三月 金星三号
「
この日の朝、私はロシア語で叩き起こされた。
これでは、まるで金星の地に着地成功したかのような論調だ。
「ステーションが金星に接近した最終段階の通信は行われなかった₍₃₎」
行われなかった、だって? 行うことが出来なかったの間違いだ。こんな不自然な一文を見逃す
ならば何故、この女はこんなに嬉々としているのだろう。私は理解できなかった。いいや、喜ぶふりをしていて、私から何か情報を引き出そうとしているのだろうか。それとも事実を察した上で、ソヴィエトがその科学的成果を、お粗末なものであるにも関わらず「成功」と恥ずかしげもなく
目の前の女は、どうして冷戦が始まったのか理解しているのだろうか。世界を赤く染めようとするソヴィエトの
だが、最後に
破滅への兆しは、既にある。
「――そうだね」
私は不敵な笑みを
「まだアメリカは、月面に無事には
「そうそう!! 今年の二月にも、ルナ九号を月に軟着陸させてたじゃん!! それでさえスゴいって思ってたのに、今回は金星だよ、金星!! スゴい!! スゴすぎる!!」
「三億キロだって!! 三億キロの旅!! スゴい!! スゴいよ!!」
「さっきから、『スゴい』しか言ってない……」
「だって、それ以外の言葉ある!? 英語でも、今の私の気持ちを表す言葉は見当たんないよ」
私はすっかり言葉を失ってしまった。どうして、喜んでいられるのだと。今やソ連は三億キロメートルの距離を耐えうるペイロードを手にした。そして
金星到達のニュースのせいで、今日の新聞では陰に潜んでしまったニュースがある。ジュネーブでの核拡散防止問題に関する議論だ。
「どうして?」
「ん?」
「
はじめは質問の意図が分からなかったらしい。だから初めのうち、
「だって、金星だよ?」
最初は、
間違えていたのは私の方だった。そのせいで、春休みの最中だというのに、私は聞かなくてもいい講義を聞く羽目になった。口から飛び出してきたのは懇切丁寧な人類の歴史。そして、西部開拓の歴史。それは相変わらず西洋中心史観で、先住民を無視した酷いものに違いなかったが、けれども不思議と彼女の語るそれは、心踊るものだった。
彼女は言う。私たちは海の向こう側からやって来た、と。
地球が丸いと知った時、絶望した。世界は閉じられていた。鳥籠だった。喜び? 悲しみ? 平和? 戦争? 所詮は全て鳥籠の中の出来事だという事実を突き付けられて、絶望した。
「どれくらい絶望したかって? 死のうと思った。九年前の話だよ」
鳥籠の中で一生を終える。どれだけお金を稼ごうと、どれだけ物で満たされようと、それは詰まるところ地球という名の鳥籠の中での話。生きる意味なんてものを、見出せと言う方が無理だった。壁で囲まれているように感じた。壁は透明の色をしていた。色がない分、実在するベルリンの壁より害悪だった。壁に名を付けるとすれば、それはカーマン・ライン。海抜高度百キロメートルに存在する空と宇宙を隔てる
だが、壁を作ったのが人間ならば、壁を壊したのも人間だった。此処は限界などではないと。まだ見ぬ世界は、壁の外側にあると。
「一九五七年十月四日――私が死のうって思った日。この世界に愛想をつかした日。でも、私は生きてる。なんでかは……言わなくても分かるよね?」
スプートニク――ソ連が打ち上げた人類初の人工衛星。アメリカと西側諸国を恐怖に陥れた人工の凶星。だが、一人の少女にとっては、心の内にあった透明の壁に風穴を開けた
まだ此処じゃない。
此処は終わりじゃない。
此処じゃまだ終われない。
もっと先へ。
ずっと先へ。
「月に行った!! 金星に行った!! 今度は
空を仰げば、そこには満天の星空があった。幻想である。分かっていた。けれど、刹那の間だとしても、私の目に映る天井は透明化し、空はレイリー散乱を失った。闇の中で、私は星の数を数える。
「見てみたい……な」
私の口はそう告げていた。世界の果てがだろうか。いいや、そうではなかった。そんなものに私は興味が無かった。私にとって世界は、手の中にあるもので十分だ。そうではない。私が見たくなってしまったのは、
「ミリオン」でこんなにも大はしゃぎをするのだ。
私は、「センティリオン」の
***
昭和四十一年。
日本の総人口は、
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⁽¹⁾ 「ソ連ロケット、金星に命中」毎日新聞、昭和四一年(一九六六年)三月二日(日刊)。
⁽²⁾ 「金星へ初めて到達 三カ月半飛続けて規則的な通信保つ」朝日新聞、昭和四一年(一九六六年)三月二日(朝刊)。
⁽³⁾ 前閲、毎日新聞。
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