2章 それでも息はできるから

第44話 ミズナギドリに東風(1)

 十一月最初の日曜日、午後二時過ぎ。新宿駅の東口改札に詩乃は来ていた。


 柚子と付き合うことになったのが先週の日曜――文化祭二日目の夜。三日前のハロウィンコンサートを一回目のデートとカウントするなら、今日は二度目のデートだった。


 チョコレート色のセーターに青ジーンズ、靴はいつものバッシュという格好。それに、小さなショルダーポーチを、肩にかけている。


 詩乃は、待ち合わせの三十分前にはこの待ち合わせ場所に到着し、柚子を待つ間、行き交う人々を観察していた。


 どんな服を着てこようか、詩乃も詩乃なりに悩んだ挙句、今日の服装にしてきていた。特に、今日の茶のセーターは、持っている冬物の内で、詩乃の一番のお気に入りだった。


 しかし、駅にやってきた詩乃はすぐに、自分はやっぱり場違いなのではないか、という思いに苛まれ始めた。行き交う人たちの洗練された装いときらきらした顔つきに、詩乃はだんだんと、追いやられるようにして、空間の隅に退いた。詩乃と同じ、高校生くらいの男や女もたくさん通ったが、誰も彼もが、詩乃には華やかに映った。明らかに年下の、中学生くらいの子たちでさえ、男は格好良く決めているし、女の子は可愛さ・美しさを演出している。


 それに比べて自分は、押し入れの奥から這い出てきたケモノみたいだなと、詩乃はそんなことを思った。気に入っているこのセーターも、よく見れば古臭い。


 詩乃は、目を回しそうになるのを、目を閉じ、ぐりぐりと眼球を揉み解して解消した。そうして目を開けた時、改札の奥に、ひと際綺麗な女性が現れた。


 ダッチネックの白Tシャツにスネ丈の白いフレアスカート。アンクルストラップの黒パンプス。微かに灰色がかったかーディガンに袖を通し、小さなベージュのバックを肩にかけている。


 その女性は、改札の隅に詩乃を見つけると、にこりと笑って詩乃に手を振った。


 柚子だった。


「新見さん?」


 詩乃は呟いた。


 柚子は改札を通り、詩乃のもとにやってきた。


 柚子の姿を、男も女も目で追った。


「お待たせ」


 満面の笑みで、柚子は詩乃の前までやってくるとそう言った。


 詩乃は、柚子の姿を、つま先から足首、腰、胸、そして顔へと視線を移動させながら見つめ、最後に柚子の笑顔を見ると、思わず息を止めた。この子が自分と付き合っている? 今からこの子とデート? 嘘だろうと、詩乃は思った。


 柚子は、自分に見とれている詩乃に、くすくすと笑った。柚子にすれば、男の子の、そういう反応には慣れていた。ただいつもと違うのは、それを「可愛い」と思うことだった。目をぱちくりさせる詩乃を見て、柚子も、笑顔が蕩けてしまいそうになる。


「いいねぇ、そのセーター。水上君って感じで、私好き」


 詩乃は俯いて顎を掻いた。


 ――天使かと思ったと、詩乃は柚子にそう言おうかと思ったが、やめた。改札に柚子が現れた瞬間、本当に詩乃はそう思ったが、面と向かって言うのは恥ずかしい。それに、そんなことを言えば、気持ち悪がらせてしまうかもしれない。


「行こうか」


 詩乃はそう言い、二人は駅を出た。


 そうして新宿の繁華街をぶらりと歩く。目的地は映画館だったが、柚子がまだ昼食を摂っていないというのを知って、詩乃はケバブを二人分買い、一つを柚子にあげた。柚子は午前中は、ダンス部の活動をしていたのを詩乃は知っていた。きっとたくさん動いてお腹も空いているのだろうと思い、柚子のケバブは大盛りにしてもらった。


