第42話 うさぎの瞳(4)

「――おぅ、柚子!」


 二人が振り返ると、そこには、川野がいた。川野も、ちょうど荷運びの手伝いを終えたところだった。


「片付け終わったんだけど、一緒に後夜祭行かねぇ?」


 川野は、詩乃の存在をわざと無視するようにして、柚子に話しかけた。


「で、一緒に踊ろうぜ。昼間、俺誘ったじゃん」


「う、うん……」


 曖昧に答える柚子。


 詩乃は、自分の右側にいる柚子の様子を、ちらりと横目で見やった。伏し目がちに、頬には、無理矢理な笑顔を張り付けている。詩乃は、そんな柚子の様子を見て、川野に腹が立ってきた。明らかに新見さんは無理をしているのに、なんでお前は、それがわからないんだと思った。


「じゃあ俺中庭にいるからさ――」


 川野が話を進める。


 柚子は、詩乃を見つめた。一瞬、詩乃と柚子の目が合った。しかしそれはただ一瞬のことで、詩乃はすぐに、柚子から目を逸らせた。柚子は、突き放されたように思って、立ちすくんだ。一瞬で、立っている脚の感覚も失ってしまったようだった。


 ところが、詩乃は、柚子を突き放したわけではなかった。


 川野に向かって言った。


「新見さん、用事あるからダメだよ」


 川野は言葉を止め、舌打ちをして、面倒くさそうに詩乃を睨んだ。


「俺、柚子と話してるんだけど」


「だから、その新見さんは、ダメなんだって」


「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねーの? 何、柚子誘うのにお前の許可がいるわけ?」


 柚子、柚子ってうるせぇなと、詩乃は思った。そっちがその気なら、お前のその土俵で戦ってやると、詩乃も闘志を剥きだす覚悟を決めた。


「柚子は俺と用事があるんだよ」


 はっきりと、もはや聞き間違いを疑うこともできない声量で詩乃が言った。


 この言葉には、柚子も、川野も驚いた。


 川野は驚きすぎて、「は、はぁ?」としか反応できなかった。


「そんなん、何も聞いてねーし! お前、柚子と付き合ってるわけでもねぇんだろ!」


「なんでお前の許可がいるんだよ。柚子は俺のだから、お前もう近づくなよ」


「は、はぁ!? お前のって、どういうことだよ!」


 ここで勝負をつけようと、詩乃は決心した。


 最後の一撃は、致命的でないといけない。


 よし、と詩乃はこれまでの人生で一番大きな勇気を、体の奥から絞り出した。詩乃は、右隣にいる柚子の肩に手を回し、反転させながら抱き寄せた。詩乃の言葉にぼんやりしていた柚子は、突然抱き寄せられ、バランスを崩した。咄嗟に、詩乃の身体に、ぎゅっと両手で抱きすがった。詩乃は、左手で柚子のうなじのあたりを支えて、さらに少し、自分の鼻先に柚子の顔を引き寄せた。


 ――エスキモーキス。


 しかしそれは、川野から見ると、完全に、ディープキスに見えた。


 一秒、二秒、三秒――たっぷり十秒ほど、詩乃はそうしていた。このまま本当にキスしたいと詩乃は思ったが、それはさすがにやめようと踏みとどまった。まだ何とか、理性は保てている。


 詩乃はそれから、一旦抱きしめる力を緩めて、柚子の身体を安定させてやる。エスキモーキスをしている間、それこそ柚子は、社交ダンスの何かの技のような態勢でいたのだ。詩乃はそれから、もう一度、今度は正面から柚子を抱き寄せた。そしてその肩越しに川野を睨み据えた。


 川野は、流石に何も言わず、その場を立ち去ってどこかに行ってしまった。


 それを見届けて、詩乃は柚子を離した。


 はぁっと、詩乃は息を吐いた。ぶるぶるっと、変な震えが起こる。柚子の微かに甘い香り、肩や背中や胸の柔らかさ、そして温もり――思い出すと正気を失ってしまいそうだったので、詩乃は、今のは兎を抱いたのだ、ということにして忘れることにした。


 柚子は、とろんとした目で、詩乃を見上げていた。


 今の出来事を放り出して自分の理性を守った詩乃に対して、柚子は、しっかりオーバーヒートしていた。


「い、行こうか、新見さん」


「……」


 こくんと、柚子は頷いた。


 二人は二年A組に戻った。二人が戻った時には、すでに教室の片付けは終わっていた。教室の片隅には柚子の荷物――今日のステージで使った二セット分の衣装を入れたトートバックが置かれていた。柚子はそれを手に持ち、教室を後にした。二人はまた一階に戻り、下駄箱に向かった。


 後夜祭の始まりを告げる放送が流れてきた。


 しかし詩乃は、今は後夜祭どころではなかった。無言で隣を歩く柚子。詩乃は、柚子が何を思っているのかわからず、気が気ではなかった。やっぱり自分は、とんでもないことをしてしまったのではないだろうか。突然呼び捨てにされて、抱きしめられて、しかも、鼻までくっつけられて……いくら優しい新見さんだって、怒っているに違いない。


