第32話 三歩進んで(3)
週明けの月曜日、放課後。
詩乃は文化祭実行委員の悠里を連れて調理室にやってきていた。調理室には料理部の部員たちがいる。文化祭は、料理部にとってもアピールの場だ。毎年店を二つか三つ出している。今年は三つの店の出店が決まっていて、料理部の面々は、店で出す創作料理を目下研究中だった。
そんな調理室に詩乃がやってきた理由は、たこ焼きの作り方を悠里に教えるためだった。土日を使って、詩乃はたこ焼きばかり作っていた。部誌も作り終えた今、詩乃の新たな興味は、たこ焼き作りになっていた。そのうちこれが小説の役に立つこともあるだろう、という考えも少しはあったが、実際には、たこ焼き作りが楽しくなってしまっただけだった。
小麦粉、水、卵を一定の割合でボールに入れて、混ぜ合わせる。たこ焼きプレートに油を敷き、温める。出来上がった生地をプレートの穴に入れ、チーズ、揚げ玉を生地の中に落とす。そうして再び、プレートがすっかり隠れるくらいたっぷりと、生地を流し込む。ふつふつと生地から泡が出てきて、固まり始めるのを待ってから、二本の千本通しで、くるん、くるんとたこ焼きを回転させながら丸い形に成形してゆく。
そうして出来上がったたこ焼きは二十個。
悠里は、詩乃の手際にすっかり感心してしまった。たこ焼き屋のような千本通し捌きだった。とても素人とは思えない。美味しそうなたこ焼きの匂いに、料理部の部員も顔を上げる。
「水上君、実家たこ焼き屋さん……?」
「全然」
「いや、素人じゃないでしょ……」
「土日練習してたから」
やっぱりこの人はちょっと変だと悠里は思った。しかしその「変」も、今回は役に立ちそうなので、前向きにとらえられる。たこ焼きも、しっかり美味しい。熱々で、ほんのり甘さがあり、タコの代わりに入っているチーズの風味が鼻に抜ける。
「うん、たこ焼きだ。美味しい」
形も綺麗だし、申し分ないと悠里は思った。
二つ目のたこ焼きを口に入れ、ほふほふと口の中で転がして冷ます。
そんな二人の様子を、紗枝は野菜の下ごしらえをしながら見ていた。別に、水上が誰と話そうと勝手だし、悠里だってそうだ。文化祭のために頑張っているのはわかる。しかし紗枝は、柚子のことを思うと、どうにも詩乃に一言言ってやりたかった。
『水上君、私の事好きじゃないって……』
『告白したの?』
『ううん。川野君と話しているのを聞いたの』
『それたぶん、何かの間違いじゃないの?』
そんな話を柚子としたのが一昨日の土曜日。気休めではなく、たぶん、何かの間違いだと紗枝は本当に思っていた。売り言葉に買い言葉ではないが、つっかかってきた川野を相手にする中で、心にもないことを言ったのだろう。でなければ、本当に最初から柚子に好意は無かったということになるが、それはかなり考えにくい。たぶん、水上はしっかり柚子の事が好きだ。
でもそれならもう少し、柚子の気持ちに配慮しなさいよ、と思ってしまう。文化祭の仕事を悠里と二人で進めるのは構わない。それ自体は、クラスのために頑張ってくれていて、偉いと思う。だけど、こうして悠里と二人でいて、たこ焼きを作ってあげたりしていることに、少しは柚子に対する後ろめたさを感じていてほしいと思ってしまう。当たり前のように、のうのうと、他人の気も――柚子の気も知らないで。
紗枝は、人参をいちょう切りにする作業を終わらせたタイミングで、包丁を置き、二人に声をかけた。
「私も一口貰っていい?」
「いいよ」
詩乃は、特に断る理由もないのでそう答え、椅子に座った。
「しっかり美味しいよ」
悠里は、紗枝に爪楊枝を差し出しながら言った。紗枝はそれを受け取り、ぱくりと一口やる。熱々のたこ焼きが、紗枝の口の中で踊った。
「あっふ、あっふ!」
詩乃への腹立ちまぎれに、冷ましもせずに口に放り込んだせいで泣きを見る紗枝だった。口の中でたこ焼きを転がして冷ましながら、やっとの思いで食べ切る。
「ふー……――うん、確かに、美味しい」
「ね、水上君にこんな特技があるとは、知らなかった」
紗枝がたこ焼きの感想を述べ、悠里も相槌を打ちながら言う。詩乃は、特に照れるでもなく、笑顔を見せるでもなく、腕を組み、ぼーっとたこ焼きプレートを眺めている。
「私知ってたよ。水上、料理得意なの」
紗枝が言った。当然、悠里が食いつく。
「え、そうなの!?」
「うん、柚子が言ってたんだよね」
柚子、という単語に詩乃は反応し、紗枝の顔を見上げる。
「あぁ、そういえば、水上君って、新見さんと仲良いんだっけ?」
悠里が、どちらにともなく投げかける。
詩乃は眉間にしわを寄せる。
「水上、柚子に看病してもらったんでしょ?」
紗枝が、詩乃に対してそう聞いた。その尋問のような言葉の強さに、詩乃は唇をきゅっと結び、眉をひそめて紗枝を見やった。
「それ、やっぱり本当だったんだ?」
悠里も、詩乃の口から答えを催促するように言った。
詩乃はため息をつき、目を閉じて下を向いた。
