三月 金星三号

おめでとうПоздравляю!」

 この日の朝、私はロシア語で叩き起こされた。




 秋月あきづきなぎさが嬉々として広げる新聞。見れば、一面記事に「ソ連ロケット、金星に命中₍₁₎」との見出しが踊っている。口と目を大きく開く彼女にかされるようにして、私は寝惚ねぼけまなこで文字を追いかける。なるほど、ソ連の「自動惑星間ステーション」が金星に到達したという。名を‶金星三号〟――現在では‶ベネラ三号〟として知られている人工衛星である。別の新聞も「金星へ初めて到達₍₂₎」と、ベネラ三号の金星到達の話題が大きく一面を飾っている。だが当然ながら、どれもこれも情報源はソ連電報通信社タス通信。私にとっては既知の情報だったし、加えて言えば、「成功」と手放しに喜べるような成果ではなかった。

 これでは、まるで金星の地に着地成功したかのような論調だ。のちに分かることだが、事実は異なっていた。バイコヌール宇宙基地より発射されたベネラ三号は、確かに途中まで順調な航路を辿たどっていた。だが半月前、冷却系の故障により通信が途絶していたのである。三月一日というのは、金星への最接近の予定日。――正確な軌道にある以上は、金星に辿たどいたに違いない。すなわち、三月一日というのは、ベネラ三号が金星に到達したと日であり、衝突したという科学的証拠をベネラ三号はもたらしていなかった。



「ステーションが金星に接近した最終段階の通信は₍₃₎」



 、だって? 行うことが出来なかったの間違いだ。こんな不自然な一文を見逃す秋月渚CIA工作員ではない。もっと言えば、この女は本国からもっと信憑性の高い情報を受け取っている筈だ。これは「失敗」ではないにせよ、「成功」ではない。彼女がそのことに気が付いていない筈がなかった。

 ならば何故、この女はこんなに嬉々としているのだろう。私は理解できなかった。いいや、喜ぶふりをしていて、私から何か情報を引き出そうとしているのだろうか。それとも事実を察した上で、ソヴィエトがその科学的を、お粗末なものであるにも関わらず「成功」と恥ずかしげもなく喧伝けんでんする姿を嘲笑あざわらっているのだろうか。これだから共産主義者コミュニストは、と。流石さすが、事実を嘘で塗り固めて、それを真実プラウダに見せかける達人は違うね、と。滑稽こっけいだね、と。

 何時いつだってそうだ。そうやって、資本主義者どもは私たちをわらう。恐怖と圧政に満ちたディストピアだと私たちの住む世界をわらう。物事は透明でなければならない。開かれた社会でなければならない。そして、自由でなければならない。自由、自由、自由、自由、自由!! 口を開けば自由!! だが、自由とは競争を見事なまでに正当化する悪魔の言葉だ。持てる者が富み、持たざる者が貧しくなることを加速させる競争原理の名だ。残酷な真実を、理想郷ユートピアに見せかける強者の言葉だ。

 目の前の女は、どうして冷戦が始まったのか理解しているのだろうか。世界を赤く染めようとするソヴィエトの所為せい? 馬鹿を言え。逆だ。「鉄のカーテン」を先に敷いたのは資本主義者どもだ。敵と味方に世界を二分して、自由の名のもとに東側に決闘状を叩きつけたのだ。競争せよ、しからずんば死をと。望まぬ闘争を始めたのは独善的な西側の連中だ。ならばと、我々は世界を閉ざした。自らを守ろうと殻を強化した。悪魔に立ち向かうための強大な指導者を求めた。わらいたければわらうがいい。

 だが、最後に貴様きさまらは知るだろう。我らは貴様きさまらが用意した闘技場で競争という名の遊戯に付き合ってやっているだけに過ぎないということに。いずれ、資本主義はその限界を迎え、破滅的な最期を迎える。貴様きさまらは、貴様きさまらが見捨てた弱者の牙によってくだかれる。