 下駄箱で、二人は靴を履き替えた。


 詩乃は柚子よりも早く靴を履き替え、柚子のトートバックを持って、柚子が靴を履くのを待った。手錠をされているかのように両手首をくっつけ、バックを持っている。詩乃の気持ちは、すっかり容疑者のそれだった。判決を言い渡される前のような神妙さで、体を強張らせている。


 いいよ、自分で持つよ――という柚子の言葉には、ぶんぶんと首を振って応じ、二人で校舎を出た。


 後夜祭に向かう生徒たちは、浮かれた様子で校庭に向かって走っていく。


 詩乃と柚子は、言葉を交わすこともなく、無言のまま正門に向かって歩いた。ML棟の「逆L字」の付け根の部分を曲がると、道は二つに分かれる。そのまま真っすぐグランドに行く道と、グランドを右手に正門に行く道。そこで詩乃は立ち止まった。


 グランドを見ながら、詩乃は言った。


「新見さん、後夜祭、出るんだっけ」


「水上君は?」


「出ないよ。帰るよ。疲れたし、お腹空いたし……」


 柚子は、自然と、詩乃のコートの右腕の袖をちょこんと掴んでいた。


「一緒にご飯、食べようよ」


「……いいの?」


「うん」


 詩乃は、自分の顔がかあっと熱を持つのを自覚した。首筋まで熱い。


「じゃあ、行こうか」


「うん! 行こう!」


 グランドを右手に、正面玄関時計塔を横切り、正門を出る。後夜祭に向かう生徒は、正門から出ていく生徒のことを気にも留めない。柚子は、林間学校のあの時――詩乃と一緒に森の中でカレーを食べた時のことを思い出していた。人知れず学校を離れるその感じが、あの時とそっくりだった。そして次に、詩乃の家に行った時。あの時も、似たような感覚があった。


「水上君何食べる? お腹空いてるでしょ? 私ホントに何でもいいよ! ラーメンとか、吉野家とか!」


「もうちょっといいもの食べようよ」


 詩乃は笑いながら言った。


 詩乃が笑うと柚子も嬉しくなって、気づくと笑顔になっていた。


「新見さん、何食べたい?」


「え、新見〈さん〉じゃないでしょ」


「……あれはさぁ」


 勘弁してよと、詩乃は思った。詩乃は、ついさっきのあのことは、封印どころか、あの場に放り捨てて無かったことにしたかった。川野を諦めさせるためとはいえ、恥ずかしすぎる。


「ねぇねぇ、もう一回呼んでよ」


「勘弁してください……」


「一回だけでいいから!」


「ゆ、柚子、さん……」


 ぶふっと、柚子は笑ってしまった。名前を呼ばれて恥ずかしいのと、恥ずかしがる詩乃への愛おしさのダブルパンチで、柚子は思わず両手で口元を隠した。


「――で、新見さん、何か食べたいのある?」


「何でもいいよ。だって私、水上君の〈モノ〉なんだから、どこでもついてくよ」


 詩乃は、自分の頬を両手でぐりぐりと揉み解した。


 けらけらと、詩乃が動揺するのを見て柚子は笑った。


 二人はそのまま、何となく歩いて、駅までやってきた。バスターミナルを横切った先、駅の東口階段の前には、歪んだ「I」字のオブジェや花壇、街灯を数本備えた小さな空間がある。二人はそのちょっとしたスペースの石のベンチに、どちらともなく腰を下ろした。


 冷たい秋の夜風は、二人にはかえって、体の熱さを感じさせた。


 横断歩道の前で止まっているタクシー、ターミナルをぐるりと回るバス、石畳を歩く歩行者のコツコツという靴の音、微かに聞こえてくる駅のアナウンス。何てことのない夜の駅の光景を味わうように確認してから、柚子は詩乃に言った。


「水上君、さっきのあれ、もう一回やって」


「……あれって?」


 詩乃は、冷や汗を流しながら聞き返した。


「鼻と鼻で」


「……嫌じゃなかったの?」


 柚子は、はにかむように笑いながら、その顔を、少しずつ詩乃に近づけた。


「嫌じゃなかった」


 詩乃は、思わず息を止めた。


 本当に、近くで見ても綺麗だなぁと、詩乃はつくづく感心してしまった。


「じゃあ……」


 詩乃も、少し柚子に顔を近づけた。


 二人の鼻先が、ちょこんと触れる。


「手は?」


「……」


 至近距離で、見つめられたままそう言われて、詩乃は従うより他なかった。柚子の頭の後ろに右手を添えて、それだけだとバランスが悪いので、左腕を肩から背中に回す。その柔らかさと軽さに、詩乃はおののいてしまう。乱暴にしたら絶対に壊れてしまうと思った。


「もうちょっとぎゅって」


 言われるがまま、詩乃は、少しだけ柚子を抱き寄せた。


 柚子の鼻先が、詩乃の唇の上に触れる。


 ふふっと、柚子はいたずらっ子のような含みのある笑みを浮かべた。まつ毛が触れ合うような距離で見つめ合う。柚子の目が、だんだんと微睡んでくる。


 詩乃は、静かに柚子の唇に、自分の唇を近づけた。


 柚子は待ちきれず、はむっと、詩乃の唇を奪った。


 二人は、甘噛みのような口づけを交わした。

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