第45話 ミズナギドリに東風(2)

「う、うん……皆も、元気?」


 柚子は、弱弱しい笑顔を三人に向けて言った。


 ほんの一瞬の間があり、そのあと、三人は口々に言った。


「うん、元気だよ」


「元気元気、もうすっかりだよ」


「柚子も元気そうだね」


 そう応えた後で、背の高い女の子が詩乃を見て言った。


「もしかして柚子の彼氏さん?」


 その質問は、柚子に対してなのか、詩乃に対してなのか、どちらともつかなかった。ただ詩乃は、その子の口元に嘲笑の気配を感じ取った。柚子は、詩乃の手をぎゅっと握って、その目を、長身のその友人に向けた。


「うん、そうなんだ」


 柚子は、はっきりと宣言した。


 柔らかい声ながら、詩乃は柚子の声の中に、緊張と気迫を感じ取った。


 詩乃は、三人の驚いたような、楽しむ様な目に耐えられず、視線を落とした。


「へぇ、そうなんだぁ、あっはっは、へぇ……」


 マッシュショートの子が、楽しそうに笑いながら言った。


 露骨に値踏みをするような声と視線に、柚子は唇を結んだ。


 柚子の悔しそうな様子と、そしてその彼氏だという詩乃の卑屈そうな態度に、三人は目配せをしあった。


「私たち、柚子の中学の時の友達なんだ。あ、名前教えてよ。私心愛って言いまーす」


 マッシュショートの女の子は心愛と名乗り、詩乃に手を差し出した。


 詩乃は、成り行き上仕方が無いと、その手を握り、「水上です」と自己紹介をした。


 柚子は、ぎゅうっと詩乃の手を握る力を強めた。


「同級生?」


 そう聞いたのは、背の高い女の子だった。何気ない質問だったが、そこには、氷のような冷たい意図があった。


「うん」


 柚子は小さく応えた。


「へぇ、そうなんだ。てっきり柚子、年上が好きなんだと思ってた」


 心愛が言った。そうしてくすくすと、質問をした背の高い女の子と二人して笑う。


 柚子は何も応えられなかった。心愛も、他の二人も、中学時代、柚子が先輩と付き合っていたことを知っている。そして、この三人が自分に抱いている感情も。


「柚子って、そっちの学校でもモテるんでしょ? 水上君から告白したの?」


 心愛が、詩乃に質問した。


 なんで初対面のお前にそんな事答えなきゃいけないんだよと、詩乃は内心思いつつも、柚子の事を考えると、そう強いことは言えなかった。柚子とこの三人が、再会を喜び合うような関係ではなかったとしても、この三人は、柚子の知り合いには違いない。


「うん、モテモテだよ。自分には勿体ないくらい」


 詩乃は、三人からは目を逸らせながらそう言った。


 やっぱりそうなんだーと、心愛は微かに眉を引くつかせながら相槌を打つ。


「でもやっぱり柚子はすごいよねぇ、引く手あまたで」


 そう言ったのは、長身の子だった。


「そんなんじゃないんだけど……」


 三人から目を逸らせ、柚子は、消え入りそうな声で応えた。


「――あ、そろそろ上映時間だよ」


 それまで黙っていた、赤みがかった髪の女の子が、連れの二人にそう言った。心愛ともう一人は時計を確認した。


「あ、ホントだ。――じゃあ柚子、元気でね」


「彼氏さんもね」


 二人はそう言うと、詩乃を一瞥して、柚子の元を離れていった。離れながら、くすくすと笑い合う。「吃驚したね。すっごい地味」「まぁまた遊びでしょ」「またって何」――そんな言葉を交わす二人に、赤みがかった髪の女の子が後ろから追いつく。その子は一度、柚子を振り返ったが、柚子は俯いていて、彼女が振り返った事にも気づいていなかった。代わりに詩乃が、小さくその子に会釈を返すと、その女の子も、小さく会釈を詩乃に返した。


 柚子は、詩乃の右手を両手で包んで握った。そうして、詩乃の目を見つめる。


 柚子の体温と柚子の不安そうな瞳に、詩乃は、どうして良いかわからず、固まってしまった。何か言葉をかけるべきだろうか。だけど、励ますにしても、何をどう励ましたら良いのだろうか。そんな事を考えるうちに、詩乃は、何から何まで分からない自分が情けなくなってきた。


「前に言ってた子たちだよね。中学の時の……」


 詩乃は、柚子に聞いた。


 詩乃は、この夏――まだ付き合い始める前に、柚子からその中学時代の事を少し聞いていた。恋愛がらみで友達を失ってしまった、ということを。一人の友達とは、その友達の片想いしていた子に告白されてしまし、それと時をほぼ同じくして、また別の友人の、当時付き合っていた彼氏から言い寄られ、その男と友達の関係を壊してしまったという。