 破滅への兆しは、既にある。

 秋月あきづきなぎさ。今は好きなだけ、私を馬鹿にするがいい。だが、新聞を見よ。そうだ、「金星へ初めて到達」の真下の記事を見よ。何と書いてある? 「二十波で北爆」――北ヴェトナムへの空爆だ。ヴェトナム戦争だ!! 手始めに、ヴェトナムの亡霊にその首を差し出すがいい。そして、自由の代償を知るがいい。競争原理の代償を知るがいい。


「――そうだね」


 私は不敵な笑みを秋月あきづきなぎさに向けた。何を恐れることがあるだろう。何故なぜなら資本主義者どもは――


「まだアメリカは、月面に無事には辿たどけてないもんね」

「そうそう!! 今年の二月にも、ルナ九号を月に軟着陸させてたじゃん!! それでさえスゴいって思ってたのに、今回は金星だよ、金星!! スゴい!! スゴすぎる!!」


 なぎさの興奮した調子に、私は呆気に取られた。そんな私をよそに、なぎさは目を輝かせながら「見て」と、新聞記事に書かれている文を指さした。


「三億キロだって!! 三億キロの旅!! スゴい!! スゴいよ!!」

「さっきから、『スゴい』しか言ってない……」

「だって、それ以外の言葉ある!? 英語でも、今の私の気持ちを表す言葉は見当たんないよ」


 ミリオンmillionだ!! となぎさは叫んだ。月と地球の距離は約三十八万キロメートル。それは、ミリオンには至らない。けれども、三億はミリオンのくらいの限界に挑戦する。

 私はすっかり言葉を失ってしまった。どうして、喜んでいられるのだと。今やソ連は三億キロメートルの距離を耐えうるペイロードを手にした。そして運搬能力ロケットを手にした。今回はロケットの先に載ったものが衛星だった。それが核弾頭に変わればどうなるか……。宇宙開発の成果は、軍事的な能力と直結している。ソ連の宇宙開発の進歩は、アメリカにとっての安全保障の脅威だ。それなのに「金星だ!!」と無邪気にはしゃぐ少女。スプートニクの時の恐怖を思い出せと、敵ながらに心配になる。

 金星到達のニュースのせいで、今日の新聞では陰に潜んでしまったニュースがある。ジュネーブでの核拡散防止問題に関する議論だ。なぎさが見逃しているとは思わないが、ついに「金星踊りだ」と即興の踊りを始めた彼女に、私は頭を抱えた。


「どうして?」

「ん?」

なぎさは、危機感とか無いの? 焦りとか、疑いとか、……嫉妬とか」


 はじめは質問の意図が分からなかったらしい。だから初めのうち、なぎさは「んー」と喉から情けない声を出すだけだった。やがて、質問の意味を解すと、しばしの逡巡しゅんじゅんのちに、言葉を発した。


「だって、金星だよ?」


 最初は、なぎさやくし間違えたのかと思った。彼女が、自身の英語における思考を日本語に直す際に、何らかの手違いを生じさせてしまったのかと。結論からすれば、間違いは私だった。ロシア語で叩き起こされた瞬間から、私はあやまちを犯していた。私は秋月あきづきなぎさが敵国人である前に、一人の少女であることを忘れていた。いいや、その心は少年のそれであったかもしれない。宇宙。月。そして、金星。彼女の心のなかにあるのは、純粋なまでの好奇心と情熱と浪漫だった。

 間違えていたのは私の方だった。そのせいで、春休みの最中だというのに、私は聞かなくてもいい講義を聞く羽目になった。口から飛び出してきたのは懇切丁寧な人類の歴史。そして、西部開拓の歴史。それは相変わらず西洋中心史観で、先住民を無視した酷いものに違いなかったが、けれども不思議と彼女の語るそれは、心踊るものだった。