 「大盛下さい」と言うと、中東系の店主が「モリモリねぇ!」とやたらテンションの高い返事を返してくれて、そうして出てきたケバブの大盛りのその量に、詩乃も柚子も驚いた。紙袋は、キャベツと肉とソースで、はちきれそうになっていた。


「食べられそう?」


「うん。実は、腹ペコなんだ」


 柚子はそう言って、ケバブにかぶりついた。その豪快さと、ハムスターのような柚子の顔に、詩乃は笑った。しかし詩乃は、いつまでも笑っているわけにもいかなかった。ケバブの屋台前に出された簡易ベンチに座っているだけでも、柚子は、人目を引いた。通りかかるほとんどの人が、柚子を見る。普通よりも少しだけ長く。


 詩乃は、そんな柚子への視線に対して、神経を擦り減らせて、だんだんと、そのことばかりが気になってくるのだった。


 ケバブで空腹を満たした後、二人は映画館に向かった。映画館までの数分という短い道のりの間でも、柚子を連れだって歩く詩乃の心は落ち着かなかった。最初は隣同士歩いていたが、そのうちに自然と、柚子が詩乃の半歩前を先導するようになっていた。詩乃の顔も自然と俯きがちになっていった。


 繁華街の狭い空間に、どんと映画館の入ったビルが聳え立っている。入口からエスカレーターに乗って、二人は映画館のロビーに入った。落ち着いた灰色絨毯に、半円形のチケット販売カウンター。壁の一方はガラス張りの展望窓になっている。


「何観よっか」


 と、柚子は詩乃に聞いた。


 ロビーには壁面ポスターや映画宣伝の看板が並んでいて、大型モニターには、公開中の映画のPVが流されている。詩乃はチケットカウンター上部の上演スケジュールを確認した。


 どれも知らない映画のタイトルが並んでいる。


 今更ながら詩乃は、二人で映画に来たのを後悔した。文章でも映画でも、詩乃は自分が、とてつもない好き嫌いのあることを知っていた。好きなものは心から好きになるが、嫌いなものは、親の仇のように、憎しみのような感情まで出てくるほど嫌ってしまう。そして好きな物よりは、嫌いなもののほうが圧倒的に多い。


 詩乃は顔をしかめた。


「水上君、どんなジャンルが好きなの?」


 柚子は、詩乃に問いかけた。


 詩乃は眉間にしわを寄せ、こめかみを掻き、それから応えた。


「アニメは見たくない。――今は、恋愛モノが、勉強したいかな」


「え、勉強?」


「うん。クリスマス用の部誌を、作らなきゃいけないから。今書いてるんだけど、ちょっと、苦戦もしてて」


「あぁ、そうなんだ」


 勉強のために映画を観るという詩乃の世界観に触れて、柚子は笑みを零した。


 上映中の恋愛モノは二作品あった。そのうち、上映時間の早い方を観ることに決め、二人はチケット販売カウンターに並んだ。映画の名前と時間、座席を柚子ははきはきとチケット販売員の女性に伝えた。そうして、全く当たり前の流れで「カップル割引きでお願いします」と言った。


 顔を赤くする詩乃に、柚子はにこっと笑いかけ、チケットを受け取った。


 その後は、ロビーの売店でバケツのような箱に入ったキャラメルポープコーンを買って、それを詩乃が両手で抱え持ち、柚子は二人分のオレンジジュースを手に持って、劇場に入った。座席に隣り合って座り、そこでやっと詩乃は、ひと時の安らぎを得た。席に座ってしまえば、周りからじろじろと注意を向けられることもない。


「楽しみだね」


 柚子は、詩乃が膝の上で持っているポップコーンを摘まみながら、詩乃の顔を覗き込むように言った。詩乃は思わず身を引いて、「うん」と頷いた。


 柚子はじっと詩乃を見つめ、それから、箱から摘まんだポップコーンを、詩乃の口元に持っていった。詩乃は、ただ柚子にされるがまま、口を開いて、柚子の指からポップコーンを食べた。甘いキャラメルと、微かな塩味を、舌の上で転がした。


