第46話 ミズナギドリに東風(3)
「詩乃っちは、小説は? まだ書いてるんでしょ?」
「うーん、まぁ……」
詩乃は、中学時代の執筆上の悩みについて、洋には唯一そのことを打ち明けていた。三年生の冬、詩乃の書いたライトノベルの二巻が発売されたが、その時にはもう、詩乃は執筆を終わりにしたいと思っていた。しかし一方で、作家になるなら、読者のために、そして売れるために書くという割り切りが必要なんじゃないのかとも思っていた。もう終わりにしたいというのは、自分の正当でない我が儘なのではないか、と。
その話を洋にしたとき、当時の洋は、「詩乃っちの思った通りした方が良いよ」と詩乃の背中を押した。実際の所、それが決め手になって、詩乃は次の三巻で、そのシリーズの執筆を、強引に終わりにしたのだ。
「うん、それがいいよ。絶対俺、詩乃っち才能あると思うんだよ」
詩乃は、恥ずかしがって笑った。
他の誰でもなく、洋に褒められるというのは、詩乃には特別な意味があった。
「これから練習?」
「うん、幕張の方で試合なんだ。さっきまでスパイク選んでたんだ」
ぽんぽんと、洋はエナメルバックを叩いて言った。
「そっか。試合って、夜なんだね」
「ナイターゲームはね。夏はいいんだけど、もう寒いからあんまり夜はやりたくないんだけど」
そっか、と詩乃は笑った。
洋が元気そうなのが、詩乃には嬉しかった。
そうしてちらりと、詩乃は初恋の女の子の事を思い出した。彼女が好きだったのは、他ならぬ、洋だった。あの子は、洋に告白をしたのだろうか。付き合っていたりはするのだろうか。
詩乃はぶんぶんと首を振って、そのことは考えないようにした。
「あ! そういえば、中学の――三年二組でクラス会やるって話、聞いてる?」
「え? ううん」
「あー、じゃあ、日程とか決まったら連絡するよ。詩乃っち、連絡先変わってるよね?」
「うん。――あ、教えるね」
洋は詩乃の電話番号を自分のスマホに上書き登録し、そこで、もう行かなければならない時間だと気づき、詩乃と別れた。詩乃は、人込みに消えてゆく洋の後ろ姿を見送った。
三年二組のクラス会も、ヨーちゃんが行くのなら参加しようかなと、詩乃はぼんやりと考えた。洋とは三年二組で、詩乃は同じクラスだった。そしてもう一人、三年二組には友人とはまた違う、思い出深い人物がいた。
宮本明香――詩乃の初恋の女性は、二年生、三年生と詩乃と同じクラスだった。
あの子も来るのだろうかと、そう思うと、詩乃の表情は険しくなった。
週明けの火曜日、髪を切ってすっかり印象の変わった詩乃が朝、二年A組の教室にやってくると、さっそく、教室の多くの生徒が、詩乃のイメチェンに反応した。詩乃は今、文芸部の地味な水上詩乃ではなくは、柚子の彼氏の水上君として認識されていた。それだけに、生徒たちの注目も集まる。詩乃と柚子が付き合い始めたという情報は、先週一週間のうちに、クラスの中にはすっかり広まっていた。
夏休み以降は席替えもあって、詩乃は廊下側の席、柚子は窓側の席になって離れてしまったが、詩乃が教室にやって来ると、やはり一番に詩乃を見つけるのは、柚子だった。柚子は、一昨日のデートで、詩乃に気まずい思いをさせてしまったので、顔を合わせたら何て言おうかと考えていた。しかし詩乃のイメチェンで、柚子の悩みはすっ飛んでしまった。
「おぉ、髪型変わってる」
と、運動部の男子がへらへらと、からかうような口調で登校してきた詩乃に声をかけた。クラスの男子の殆どは、水上よりも、少なくとも自分の方がイケている、と思っていたので、柚子を射止めた詩乃には嫉妬が向けられる。その嫉妬は、詩乃へのおちょくりやからかい――いわゆる、「いじる」という方法で発散された。
しかし、声の大きい男たちが詩乃を囲う前に、女子が動いた。
「似合ってるよ、水上君」
「ねぇ、いいよね」
「格好いい、格好いい」
と、口々にクラスの女子生徒たちが言う。
その女子たちの態度が牽制になって。男子は、あまり舐めた態度を詩乃には取れなくなってしまう。柚子には恥をかかせないぞという一体感が、女子生徒たちにはあった。結束されると、どんなに腕力が強くても、男子生徒は女子たちには敵わなかった。
柚子は、椅子から半ば立ち上がり、詩乃のもとに行こうかどうしようか考えた。自分が行けば、皆の視線が自分たちに集まってしまう。私は構わないけれど、水上君は絶対に、そういうのは好きじゃない。
どうしようと、柚子が躊躇っていると、柚子の後ろの席の女生徒が柚子の肩を軽く叩き、行ってきなよ、と背中を押した。いつの間にか、クラス全体が、柚子が詩乃のもとに歩いてゆくのを促している、そういった空気が出来上がっていた。柚子と詩乃を結ぶ教室の短い道が、まるでウェディングロードのように注目されていた。
柚子は、その〈ウェディングロード〉を歩いて、詩乃の席までやってきた。
詩乃は、隣にやってきた柚子を見上げた。
新見さんと付き合い始めて、その上髪型も変えたら、目立ちはするだろうと、その覚悟は詩乃にもあった。ちょっと男連中にいじられて、冷やかされるくらいは、仕方が無いと思っていた。
しかし朝一番で、これほどの注目を浴びるとは思っていなかった。
