「点数やめよう」。三人が出した答えは一緒だった。

 

なぎさ先輩は相変わらずですね」

「……」


 くすくすと笑う千春ちはる。けれど、私の前ではやはり緊張するようだ。なぎさが「ドリンク取って来る」と言って、部屋を飛び出したので、ついに二人きり。気まずい沈黙が流れ始めた頃に、千春ちはるは私に話しかけて来た。


「先輩のことは、聞いています。……えっと」

「無理に喋らなくていいよ。その方が私も楽――」

「いえ!! 伝えなければならないことがあります!!」

「……?」


 ぴしゃりと言い放った千春ちはる千春ちはるの雰囲気が変わったように思えた。彼女の放つ色が変わったというべきか。文字通り、目の色が変わったのだ。向けられた真剣な眼差しの色は翠玉エメラルド。そこで、目の前の女の子が、純粋な日本人でないことに初めて気が付いた。ぱっちりとした目だとは思っていたが、こうしてじっくり見ると東洋人のものではない。アングロサクソン……いや、ことによれば、それは妖精だった。目の前にいるのは、碧眼の妖精に違いなかった。


「あなた……は?」

「改めて自己紹介をしましょう。私は、Zoeゾーイ. O.オフィーリア Setonシートン。逢えて光栄です、ソフィアСофия先輩」

「……イギリス人?」

「母が。国籍は日本で、日本育ちです。少なくとも私自身は日本人……だと思っています」


 しかし、これから伝えたいことに比べれば瑣末さまつなことだと千春ちはるは言った。曰く、ついてきてもらいたい場所がある、と。けれど、その場所に関してはここにいる三人の秘密だとも言った。


「どこ?」

江戸見えどみ坂です」

「なぜ?」

「私の探している人が、きっとそこに居るからです」


 一緒に探してください。そのために、私は冬花とうか先輩を迎えにきました。そう言う彼女は、本当に異質な存在のように思えた。奇妙で理解不能な人物という意味ではない。例えばこれが、誰かの物語だったとして、そこへ入ってきた闖入者。想定されてないイレギュラーのようだった。機械の採点官なら、真っ先に排除するであろう物語上の異物。そんなふうにさえ思った。

 桜の花びらが落ちる。それを見て、人は春を想起する。しかし、頭の中に構築されたものは「春」ではない。どれだけ落ちた花びらを集めようと、春は戻ってこない。春は過ぎ去った過去。過去は存在しない。当然、年表は過去ではない。落ちた花びらを集めて再構築された過去を、人は物語と呼ぶ。故に此れは、過去ではない。此れは昭和四十一年と言う名の物語。


 そこへ生命ゾーイが遊びに来た。

 

「ついてきてください。私のいた世界に」



 

 ******




 2019年5月、品川駅。



 眼前に広がる世界は、0か1だった。0と1の間にある差分は、ノイズとして排除された。駆け抜けていく山手線。街が、人が、風が、そのすべてが鮮やかで、それでいて透明だった。存在している筈のものが存在しない世界。音がクリアだ。映像がクリアだ。全てが潔癖で、無機質で、人工的で、生命の香りがしなかった。こんなに鮮明なのに、世界は灰色のアスファルトでできていた。だから、息が詰まった。目を閉じ、耳を塞ぎ、その場にうずくまろうとした。

 けれど、はそれを許さなかった。私のカタチをした少女は、スマホを片手に、慣れた足取りで電車に乗り込む。カメラ機能で手鏡を作り出し、姿を見ては前髪を整える。――誰だコイツは? いいや、この世界で、この少女が私の化身アバターだった。私は一人の女子高生の身体を借りていた。


「どうですか、先輩? 今の気分は?」

「吐きそう」

「奇遇ですね。なぎさ先輩もそう言っておられました」


 私が吊革につかまると、柔和な笑みを浮かべながら千春ちはるが隣にやって来た。着ている制服は私と同じ高校のもの。この世界でも、私と千春ちはるは先輩後輩の関係らしい。


「ようこそ、53年後の世界へ」

「53年……」


 発車する山手線。それとともに、まるで癖であるかのように、私はスマホをいじり始めた。基本的に、身体は持ち主によるオート操作。とはいえ、ある程度は私からの指示も受け入れてくれた。彼女が手にしているスマホの使い方は、直感的に理解していた。だから、、情報の多さに圧倒されながらも、今いる世界のことを把握し始めた。

 2019年5月1日から元号が令和に変わったらしい。総理大臣は安倍あべ晋三しんぞう。今は「桜を見る会」を巡って、何か問題になっているらしい。この人物が一体誰なのかと調べてみると、彼は佐藤さとう栄作えいさくの実兄であるきし信介のぶすけの……孫!? そして、アメリカの大統領はというと、ドナルド・トランプ。どうやら、 “Make America Great Again ”を掲げて二年前に大統領になったらしい。「再び偉大に」? ……ということは、アメリカは衰退したのか? ならば、冷戦にソ連が勝利したということだろうか? 第三次世界大戦は起こらなかった。日本はと言うと、「世界で最も成功した社会主義国」とたたえられたらしい。やはり、マルクスは正しかった。レーニンは正しかった。資本主義はみずからの自重によって潰れて、世界には社会主義が広がったのだ。では冷戦において、ソ連を勝利に導いた偉大な指導者とは誰なのだろう……? の指導者は? ソ連……ソ連……ソヴィエト連邦……ソビエト連邦……CCCP……USSR……Soviet Union……


「プーチン? 大統領? KGB?」


 世界が停止した。

 

 0と1が告げる。この世界には、存在している筈のものが存在していない。0にも成れぬ。1にも成れぬ。そんな色は、そんな音は、そんな匂いは、存在しない。55年体制は崩壊した。「1と2分の1」体制と呼ばれたが、そのうちの2分の1は葬り去られた。1に成れぬものは消えた。ノイズとして排除された。フィルムカメラはもう持ち歩かない。レコードはもう聴かない。必要なのは液晶画面であって、A面もB面も必要ない。表も裏も必要ない。コインは必要ない。紙幣は必要ない。汚いものは必要ない。美しいものだけでいい。機械の採点官を前に、ノイズは減点対象だ。0と1以外は必要ない。ノイズの無いものこそ美しい。なんて美しい独裁者だろう。だからもう、人間の独裁者は必要ない。ベルリンの壁はもう必要ない。壁ならもう、0と1の間にある。民主党と共和党の間にある。アメリカと中国の間にある。鮮やかで、それでいて透明な美しい壁だ。ノイズはもう必要ない。資本主義にも共産主義にもなれなかったノイズは――ソ連はもう必要ない。


「崩……壊……?」

 

 言葉を失う私。

 そんな私に、千春ちはるは意地悪な笑みを浮かべて、こう答えた。


「ソ連は存在していますよ。ただ、その構成国が0になっただけです……なんて言ったらイギリス人っぽいですか?」

 





 令和と昭和。

 現在と過去。

 そして、歴史家は謳う。


“History is an unending dialogue between the present and the past”








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