第47話 ミズナギドリに東風(4)

「水上君のお料理、毎日食べられたら幸せだろうなぁ」


 柚子はそんな事を言った。


 詩乃は、箸を持ったまま自分の太腿に肘をつき、頬杖を突いた。


「どうしたの?」


 柚子は、詩乃に訊ねた。


「うーん……」


 詩乃は、唸るような生返事を返した。


 何か悪いことを言ったかなと、柚子は詩乃の腕に軽く触れる。


 詩乃は厚焼き玉子を口に運んだ。二種類の出汁を入れて、それなりにこだわりはあるけれど、誰に食べさせるつもりで作ったわけでもない。自己満足のこの味が、新見さんを幸せにできるとは、どうにも思えない。


「あのさ、水上君……」


「うん?」


「あの……これからお昼、ここで、一緒に食べてもいい?」


「え……」


 思いもよらない提案に、詩乃は返事を躊躇った。その躊躇いの間に、柚子が早口で言った。


「あ、毎日じゃなくてもいいから! 二日とか三日に一回とか、週四回とか……」


「来たいときに来てよ。自分はお昼は、大体ここで食べてるから」


 詩乃が言うと、柚子は笑顔を詩乃に向けた。


 詩乃の心は複雑だったが、それでも表情だけは整えて、柚子に微笑み返した。




 その日の放課後、詩乃はいつものように部室に籠り、クリスマスに出す部誌の短編を作っていた。三篇のうち一遍はすでに先週書き上げ、残り二編も、今週中――上手くすれば今日、明日で完成させられそうだった。


 昼食の後、結局詩乃は五時間目、六時間目を休み、ひたすらキーボードで文章を書いていた。この一週間のうちでも、特に今日は、執筆の調子が良い。その理由も、詩乃には何となくわかっていた。調子が良い時にはいつも、心の中に何かが燻って燃えている。心の火種に薪がくべられた時、そういう時には、書かないではいられなくなる。


 しかし、書き進めればすっきりするかというとそんなことは無く、むしろ、書けば書くほどに、イライラは溜っていく。そのイライラした気持ちに急かされて、キーボードを打ち進める速度はどんどん上がってゆく。


 書いているジャンルが恋愛モノ、というのも、今の詩乃には良くなかった(短編の完成という意味では良いことではあったが)。読者が理想に思う恋愛、ドキドキする起伏のあるストーリー展開、そして、理想的な彼氏。自分で登場人物を設定しているのに、いつの間にかそこに出てくる男に、詩乃は嫉妬を覚え、そして一人静かに敗北していた。一つのシーンを書き終えると、詩乃は文章を書き上げた疲労より、自分の男としての不出来さに打ちのめされて、椅子の背もたれに深く沈むのだった。

彼氏なんて、何をすればいいのだろうかと、詩乃はカーテンを開けて、すっかり暗くなった外の校舎の景気を眺めながら考えた。


 教室でだったか、それとも廊下でだったか、「新見さんの彼氏が、なんであんな奴なんだよ」と、先週どこかで、聞こえよがしにそう言われた。その言葉を思いのほか気にしている自分に気づいて、詩乃は自分を情けなく思っていた。


 他人なんて関係ない。自分は自分だと、いつもはそんな風に気取っていながら、結局は他人を気にしている。なぜ気にするのか。


 自問をすれば、答えは心の底から浮かび上がってくる。


 ――自分でも、自分が新見さんに相応しいと、思えていないからだ。


 そしてその自信の無さは、新見さんをも傷つけている。


 二人で並んでいる時に、周りが、自分を見て笑う。自分は構わないけれど、そういうとき新見さんは、悲しい表情を笑顔の裏に隠している。


 新見さんのあの同級生三人も、もし自分が、自信に満ちた男だったなら、あの時去り際に、あんな笑いを浮かべはしなかっただろう。自分が相応しい彼氏だったなら、きっと、あの子たちは悔しがったはずだ。新見さんは、彼氏をアクセサリーのように考える女の子ではないだろうけど、アクセサリーにもなれないのは、惨めだ。


 椅子の下で崩れて溜っている雑誌を見れば、その表紙には金髪の男が、支配するように黒髪の女性を片手で抱き寄せ、その頭に顎を乗せている。


 世の男は、どうして女の子をこんな風に、我が物顔で扱うことができるのだろう。


 その自信はどこから来るのだろうか。


 詩乃にはわからなかった。もし自分が、作家になって、大金持ちになって――つまり、地位も財力も手に入れたら、それで自信がつくのだろうか。


 そんな事を考えている時、パソコンが、メールの受信音を発した。


 知らないアドレスからだったので、詩乃は最初、それがまた何かの広告メールかと思った。


 ところが文面を見て、詩乃の思考は一瞬停止した。


 そのメールは、詩乃がこの夏応募した短編が、懸賞に選ばれたのを知らせるものだった。欅社の主催する〈欅社児童ミステリー短編賞〉に、詩乃の出した〈灰色のラブレター〉が選ばれたのだ。

詩乃は思わず立ち上がった。


 立ち上がって、二度、三度とメールを読んだ。出版社――欅社の文芸編集部からのメールである。メールには編集者からの挨拶と受賞の知らせ、作品の丁寧な講評と、そして来年の三月末に出版する予定なので、それに向けて改稿作業を一緒にしていきたいと、そういったことが書かれてあった。