新見さんの彼氏になるというのは、とんでもない事なのではないかと、そんなことを詩乃は感じた。ともかく今、詩乃は、自分の振る舞い方を全く見失っていた。
「髪、切ったんだ」
「う、うん……」
「すごく似合ってる」
「うん……」
そんな二人のやり取りだけで、女子の幾人かが思わず、黄色い悲鳴を上げる。
見つめ合う沈黙に耐えかねて、詩乃が言った。
「新見さん、可愛いから」
急にそんな言葉が詩乃の口から出て来て、柚子も、周りの生徒たちも、同じように顔を赤くした。詩乃は、髪を切った理由を柚子に説明したつもりだったが、言葉が足りなかった。それからすぐに一時間目開始の鐘がなり、数学の教師が二年A組の教室に入ってきた。
そして、生徒たちの妙に浮足立った雰囲気に、首を傾げた。
四時間目の授業が終わり、詩乃はそそくさと、二年A組の教室を離れた。先週一週間も、教室は詩乃にとっては居心地が悪かったが、今日は先週の比ではない。好奇の目を向けられたり、冷やかされるだけならまだ良かったが、話しかけられたり、皆が目と耳を向ける中、新見さんと会話をしなければならないのは、詩乃には苦痛でしかなかった。
弁当箱を持って部室に逃げ込んだ詩乃は、部屋の暖房をつけ、デスクチェアーに座ると、深いため息をつき、PCモニターの前に突っ伏した。このまま五、六時間目の授業は休んでしまおうかなと、そんなことをちらりと思う。
そこへ、柚子が、詩乃を追ってやってきた。
コンコン、という可愛らしいノックと、「新見です、水上君、いる?」の声。
「どうぞ」
詩乃が言うと、柚子が、こそっと部室に入ってきた。そうして、詩乃の様子を覗いながら、とことこと、詩乃のデスクチェアーまでやってくる。柚子は、詩乃が怒ってしまったのではないかと思っていた。
「一緒にお弁当、食べて良い?」
柚子はそう言って、持ってきた弁当袋を、胸の前に持ち上げた。
弁当袋にはペンギンの顔がでんと描かれていて、詩乃はそのペンギンと目があって、思わず笑ってしまった。詩乃が表情を緩めたので、ひとまず柚子は胸をなでおろし、パイプ椅子に座った。柚子が自分の膝に弁当箱を置いたので、詩乃は慌てて言った。
「いいよ、こっちで食べようよ。おいで」
詩乃は自分を椅子ごと横に移動させて、柚子の食事スペースを作った。
柚子はパイプ椅子を詩乃の隣にくっつけて、弁当箱を、いつもは詩乃が作業をしているPCデスクに置いた。今は、キーボードはモニターラックの下に収納しているので、食事をするにはちょうど良い空間が広がっている。しかし、実はそんな空間があるのはPCデスクの上でもそこだけで、その他の場所は、小説の資料が山積みになっている。
詩乃は、自分の昼食スペースを確保するために、机を占領していた雑誌や本を床に下ろした。降ろすときにぐしゃあっと、書籍類が雪崩を起こしたが、もういいやと、詩乃は直すのを諦めた。
本を机から降ろし、体を起こした詩乃の髪を、柚子は片手で微かに撫でた。
詩乃は驚いて、思わず身を引いた。
「あ、ごめんごめん」
柚子は笑いながら謝った。
「え、どうしたの?」
「いやちょっと、触ってみたいなぁって」
柚子の子供っぽさに、詩乃の頬は緩んだ。
二人だけなら、これでいいのになと、詩乃は思った。彼氏、彼女なんて、二人だけのこの時間だったら、そんな肩書を装着する必要はないのに。
柚子は手を引っ込めて、改めて詩乃を見つめて言った。
「本当に似合ってるよ。格好いい」
「いいよそんな、褒めなくて」
詩乃は苦い顔をして応えた。
柚子は、詩乃の照れ隠しに微笑み、弁当箱を開いた。二段の弁当箱の二段目はトマトやブロッコリーやウズラの卵や、小さなおかずが敷き詰められている。定番のタコさんウィンナーやミートボールもしっかり入っている。そして一段目は、雑穀米のご飯。
一方詩乃の弁当箱は四角い漆器で、中身は白飯、厚焼き玉子、ソーセージ、ふりかけの袋と、いたってシンプルである。昨日の夕食の残りや、気分で作って作りすぎた料理が無い限りは、大抵、献立に変化はない。目玉焼きが白飯の上に乗る位なものである。
「ねぇねぇ、おかず交換しようよ」
柚子が、詩乃に小声で提案した。
詩乃は、笑って頷いた。
「どれがほしい?」
「厚焼き玉子とソーセージ」
「――まぁ、それしかないんだけどね」
「水上君も、好きなの取って。あ、ビュッフェみたいにしようよ!」
柚子はそう提案すると、詩乃と自分の間に、おかずの入った弁当箱を置いた。詩乃も柚子のアイデアに乗っかって、漆器の蓋を裏返し、その上にソーセージと厚焼き玉子を全部載せ、二人の間に置いた。
早速柚子は、詩乃の厚焼き玉子を口にした。
以前柚子は一度だけ、詩乃の家で出来立ての厚焼き玉子を食べさせてもらったことがあった。その時の厚焼き玉子よりも、出汁の味がしっかりしている。触感も味も、色つやも、見事、としか言いようがなかった。ソーセージも、焼き色の具合やその張りも、いかにも美味しそうに出来ている。そうなってくると、今度は詩乃の白飯を食べてみたくなる柚子だった。
柚子の視線に気づいて、詩乃は、弁当箱を柚子の前に持ち上げた。
柚子は、詩乃の白飯を食べてみた。
「美味しい!」
詩乃は笑って、弁当箱を〈ビュッフェスペース〉に置いた。
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