 彼女は言う。私たちは海の向こう側からやって来た、と。古い世界オールド・ワールドから新世界ニュー・ワールドへ。けれども、辿たどいたからといって、そこは終着点ではない。世界は私たちを待っている。だから行く。行けるところまで。野を越えた。川を越えた。山の峰々を越えた。そうして、大洋に辿たどいた。これで終わりかと思った。けれど、そこは限界なんかじゃなかった。世界の果てなんかではなくて、むしろ世界の端だって知った。海の向こう側には、まだ見ぬ世界があって、黄金の国なんかもあるらしい。行きたい。行ってこの目で見て見たい!! なんなら、私のもう一つのルーツはその黄金の国にあった。彼らもまた、明治時代に大海原を越えて西部にやってきた旅人たちだった。私たちの旅は終わらない!! 私たちの旅はどこまでも続く!! この世界が広がる限り!!

 地球が丸いと知った時、絶望した。世界は閉じられていた。鳥籠だった。喜び? 悲しみ? 平和? 戦争? 所詮は全て鳥籠の中の出来事だという事実を突き付けられて、絶望した。


「どれくらい絶望したかって? 死のうと思った。九年前の話だよ」


 鳥籠の中で一生を終える。どれだけお金を稼ごうと、どれだけ物で満たされようと、それは詰まるところ地球という名の鳥籠の中での話。生きる意味なんてものを、見出せと言う方が無理だった。壁で囲まれているように感じた。壁は透明の色をしていた。色がない分、実在するベルリンの壁より害悪だった。壁に名を付けるとすれば、それはカーマン・ライン。海抜高度百キロメートルに存在する空と宇宙を隔てる擬制フィクションの壁だ。人間が自らの手で「空」の広さをせばめた、罪深き壁。

 だが、壁を作ったのが人間ならば、壁を壊したのも人間だった。此処は限界などではないと。まだ見ぬ世界は、壁の外側にあると。


「一九五七年十月四日――私が死のうって思った日。この世界に愛想をつかした日。でも、私は生きてる。なんでかは……言わなくても分かるよね?」


 スプートニク――ソ連が打ち上げた人類初の人工衛星。アメリカと西側諸国を恐怖に陥れた人工の凶星。だが、一人の少女にとっては、心の内にあった透明の壁に風穴を開けた明星あけぼしであった。


 まだ此処じゃない。

 此処は終わりじゃない。

 此処じゃまだ終われない。


 もっと先へ。

 ずっと先へ。


「月に行った!! 金星に行った!! 今度は何処どこ? 木星? 土星? ううん。どこまでだって行ける!! 天の川を渡って、アンドロメダの星の海を越えるんだ!! 行けるよ!! だって、だって、世界が私たちを待ってるから!!」



 空を仰げば、そこには満天の星空があった。幻想である。分かっていた。けれど、刹那の間だとしても、私の目に映る天井は透明化し、空はレイリー散乱を失った。闇の中で、私は星の数を数える。ミリオンmillion……ビリオンbillion……光の在処ありかまでの距離はトリオンtrillonでも言い表せないかもしれない。


「見てみたい……な」


 私の口はそう告げていた。世界の果てがだろうか。いいや、そうではなかった。そんなものに私は興味が無かった。私にとって世界は、手の中にあるもので十分だ。そうではない。私が見たくなってしまったのは、秋月あきづきなぎさという少女だ。「ビリオン」だと叫ぶなぎさだ。「トリオン」と叫ぶなぎさだ。


 「ミリオン」でこんなにも大はしゃぎをするのだ。

 私は、「センティリオン」のなぎさが見たくなってしまった。




 ***




 昭和四十一年。

 日本の総人口は、一億人100 millionを越える。









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⁽¹⁾ 「ソ連ロケット、金星に命中」毎日新聞、昭和四一年(一九六六年)三月二日(日刊)。

⁽²⁾ 「金星へ初めて到達 三カ月半飛続けて規則的な通信保つ」朝日新聞、昭和四一年(一九六六年)三月二日(朝刊)。

⁽³⁾ 前閲、毎日新聞。

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