 もしかすると、今遭遇した三人のうち二人が、その二人なのかもしれないと詩乃は思った。


 詩乃の質問に、柚子は小さく頷き、詩乃に言った。


「ごめんね……」


 柚子のその言葉は、詩乃の心に深く刺さった。


 自分がもう少し、新見さんに相応しい男だったら――少なくとも外面くらいはそうだったなら、新見さんをこんな風に謝らせることは無かったのかもしれないなと、詩乃はそう思った。


 今までは何とも思っていなかった自分の青白い肌や、何の秩序もなく伸びた髪や、服装から何から、自分の全部が嫌になってくる詩乃のだった。


「こっちこそ、ごめんね」


 詩乃は、ぽつりと言った。


 その「ごめんね」は、柚子が詩乃に与えたのと同じように、柚子の心にも深々と突き刺さったのだった。展望ガラスの向こうは、いつの間にかすっかり日が落ち、細長いビルは電光看板をきらきらと光らせていた。






 詩乃は、柚子と二人で映画を観た日の翌日月曜日、文化の日の振替休日だったので、その日一日を使って髪を切ることにした。訪れたのは、新宿の、十代に人気だという理容室。予約をするのも、わざわざ散髪のために新宿の、ガラス張りの洒落た店に入るのも、詩乃には一大決心が必要だった。詩乃を担当する理容師も女性で、そのことも詩乃を緊張させた。


 しかし三十分後、詩乃は、店の姿鏡に映る自分を見て、髪型一つで随分印象が変わるものだなと、我ながら驚いていた。今までの、ただ伸びていただけの髪とは違う。軽く中分けをしたミディアムカット。何か爽やかすぎるんだよなという違和感を覚えつつも、一方で詩乃は、それなりに満足してもいた。


 髪を切ったあと、詩乃はそのままアパレルショップを回ることにした。今履いているほとんど一張羅のジーンズは中学の時に買ったもので、もう生地もかなり傷んで、色も薄くなっている。気に入っている茶のセーターも、自分が気に入っているだけで、格好良くはない。


 店を巡りながら、詩乃はジーンズ二本と、服は冬物を何着か購入した。自分の見栄えのために金銭を消費するのは、詩乃にとっては無駄遣いだったが、それにも、例えば新見さんと出かけるためだとか、小説の人物描写のためだとか、理由を付ければ、さほど無駄なことではないと思えた。


 最後には本屋で、今書いている短編のための資料――女性誌や平積みされてあった恋愛モノの小説を大量に購入した。そうして本屋を出た時、詩乃は、意外な知り合いと遭遇した。


「あれ、詩乃っち!」


詩乃にそう声をかけたのは、詩乃とは小学校から中学生時代までを一緒に過ごした、詩乃の唯一と言っても良い友達――橋井洋だった。


 洋は、エンブレムの入ったウィンドブレーカーを着ていた。肩にはスポーツ用の黒いエナメルバックをかけている。黒髪のショートカットは、今も昔も変わらない。


洋は小学生当時からサッカー少年で、インドアの詩乃と重なる部分は少なかったが、不思議と馬が合った。


「ヨーちゃん?」


 洋のことを、詩乃は「ヨーちゃん」と呼んでいた。高校に上がってから今まで会うことは無かったが、それでも向かい合うと、自然と昔なじみの感覚に一瞬で立ち返る。


「久しぶり」


「うん」


 洋が言い、詩乃が応えた。


「髪、どうしたの?」


「え? あぁ――」


 詩乃は今日切ったばかりの髪を右手の人差し指で軽くいじり、はにかみ笑いを浮かべた。


「今日切ったんだよ」


「へぇ。イメチェン?」


「ま、まぁ……」


 詩乃は笑った。


 そう言う洋は、中学生時代の洋と、外見的には大きな変化はなかった。少し背が伸びて、筋肉がついたけれど、目元の優しそうな二重瞼はそのままだ。


「詩乃っち、転校したんだよね」


「うん」


「こっちの学校だっけ?」


「日暮里の方」


「おぉ、都会だ。家は?」


「北千住」


「一人暮らし?」


「うん」


「おぉ……」


 すごいな、と洋は呟いた。洋には、詩乃が随分大人に見えた。洋も、高校入学と同時に引っ越したのだと、詩乃に話した。でも到底一人暮らしなんでできないよと、洋は詩乃に言った。


「ヨーちゃんは、まだサッカーやってるんだね」


「うん、やってるよ。ユース入れたから」


 そういえば、洋はJリーグに所属するクラブの下部チームに所属していたのを詩乃は思い出した。小学生時代から、地域の選抜や、東京都の代表選手として選ばれて、その道では名前が知られていたらしい。そのあたりの事情は、詩乃にはよくわからなかったが、洋はサッカーがかなり上手い、ということは知っていた。洋がボールを身体の一部のようにして、くるくる足を使ってけん玉かヨーヨーのように扱っているのを何度も見たことがある。


「すごいね」


「いやぁ、運だよ」


 詩乃は、サッカーの事はよくわからなかったが、洋の性格には憧れのような気持ちを持っていた。自分もヨーちゃんみたいな良い性格になれたらいいのになと、心の奥でそんなことをよく思っていた。そして今もまさに、同じことを思う詩乃だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る