第33話 三歩進んで(4)

 作り始めて二十分、たこ焼きが完成し始める。完成したたこ焼は蓋つきのフードパックに入れて、マヨネーズ、ソース、青のり、鰹節でトッピングする。そこまで終わってワンサイクル。役割を変えて、各グループツーサイクル目に入る。昨日来ていなかった予備兵力の生徒たちは、かなり苦労しているが、上手い生徒に教わりながら頑張っている。


 たこ焼きプレート五つ、二十分程度のワンサイクルで九十個近く出来上がるので、出来上がったそばから、クラスメイト達でばくばく食べる。それでも、フォーサイクル、ファイブサイクル目までくると、食べきれなくなってくる。材料はまだまだある、詩乃が大量に買い込んできていた。無くなったとしても、ひとっ走り駅まで行けば、地下食品売り場で安くいくらでも買える。おすそ分けを期待してやってくる生徒にも食べさせる。それでも、供給過多である。


 そろそろ頃合いかなと、詩乃は紐を通した売り歩き用の段ボールに、出来上がったたこ焼きのフードパックを入れ始めた。食いしん坊の男子も、半ばフードファイトの様を呈してきているので、詩乃がたこ焼きを持って行っても、誰も文句は言わない。持っていくのは職員室。十個二百円で売って、三十セットも売れれば材料費の元は取れる。ただ、昨日も売りに行ったので、今日は果たして買ってくれるだろうか、という不安もある。


「売り行く? 手伝おうか?」


 準備をする詩乃にそう声をかけたのは悠里だった。悠里は、たこ焼き作りを詩乃から教わる中でもうすっかり詩乃と打ち解けていた。――変な奴だけど、悪い奴じゃない。教え方も丁寧で、わかりやすい。とっつきにくいけど、実はかなり優しい男の子なのでは――というのが悠里の評である。


「近藤さんは、皆の見てあげててよ」


 詩乃は答えた。


 たこ焼き作りに関して、詩乃は悠里のことを信頼していた。最初はひどいものだったが、二度、三度と練習を重ねるうちに上達し、今や、たこ焼きプレートを前にしたときの貫禄はすっかりたこ焼き屋の女大将である。


「でも、一人じゃ大変じゃない?」


「うーん……」


 確かにそうだと詩乃も思った。


 宣伝しながら歩いて、注文をとって、お金もらって、たこ焼きを手渡して、お釣りを返して……。どれもこれも、詩乃の苦手な作業だった。まず、愛想よく売れる自信が無い。お金の受け渡しももたつきそうだ。


「私、行こうか?」


 詩乃に助け舟を出したのは、柚子だった。


 詩乃は思わず、息を呑んだ。しばらくまともに話してもいなかったから、妙に緊張してしまう。これはつまり、新見さんは、例の噂も沈静化してきた今なら、しかもたこ焼きを売るためという口実まであれば、変な勘繰りをされることもないだろう――という考えなのだろうか。


「あぁ、新見さんなら安心だね」


 悠里はそう言うと、たこ焼き作りの指導に戻った。


 柚子は、各テーブルのたこ焼きの入ったパックを集めて来て、段ボールの中に敷き詰めた。


「これくらいでいいかな?」


「うん」


 詩乃は、段ボールのひもを首に通し、両手を段ボールに添えて立ち上がる。思ったよりも重く、詩乃はよたよたと、二、三歩よろめく。


「おっ、と……」


 柚子は、よろめいた詩乃の肩を抑えて支えた。


「気を付けて」


 柚子が、詩乃に耳打ちする。


 優しくも冷たい柚子の声に、詩乃はそわそわしてしまう。


 二人は調理室を出て、廊下を、職員室へと向かって歩いた。詩乃は、柚子に何か話しかけようと思ったが、何を話しかけたらよいか、その第一声に悩んで、なかなか言葉が出てこなかった。最近寒くなって来たね、文化祭楽しみだね、ダンスの調子どう――どれでもいいけど、どれも違う気がする。


