第41話 うさぎの瞳(3)
「柚子、今フリーだから、狙い目だよ」
いたずらっぽく、紗枝はそう言った。
「たぶん、すごい倍率だよね。昼も男子といたし」
へぇ、そんな軽い返しもできるのかと、紗枝は感心してしまった。
「あいつでしょ、川野。あれはね、完全な片思いだから、数に入れない方がいいよ」
詩乃は小さな声を出して笑った。
柚子の事になると、水上でもこんなに笑うんだなと、紗枝は少し驚いた。そして、やっぱり水上は、柚子の事が好きなんだなと確信した。
「ダンス、誘ってみたら?」
「後夜祭?」
「そうそう。埋まっちゃうよ、柚子、人気なんだから」
詩乃は曖昧に笑って、答えるのを避けた。新見さんが他の男と踊る、というのは、あまり想像したくはない。けれど、折角あの噂――新見さんが自分を看病したというあの話が消えてきたのに、ダンスなんて踊ってしまったら、噂が再燃して、新見さんが生活しづらくなってしまう。
「た、ただいまぁー……」
そこへ、悠里が戻ってきた。
悠里はあの後、柚子に付き添われて保健室に行き、手当てを受けた。詩乃の見立て通り軽いやけどだったので、軟膏と包帯だけの簡単な処置で済んだ。その後は、女子サッカー部の友達と合流する予定の時間になっていたので、悠里は教室には戻らず、そのまま友達と合流し、体育館の発表を観に行った。体育館の有志団体の発表には、柚子もワンステージ出ていて、悠里はそのステージもしっかり見届けてから、二年A組の教室に戻ってきた。
「ごめんね、こんな火傷で抜けちゃって……」
詩乃はそう言う悠里をちらりと見やった。制服の袖口から見える手の包帯。
「大丈夫だよ。お客さんも減って来たし、そのまま今日は上がりでいいから」
「いや! 片付けはするよ!」
悠里は、特にそれ以上の反応を示さない詩乃を少し観察してから、言った。
「お詫びに飲み物買ってくるよ――六人分ね。あ、っと……紗枝ちゃん、六本持ちきれないから、手伝ってもらってもいい?」
悠里の意味ありげな目くばせを受けて、紗枝は「いいよ」と軽く応じた。
悠里と紗枝は、二人廊下を歩き、やがて悠里が言った。
「あ、あのさ、紗枝ちゃん」
「うん、どうしたの?」
「勘違いだったら、恥ずかしいから聞き流してほしいんだけど――」
「うん」
「新見さんってさ……もしかして、ええと――水上君のこと、好きだったり、するの、かな?」
そう言われて、紗枝はどう答えたものかと考えた。
「何か、あったの?」
「新見さん、水上君のこと、なんか、見てるなって思って。それに、私全然そんな気ないんだけど、水上君と話してるとき、新見さん、目がさ、怖いっていうか、悲しそうっていうか、なんか、違うんだよね。紗枝ちゃん、何か知ってる? 私何か、嫌われることしたのかな……」
これは隠し通せないなと、紗枝は思った。
隠せないなら、味方につけるしかない。
「美人の真顔って怖いんだよね」
「そうそう!」
紗枝の意見に悠里が激しく同意する。
「もう私、心臓止まるかと思ったよ、今日、水上君に火傷の手当てしてもらってるとき新見さん来てさ……怖かったぁ……」
「よしよし」
と、紗枝は悠里の頭を撫でる。
「柚子、恋愛初心者だから、わかりやすいんだよね」
「え、じゃあ、ホントにそうなの!? 水上君なの!?」
「ここだけの話ね。皆、意外過ぎて気づいてないけど」
悠里は、口元に手を当てて、ぴょんぴょん飛び跳ね、大興奮である。
「まぁ、ちょっと見守ってあげてよ。騒がれると多分、上手くいかない感じあるから」
うんうん、と悠里は顔を赤らめて頷いた。
夕方の四時、体育館では、文化祭を締めくくるコラボレーションステージが始まった。部の垣根を取っ払って行われる、文化祭の名物の一つである。校舎の模擬店の方は、この時間になると材料がなくなったり、商品がなくなったりして店仕舞いを始める。二年A組のたこ焼き屋も、具材のたこが切れたので、詩乃の判断で店を閉めることにした。
入口の看板を教室に入れて、暖簾を下げる。たこ焼きプレートの油をふき取り、調理用具の片付けを始める。手も顔も、油でべとべとな気持ち悪さを感じながら、床に散らばった揚げ玉や長ネギを集めて捨てる。教室には詩乃の他にも二人ほど残っていて、片付けをする詩乃を手伝った。掃除をしながら、詩乃は、部誌の販売棚を見やった。大量に――五十冊ほど、売れ残っている。百五十部は作りすぎたようだと、詩乃は少し恥ずかしくなってしまった。
詩乃は、部誌の残りとコインケースを段ボールにしまい、部誌売り場の看板などを乱暴に撤去した。やがて日も暮れてゆき、〈蛍の光〉がスピーカーから流れ始めた。