「水上君? 具合でも悪いの?」
悠里にそう聞かれて、詩乃は舌打ちをしそうになった。わけのわからない質問にも腹が立ったが、それに答えようと考えているのに答えを急かされる。詩乃にとっては、これは、喧嘩を売られているのに等しかった。
「早くやることやろう。油敷いて――」
「え、看病の話は!?」
信じられない話題の逸らされ方をしたので、悠里は驚いてしまう。
「柚子に持ってってあげたら? たこ焼き。看病のお礼、したら?」
紗枝が言った。
「そうだね」
吐き捨てるように詩乃が応える。
紗枝は、詩乃のその態度が気に入らなかった。
「ちゃんとお礼したの?」
紗枝の鋭い口調に、詩乃ではなく悠里のほうがドキりとしてしまう。悠里は、これまでにも何度か、紗枝がクラスの男子を叱っているところを見てはいた。大抵は、その半分か、少なくとも二割程度は、冗談のような成分を含んだ叱り方である。叱られる側の逃げ道をしっかり用意してあげているんだなと、悠里はいつも感心していた。しかし今、水上君に向けている叱り方は、いつもと違う。それを悠里は、紗枝の一言の中に感じ取った。
「それは、放っておいてよ」
詩乃は、感情を抑えて、静かに答えた。
「水上ってさ、挨拶もそうだけど、そういうのちゃんとした方がいいよ」
アドバイス、というよりはお説教の口調で紗枝が言う。
詩乃は、鳥が毛を逆立てる時の様にすうっと大きく息を吸い込んだ。余計なお世話だ、どんな権利があってそんなことを、俺の何を知ってるんだ、勝手にそっちの常識を押し付けるな――色々な言葉がどっと心から噴出して、詩乃は、それを喉の所で止めた。そのどれか一つでも、言ってしまえば喧嘩になるのは目に見えていた。相手が川野みたいなのだったらそれでも良いが、詩乃も、紗枝が柚子の友人であることを知っている。しかもただの友人ではなく、かなり深い関係の友達だと。だから、ここで多田さんと言い争ったら、きっと新見さんは悲しむに違いない――詩乃はそう思い、ぱんぱんに膨らんでいた堪忍袋を、胸の内で静かに緩め解き、ため息とともに、萎ませていった。
「気を付けるよ。――近藤さん、始めよう」
詩乃はそう言うと、油のボトルを悠里の前に置いた。紗枝は、まだ言いたいことが山ほどあったが、暖簾に腕押しのような詩乃の態度に半ば呆れ、そしてこれ以上何を言っても詩乃が取り合うことはないだろうと諦め、もといた調理机に戻っていった。
文化祭が迫ってくる。
ダンボール、絵具、ボンドやハサミやマジックなどの文房具が教室の後ろや隅のいたるところに置かれ、作りかけの看板やらオブジェやら、そういったものが校内のあらゆる場所に出現し始める。二年A組の教室も、すでに文化祭一色で、たこ焼き屋の飾りつけに使う赤い提灯や蛇の目傘が、すでに教室を彩り、出入り口には早々と紫の暖簾がかけられている。この時期になるとクラス間で、内装や外装での勝負が始まる。初めての文化祭で右往左往している一年生とは違い、二年生、三年生の教室棟は、すでに縁日のような色の賑わいを見せる。
十月三週目の水曜日、放課後。
二年A組のたこ焼き調理部隊十名は、昨日に引き続き、第二調理室に集まっていた。昨日は二時間かけて、〈たこ焼きリーダー〉である詩乃と文化祭実行委員の悠里を料理長にして、たこ焼き作りを練習していた。二日連続で調理室を取れたのは、A組にとって幸いだった。今日で、しっかり調理できるようになろうと皆意気込んで、下ごしらえをし始める。
生地を作り空のペットボトルに入れる作業、長ネギやタコを切り、使う材料を透明容器に入れる作業。調味料ボトルに油やマヨネーズ、ソースを移し替える作業。
ストップウォッチ片手に悠里が時間を計っている。詩乃の連日のレクチャーにより、悠里も今となっては、すっかり〈たこ焼き副リーダー〉になっていた。
各グループのたこ焼きプレートが温まり、油を敷くと、白い煙が上がりはじめる。
調理室が熱気で満たされてゆく。
「おぉ、いいねいいね、昨日より手際良いよ!」
悠里は、それぞれの調理グループを回りながら、昨日からの上達ぶりを褒めて回る。
「やっべ、生地入れすぎた!」
「あー、ネギ足りないかも!」
「一か所に落としすぎ!」
「ちょっと待って、今切るから!」
たこ焼きらしい、生地の焼けてゆく香ばしい香りと湯気の中、皆、たこ焼き作りの楽しさに目覚めて、盛り上がる。そんなクラスメイトのその様子に、部屋の片隅に座る詩乃の顔にも笑みが浮かぶ。昨日はダンス部の練習で来られなかった柚子も今日は居て、たこ焼きを作っている。柚子をはじめ、クラスの半分の生徒は、当日の多忙さから、たこ焼きの調理のシフトの中には入っていないが、柚子と他数名の生徒は、予備兵力としての責任を感じて、この会に参加している。今日はいないが、昨日は紗枝も来ていた。
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