「なんか、久しぶりだね」


 柚子が、ぽつりと言った。


 秋だと、こんな一言にさえ哀愁が漂うものなのかと詩乃は思った。


「噂があったからね」


 詩乃の言葉に、柚子は頷かない。


 柚子は、何も噂があったから詩乃に近づかなかったわけではない。噂なんて、今や柚子にはどうでもよかった。


「ごめんね。やっぱり、迷惑だったよね」


 何の事だろうと詩乃は思った。〈たこ焼きリーダー〉の件だろうか。


「何の話?」


「噂の事。私が押し掛けちゃったから……」


 新見さんも変なことを言うなぁと詩乃は思うのだった。そもそも、迷惑だったら家に上げていない。というより、迷惑をかけたのは自分の方だ。あれだけ色々やってもらって、まぁ確かに、恥ずかしさはあったし、みっともない所を見られて傷ついたプライドもあったが、そんなのはこっちの問題で、新見さんが謝ることではない。


 柚子に謝られると、詩乃はかえって、自分はそんなに了見が狭い男と見られているのかと思い、落胆してしまう。詩乃が気を落としたせいで作った沈黙を、柚子は、〈肯定〉と受け取った。水上君の気持ちも知らないで、私は〈好き〉を押し付けてしまった。水上君にとっては、やっぱり迷惑だったんだ――柚子は、二人になんてならなければよかったと強く後悔した。


 わかっていた。二人になれば、水上君と話をすれば、知りたくない水上君の本心を覗いてしまうということが。だから、あの日――水上君が私に好きという感情を持っていないと聞いたあの日以来、水上君に近づけなかった。そして今、もう後戻りのできないところまで来ているというのに、核心に迫る質問を水上君にぶつけることができない。『私、水上君のことが好きなの。水上君は?』その一言が、言えない。『好きという感情は持ってない』なんて直接言われたら、立ち直れる気がしない。きっとこの場で泣き出してしまう。今だって、慎重に息をしないと、溢れてきてしまいそう。


「……万年筆、手になじんできたよ」


「え?」


「うん。ペンより使いやすい」


 詩乃が言い終えると、またそこで会話は途切れた。二人はそのまま階段を上がって職員室に行き、たこ焼きを売った。宣伝をしたり、お金の回収をするのは柚子の役割。詩乃は、たこ焼きの箱を持って、それを柚子に渡す。柚子の売り子効果は抜群で、三十箱はすぐに完売になった。そのうち十箱は校長先生の大人買いである。あとで部活が終わって戻ってくる顧問の教員や外部指導員の先生に渡す、ということだった。


 空の段ボール箱を抱えた詩乃と、ずっしり重たくなった袋を持った柚子と、二人は並んで廊下を、調理室に向かって歩いた。階段を下りるまで黙っていた柚子が、口を開いた。


「水上君、文化祭の日は、ずっとたこ焼き焼いてるんだね」


「うん。一応リーダーだからね」


 当日のたこ焼き作りのシフト表は、すでにプリントして柚子に渡してあった。次のホームルームで全体に配ることになる。二日間通して、詩乃はほとんどの時間、たこ焼きの調理シフトに入っている。


「文化祭、回れないね……」


 もう一回考え直した方がいいよと、柚子は詩乃に言いたかった。シフトを作ったのは詩乃である。他の人にはしっかり文化祭を回る時間を作っているというのに、肝心の詩乃には、その時間が無い。〈たこ焼きリーダー〉とはいえ、そこまでしなくても良いのではないかと柚子は思うのだった。


「皆ほど思い入れがあるわけじゃないから」


 詩乃はさらりと答える。


「ダンス部の発表もあるんだけどな」


 柚子がそう言った。


「また、マイケルジャクソン?」


「マイケルは一日目だけ。あとは創作ダンスと、セレモニー、軽音部のバックダンサーと……有志団体の発表でも踊るんだ」


「忙しいね」


「水上君の方が忙しいよ」


 詩乃は小さく笑った。笑い事じゃないでしょと、柚子は思う。


「文化祭回りたいって、思わないの?」


「あんまり」


「そっか……」


 たこ焼きの匂いが廊下の向こうから漂ってくる。


 もう少し新見さんと一緒にいたいなと詩乃は思っていた。しかし、噂に関して苦労をしているのは新見さんだ。自分には配慮すべき人間関係自体が無いからその苦労はわからない。