お疲れー、などと言いながら、クラスメイトが教室に戻ってきた。この後はグランドで後夜祭があるので、片付けは捗った。お化け屋敷などとは違い、たこ焼き屋の内装はさほど大掛かりなものではない。五時半過ぎには座席も元に戻すことができた。教室の後ろにはダンボールを中心としたゴミが集められた。
柚子が二年A組の教室に戻ってきたのは、五時半頃だった。柚子はコラボレーションステージに出ていたので、ステージの後は制服に着替えたり、ダンス部で使ったものなどを片付けたりと、仕事に追われた。ダンス部の部員としての最低限の仕事が済んでから、柚子は小走りで教室に戻った。上気した頬、息を弾ませて教室にやってきた柚子は、片付けをするクラスメイトの中に詩乃の姿を確認して、ほうっと息をついた。もし教室にいなければ、電話をしようと思っていたのだ。柚子は、詩乃を後夜祭のダンスに誘おうと決心していた。
しかし、いざ誘おうと思うと、どうしても、声をかけることができない。いつもなら、相手が詩乃でなければ、同級生に話しかけるくらい、柚子にとっては簡単なことだった。しかし今、柚子は教室の細かい部分の掃除をする振りをしながら、詩乃を盗み見ることしかできなかった。どうにも、タイミングがつかめない。タイミングを見つけよう、見つけようと思えば思うほど、緊張して、声が出せなくなってくる。
そんな柚子の様子を、悠里は片付けをしながらしっかり見ていた。新見さん、本当に水上君の事好きなんだ、と悠里は一人わくわくしてしまうのだった。一方の詩乃は、部誌を詰め込んだ段ボールを抱えようとしてよろめき、失敗している。それを見た悠里は、良いことを思いついた。
「新見さん、文芸部の段ボール、水上君と運んでもらっていい? なんかいろいろ残ってると、先生に小言言われたりするから、ちょっと、重いかもしれないんだけど――」
悠里が言うと。柚子はその言葉に、即答で食いついた。
「うん、わかった! やるやる!」
柚子は教室の隅っこからとととっと詩乃のもとに駆け寄ると、段ボールの片側の底を両手で支えた。詩乃は、柚子がかかんだ瞬間に、スカートがふわっと持ち上がったのを見て、それだけで緊張してしまった。目のやり場に困ってしまう。
「……そんなに重くないから、大丈夫だよ」
「迷惑?」
「助かるけど……」
「じゃあ、一緒に行こ」
柚子はそう言って、詩乃に笑顔を向ける。
詩乃は柚子の可愛さにくらくらしながら、せーのと、小さな掛け声をかけて、立ち上がった。二人で段ボールを持って、階段を降り、渡り廊下を通って、CL棟に向かった。文庫本サイズの部誌が五十冊ほどと、百冊の売上である百円硬貨がおよそ二百枚。しかし二人で持つと、確かに随分軽いなと詩乃は思った。
CL棟も、いつもよりは人の出入りがあった。ファッション部や書道部、美術部など、いわゆる文科系の部活も展示会やパフォーマンスを行っていたので、その荷物を片付けているところだった。そんな生徒たちにまじって二人はCL棟に入り、昇降口を右に曲がり、一番奥の部屋――文芸部の部室にやってきた。
扉を開け、詩乃から真っ暗な部屋に入ると、電気をつけた。パチンと、音が鳴って、ぱっと部屋が明るくなる。
柚子にとっては、久しぶりの文芸部だった。前に来た時よりも、パソコンの机周りが、随分散らかっている。そして何より驚いたのは、床に放り出された寝袋の存在だった。
「いいよ、下ろして」
詩乃の指示で、柚子は腰を下ろした。段ボールを置いた後、詩乃は立ち上がって、足でげしげしと、段ボールを部屋の隅っこに押しやった。なんて乱暴なことを、と柚子は、詩乃の意外な一面を見たような気がして、笑ってしまった。
「なんか、すごく久しぶりに来たなぁ」
「うん」
言われてみればそうだなぁと、詩乃も思った。
「水上君、〈たこ焼きリーダー〉お疲れ様」
「うん。……今朝、寝坊しちゃったんだけどね」
「そうなの? その寝袋は?」
「昨日泊まったんだよ」
「ここに!?」
「うん」
ええっと、柚子は驚いてしまう。昨日は、詩乃が教室にいないのを見て、もう帰ったのかと決めつけていた柚子だった。まさか学校に泊まっているとは思っていなかった。簡単にあきらめないで部室を確認すればよかったと、柚子は昨日の自分を恨んだ。
詩乃は、部室を見回した。
何か、新見さんを楽しませられるものはないだろうかと詩乃は探したが、本が増えたくらいで、特に何があるわけでもなかった。しかし、そこでふと、受賞のことを思い出した。自分が、〈ドキドキ学園ミステリー賞〉を取ったと知ったら、新見さんは喜んでくれるだろうか? それとも、興味が無いだろうか。
「水上君、後夜祭出る?」
「後夜祭? あー……」