 新見さんは一体、何を考えているのだろうと詩乃は思った。柚子の――女の子の考えは、詩乃には全く未知数だった。詩乃は、女の子のことを好きになったことは今までにもあったが、女の子と、彼氏・彼女という関係になったのはこれが初めてだった。


 柚子の表情、香り、その眼差しやたまに触れるその肌の温かさと柔らかさに、詩乃の頭はパンクして、ただ柚子の行動を見守るしかできなかった。


「もう一口、いる?」


 詩乃は、「いる」とも「いらない」とも応えられず、ただ口を半開きにさせた。

 柚子はその口に、二粒目のポップコーンを押し込んで、満足そうに笑った。


 そんな事をしているうちに劇場のライトが落ちてスクリーンカーテンが開き、近日公開映画の予告映像が流れ始めた。柚子は大人しく席に座り直し、詩乃はほっと胸をなでおろした。腹に響く重低音が響き始め、詩乃は、映画館に来たのだなと実感した。




 映画の上映が終わり、劇場のライトがゆっくりと明るくなった。恋愛映画の定石に漏れず、映画は最後、ヒロインの死で幕を閉じた。ラストは、ヒロインの映った写真のアルバムを、主人公の男が夕日の差し込む部屋で眺めているシーンで終わった。エンドクレジットの流れる間、すすり泣く声に囲まれて、詩乃はずっと顔をしかめていた。感動を押し付けられたような気がして、詩乃は映画にも周りのすすり泣きにも、冷ややかな気持ちになっていた。ぎゅっと肩甲骨を引き締めて筋肉を伸ばし、柚子を見れば、柚子も、涙目になっていた。詩乃は、この後、この映画の話題で盛り上がらなければならないことを考えて、急に気が重くなるのだった。


 二人はロビーに戻り、空になったジュースとポップコーンのごみを捨てて、二人掛けのソファーに座った。展望ガラスの外の空は、オレンジ色の夕焼けに染められていた。


「良い映画だったね」


 柚子が言った。


 詩乃は、「うーん」と、曖昧に頷いた。嘘でも「そうだね」と言うべきなのは、詩乃にもわかっていた。そのほうが、会話は円滑に進む。それでも、どうしても詩乃は、平気で「そうだね」とは言えなかった。詩乃は、今しがた見た映画を、「良い」とは全く思わなかったのだ。


「勉強になった」


 詩乃は、自分の気持ちに嘘のないように、そう応えた。


「え、ホント? 勉強になった?」


 笑いながら、柚子は詩乃に聞き返した。良い、悪い、ではなく「勉強になった」というのは、いかにも水上君らしいと、柚子は思った。


 詩乃は、自分の映画に対する本当の気持ちを悟られまいと俯いた。


 柚子は、そんな詩乃の横顔を楽しそうに見つめていた。


 そこへ、柚子を呼ぶ声があった。


「あれ、柚子?」


 呼ばれて、柚子は顔を上げた。


 声の主は、二人の座っているソファーのすぐ近くにいた。私服姿の女の子、三人連れ。


 その三人は、柚子の中学時代の同級生だった。


 ひょろりと背の高い黒髪の子、どこか勝気そうな目をしたマッシュショートの子、微かに赤みがかったロングヘアに、どことなく優し気な表情の女の子。柚子に声をかけたのは、その、マッシュショートの子だった。


「あっ……」


 柚子は三人を見上げて、口を開いた。


 詩乃はちらりと柚子の表情を見て、それから、柚子に声をかけた三人に、小さく会釈した。


「久しぶりだねぇ、柚子、元気してる?」


 マッシュショートの女の子が、柚子に言った。その高い声の中に、詩乃は、柚子に対する敵意のようなものを感じ取った。

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