 詩乃は、部室をうろうろと歩き回り、また机の前に戻ってきて、メールを読んだ。


 文面は変わらない。


 詐欺でも、なさそうである。


「やったよ……」


 パチン、と詩乃は手を叩いた。


 それから詩乃は、机の横に置いておいたスマホを手に取った。このことを、誰かに伝えたいと思った。真っ先に思い浮かんだのは、柚子だった。新見さんは今、ダンス部の活動中である。だけど、一報だけでも、メッセージを入れておこうか。


 しかしふと、柚子へのメッセージを打ち込もうとした詩乃は、指を止めた。


 喜んでくれる新見さんの顔は見たいけれど、でも自分は――ちょっと懸賞に選ばれたからといって、それで何が変わるのだろうか。懸賞なんて、他人の評価だ。他人に評価されて、そのことでもし新見さんが自分の事を惚れ直すだとか、見直すだとか、そういう思いを抱くのだとすれば、それは何か嫌だ。


 詩乃は机の脇にスマホを置いて、頬杖を突いた。


 新見さんが自分なんかを好きだという理由を知りたいと思うのに、それよりもはるかに強く、理由なく自分を好きでいてくれることを望んでいる。それも、誰かに影響された価値観からの好きではなく、新見さんだけの感性に従った好きを求めている。


 詩乃は首を振って、PCモニターに向かい合った。


 とりあえず、欅社に受賞の知らせが届いたことの確認として、メールを返さなければならない。本名と住所と電話番号を返信文に入れて送信する。


 それから詩乃は、メールソフトを一旦閉じて、ワープロソフトを画面に表示させた。


 新見さんには、受賞の事は黙っていようと詩乃は決めた。込み上げてくる受賞の嬉しさは、まだ未完の短編二編を書き上げる「薪」にする。


 賞にも選ばれ、その上、クリスマスの部誌もしっかり完成させれば、少しは自分も、新見さんに恥をかかせないくらいの彼氏にはなれるのではないか。そういう自信を持てるのではないかと、詩乃はそう考えた。


 頭の中で文章を考え、出来上がった文章を一気にキーボードでワープロソフトの文面に落とす。その作業を、詩乃は学校の閉門時間ギリギリまで続けた。






 十一月の第二日曜日、吉祥寺駅の北口に紗枝はいた。


 柚子と千代と、二人と待ち合わせをしている。待ち合わせの時間には、まだ少し早い。


「ううっ、寒っ……」


 紗枝は北風に吹かれて呟いた。


 この週は日ごとに急に寒くなり始めて、日曜日の今日は、曇り空に北風も加わって、本格的な冬の始まりが骨身に沁みる。


 改札から駅を出てゆく人たちも、通り抜ける北風に肩をすぼめている。


 しかし皆、ただ寒さに体を丸くしているわけではなく、その丸めた体の懐に、うきうきとした気持ちを隠しているようだった。サンロードの商店街も、今はコロナ危機前の活気を取り戻しつつある。


 紗枝は、視界の片隅に柚子を発見した。


 柚子を見つけるのは、紗枝には容易かった。見慣れている、というのもあるが、人込みに居ても、柚子の存在感と言うのは、一つ際立ったものがある。小顔で、手足はすらりと伸び(本人は太腿の太さを気にしているが)、お尻や胸はちょうど良い、綺麗な曲線を作っている。その体のバランスは、「素人」とは思えない。実際、二人で原宿に行った時には、芸能事務所のスカウトがひっきりなしに柚子に寄ってきて、通りを抜けるだけで一苦労だった。


 その柚子は今、駅前をうろうろ、きょろきょろしている。


 紗枝は、そんな柚子を遠目に見ながら、思わず笑ってしまうのだった。一人だと、危なっかしくて見ていられない。スカウトの名刺や、ティッシュ配りのティッシュを、いつも律義に受け取るような子である。


 紗枝は、柚子の背後に回り込み、その背中を叩いて声をかけた。


「柚子」


 柚子はびくっと驚いて、振り向いた。


 それが紗枝だとわかると、柚子は表情を緩めた。


 紗枝の服装は、落ち着いたさくら色のダッフルコートに、上品なフレアの黒いスカート。赤手袋に、ふかふかした白いファーマフラーをつけている。紗枝の外見と相まって、小動物のような可愛さがある。スカートは、始めて見るものだ。裾が微かに透けている。


「紗枝ちゃん、可愛い!」


 柚子に言われて、紗枝は微かに頬を染めた。


 一方の柚子は、ミルクティー色のトレンチコートに身を包んでいる。柚子が着ると何でも様になるが、そのコートは、一目で上質なものだと、紗枝の目にもわかった。初めて見るコートである。下は黒のガウチョパンツに、ショートブーツ。


 柚子は、姉の仕事の関係から、服はたくさん貰って持っている。それも、高校生ではとても手が出せないようなブランドのものを。今日は手袋をしていないが、去年、学校にプラダのレザー手袋をつけて来て、皆を驚かせたことがあった。きっとこのコートも、姉のお下がりだろうと紗枝は踏んだ。


「また柚子、良いコート着てるねぇ。お姉ちゃん?」


「ううん」


 と、柚子は嬉しそうに首を振った。


「え、買ったの!?」


「うん」


「柚子が? 自分で?」


 はにかみ笑顔で答える柚子。


 そこへ、二人の後ろから、もう一人の女の子がやってきた。大人しい――というよりは、地味な衣装に身を包んだ女子高生――雨森千代。


「ごめんごめん、お待たせ―」


 二人は千代に視線を向けた。その装いに、紗枝は目を真ん丸にして驚き、柚子は笑った。

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