詩乃は、今日紗枝に言われた言葉を思い出した。『ダンス、誘ってみたら?』。たぶん、誘ったら新見さんはOKをしてくれるだろう。それが、本心からだろうと、同情的な優しさからだろうと、誘えば応じてくれるに違いない。でも今は、たぶん新見さんは、本当は自分と踊りたくないはずだ。自分との関係を騒ぎ立てられたくない、という気持ちはよくわかる。この一か月、その態度はかなり徹底していた。ちょっと、寂しくなるくらいに……。
「あのね、水上君。もし先客がいなければでいいんだけど……」
そこまで言って、柚子は一旦言葉を納める。
おや、と詩乃は思った。最後まで言われなくても、柚子が自分に何を言おうとしているのか、それがわからないほど詩乃も鈍感ではない。だから余計に、驚いたのだ。
「新見さんは、先客いないの?」
「私!? 私は、うん、いないよ」
実際には、柚子はたくさんの誘いを受けていた。女友達、男友達、先輩からも、後輩からも。その中には、川野もいて、また、川野の他にも、柚子を狙っている男も多かった。ベタな話ではあるが、茶ノ原高校の文化祭にも、後夜祭のダンスに纏わるジンクスがあるのだ。
「――でも新見さん、噂の事気にしてるでしょ?」
「え?」
「看病してくれたこと。色々、からかわれたんじゃない?」
柚子は口を噤んだ。
それから、数回の呼吸を置いてから柚子は、詩乃に優しく投げかけた。
「ごめんね、水上君に迷惑かけちゃって……」
柚子は、すがるような気持ちだった。
「迷惑じゃない」と一言でも言ってもらえたらまだ脈はある。でももし、そういうのが何もなかったら――つまりそれは「迷惑だった」ということで、それが何を意味しているかと言えば、つながるのは詩乃の『好きって感情は持ってないよ』の言葉である。
水上君、私のことどう思ってるの。好き? 嫌い? 一緒にいても大丈夫なの? それとも、迷惑? ――そんな気持ちを、目に乗せる。
その訴えかける瞳の魅力と威力に、詩乃はたじろいでしまった。
柚子の質問については、『迷惑じゃなかった』と詩乃は心の中で即答していた。しかし、そういうことは、口に出すと、わざとらしくなって嫌だと詩乃は思っていた。何か、代わりになる言葉を探さなければと、考える。
柚子は、今度こそダメだと思った。
即答しないということは、やっぱり迷惑だった、ということだ。この沈黙は、私に気を使って、言葉を探しているためにできた沈黙だ。やっぱり、水上君は、私のことを好きじゃない。好きじゃないんだ。
「み、水上君、疲れてるよね!? たこ焼き、今日も朝から頑張ってくれたんでしょ?」
「自分でやるって、約束したことだからね」
「でも本当に助かったよ、ありがとね。水上君いなかったらたこ焼き屋、成功してなかったと思うよ」
「いやまぁ……いなきゃいないなりに何とかなったのかもしれないけどね」
「でも助かったよー」
にこにこと、笑顔でそう言う柚子。
明るく、笑顔でいないと、泣いてしまいそうだった。この恋を――詩乃を諦めなくてはならないということが、柚子には、どうしょうもなく悲しかった。でも今泣いてしまったらいけない。落ち込んだ顔を見せてしまったら、きっと水上君は心配してくれる。何かと、慰めてくれると思う。でも、それが一番つらい。きっと、「慰めないで」とか、そんなきつい言葉を水上君に投げつけてしまう。そんな嫌な自分を、水上君には絶対に見せたくない。
「部誌も、結構売れたよね」
「うーん……五十冊くらい余ったけどね」
「でもすごいよ、百冊も売ったんでしょ?」
「どうかなぁ、普通どれくらい売れるものなのかわからないから何とも……これどうやって処分しようかな」
「捨てちゃうの?」
「そりゃあ、ねぇ」
「もったいないよ! 買うよ、私が!」
詩乃は驚いて、そして声を上げて笑った。
「そんな五十冊も、いらないよ!」
「でも、捨てるのはもったいないよ。学校で配るとか、何とかしようよ」
「あぁ、うん、そうだね」
新見さんは本当に優しいなぁと、詩乃は改めて思った。
詩乃は、デスクチェアーにかけていたコートを羽織った。電気を消して、二人で部室を出る。扉に鍵をかけて、並んで廊下を歩いた。
「新見さんは、後夜祭出るの?」
「うん。水上君は?」
「――お腹空いたから、何か食べに行くかな」
「水上君さ、まさかと思うけど……ご飯、食べてない?」
「そうなんだよね。自分もさっき気づいたよ。今日何も食べてない」
「ダメだよ食べなきゃ!」
そんな会話をしながら、CL棟を出る。もう外はすっかり暗く、近くを歩く生徒の顔もよくわからない。CL棟の昇降口や窓から漏れる明かりは小さく、十メートルもない渡り廊下は、真上からのLED照明の白い光に照らされていて、柚子は、ファッションショーのランウェイを思い出した。
その渡り廊下を、渡り切ろうか切るまいかという時、後ろから二人を呼び止める声があった。
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