「私、川野君にね――」


 柚子がそう切り出し、詩乃は柚子の顔を見た。


「一緒に回ろうって誘われたんだ」


 詩乃は、眉間にしわを寄せ、顎に手をやった。


 柚子が、何を意図してそんなことを言うのか、詩乃にはわからなかった。わからない、というよりも、川野のうるさい顔と声を思い出したせいで、理性的な思考回路が飛んだという方が正しい。川野が新見さんに、その誘いをしたというシチュエーションがあったこと自体、腹立たしい。


「嫌なら断ればいいよ」


 むすっと、詩乃は思わず、突き放すように口調になる。


「断った方がいいかな?」


「決めるのは新見さんだから、嫌じゃなきゃ、まぁ……」


 詩乃の答えに、柚子はやきもきしてしまう。しかしそれと同時に、私は何を期待しているのだろうかとも思った。


「水上君は、どう?」


「どうって……自分は、あいつ嫌いだよ。うるさいし自分勝手だし、新見さんどういう趣味してんのって感じ」


 詩乃は、一言一言はっきりと発音して、そう言った。しかし最後の一言は口が滑ったと、詩乃は思った。


 柚子は何か反応しようと口を開いたが、言葉が出てこなかった。


 それでも何とか、震える唇から、なんとか声を出した。


「なんで……そんなこと言うの」


 柚子は、詩乃から人格を否定されたようなショックを受けていた。詩乃に非難されたことが、ただただ、悲しかった。


 詩乃は、柚子の震える小さな声に、怖気づいてしまった。今さっきまでの、攻撃的で無謀な気持ちは一瞬で萎み、心臓に冷水を流されたような心地がして身震いしてしまう。やっぱり、言わなきゃ良かったと後悔する詩乃だったが、一度口にしてしまった事だから仕方が無いと、腹をくくる。変に誤魔化すような逃げはしたくはなかった。


「言い過ぎたかもしれないけど……本心だよ。聞かれたから、本音を答えた」


 立ち止まってはいけないと、詩乃は歩きながら言った。立ち止まってしまったら、いよいよこの話が、真剣味を帯びてしまう。歩きさえしていれば、この話は、二人で歩く時間と沈黙を埋めるための軽口だったと、後で思い込むことができる。


 調理室の賑わいがはっきり聞こえてきた。


 詩乃は、この話が後を引くと嫌なので、話のケリをつけることにした。


「ごめん、忘れて。勝手な戯言だよ。新見さんは、したいようにすればいいよ」


 詩乃はそう言うと、調理室に入った。


 詩乃にとっては他意のない、会話を閉めたいだけの一言だったが、柚子にとっては、その詩乃の言葉は最後通告のような威力があった。「断った方がいいかな」なんて、なんでそんな試すようなことを言ってしまったのだろうかと、柚子はついさっきの自分を呪った。今すぐ時間を戻して、無かったことにしたい。


 そんな柚子の内心を知らない詩乃は、調理教室に入り、振り返りもしなかった。柚子はその背中に、声をかけることも、追うこともできなかった。追って行って、声をかけて、その時に言われるかもしれない決定的な拒絶の一言を聞く勇気が、柚子にはやはりなかった。


「おかえりー。おぉ! 完売!?」


 早速、悠里が返ってきた二人に声をかけた。


 さすが柚子だね、水上君もお疲れ、と皆の空気も暖かい。たこ焼き作りが上手くなってきて、皆のテンションも上がっていた。柚子が、売り上げの入った袋をテーブルに乗せると、皆はいっそう盛り上がった。その輪の中心で、柚子の心の芯は冷たく凍えていくのだった。

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