第14話 ためらう風鳥(4)

 飲み物なら校舎の中にも売っているが、すぐ戻っては意味が無いので、学校の外のコンビニに行くことにした。自転車はもちろん使わない。ゆっくり歩いたって、この学校の近くには、コンビニなんていくらでもある。


 そう考えてCL棟を出た瞬間、詩乃はうめき声をあげた。一瞬で溶けてしまうような猛暑。遠くには入道雲。部室が涼しかったために、詩乃は今日の暑さを忘れていた。太陽にさらされたヴァンパイアの気持ちに、少し共感できるような気がした。


 正門を出て、駅に向かって歩道を歩く。薄水色の空から照り付ける真夏の日差しにやられて俯くも、下からはコンクリの反射光。詩乃は目を細めながら、視線のすぐ先に必ずできている水銀のような水たまり――蜃気楼に向かって、とぼとぼ歩いた。道路を走る車の排気ガスに、青々と茂る街路樹の葉も揺れる。息を吸うのも苦しい、うだるような暑さ。気象予報士が〈危険な暑さ〉と表現するわけだと、詩乃は思った。


 交差点までやってきた。大して歩いていないのに、信号待ちが堪える。信号が青になり、ふらふらっと、そのまま駅に向かう。どこかから漂ってきた下水のような悪臭を、詩乃の鼻はカルキの匂いと都合よく錯覚した。中学校時代のプールの思い出が、呼び起こされる。


 忘れもしない、中学二年生の夏。黄色いフリルビキニの女の子の、日に焼けた笑顔。あれは刺激的だったなぁと、詩乃は一人、色々思い出して首を振った。たぶん、初恋はもっと前、小学生のころだったが、明確に恋だと認識した恋は、その黄色ビキニの子が初めてだった。


 詩乃は駅に着き、冷気に誘われるようにして、きっぷ売り場とくっついているデパートの地下へと入っていった。地下食品コーナーの階段脇にあったソファーのような椅子に座り、一息つく。そうして冷静になると、なんで自分はこんなところにいるのだろうかという、シンプルな疑問が浮かんでくる。


 小学生の時の初恋は、告白もせずその子の転校という形であっけなくさらっと過ぎ去った。二番目の、あの、黄色ビキニの子との恋は、初恋の経験を生かして、自分なりには少し、頑張ってみた。両思いだと思って告白したら結局振られて、その後、その子の本命の彼との恋のサポート役というポジションに置かれてしまった。あんなに仲が良かったのに、いろんなことを話してくれたのに、自分の話に笑ってくれたのに、あれは全部、そういうつもりじゃなかったらしい。一人で勘違いして振られて、しかもそのあと、その子の手伝いまで……。


 しかし、と詩乃は思う。今思い返せば、たぶんあの子は、自分を最初から、外堀を埋めるための駒として使おうと思っていたのだろう。その子が好きだったのは、何しろ自分の、ほとんど唯一と言ってもいい、友達だったのだから。そうでなければ、振った相手に自分の恋を手伝わせるだろうか。それでも結局自分は手伝ってしまった。最初から最後まで、あの子の掌の上で踊らされていたのだ。


 本当に女性は怖いと、その時につくづく思い知った。簡単に笑顔を振りまく女の子は、絶対に信用してはいけない。でももし、本当に好きになってしまったら、そうしたら、罠だと知っていても飛び込んでしまうものである。もし新見さんが自分に、そういうことを頼んできたら、たぶん自分は、あの時と同じように、結局は彼女の恋のために色々と手を尽くしてしまうだろう。


 詩乃は店内の時計で時間を確認して、そろそろ、飲み物を買って帰ろうとソファーを立った。短編四編、全部の文字数を足すと三万文字弱だから、よっぽどの速読でない限り、読み終わるまでには一時間以上かかることだろう。今から戻っても、まだ全部は読み終わっていないはずだ。でも、飲み物を買いに行くと言って部屋を出て、一時間以上帰ってこないというのは普通じゃない。事故にあったのかもとか、そういう心配をかけさせたくもない。


 ――帰るか。


 詩乃は食品売り場を出、駅から来た道を戻り、駅近くのコンビニに寄って500mlパックのココアとラッシーを買った。飲み物のチョイスは、完全に思い付きだった。白ビニール袋を下げて正門を通り、CL棟、文芸部部室に戻る。


「――水上君」


 帰ってくるなり名前を呼ばれて、詩乃はどぎまぎした。妙に熱っぽい柚子の視線のせいだった。


「四冊目はまだなんだけど、どれも、すごく良い話」


「あ、はは、誤字とか、無かった?」


「あ、ごめん! チェックしてない……」


「あ、全然いいよ」


 詩乃はそう言って、袋をテーブルに置くと、中から飲み物のパックを二つ取り出して、それを柚子の前に並べ置いた。


「どっちが好き?」


「え、いいの?」


「うん」


「じゃあ……ココア! いくらだった?」


「いいよ。読んで貰ったお礼」


「それじゃ、私のほうが、読ませてもらったお礼しないと!」


「やめてよ」


 はにかむ詩乃の苦笑いの表情と俯く仕草を見た柚子は、今すぐ詩乃に抱きつきたくなる衝動にかられた。その衝動をココアを飲むことで何とか制御する。詩乃は、柚子の気も知らず、ラッシーのパックをあけて、ストローを中に落とすと、ちゅるちゅると飲み始めた。


「……っ」


 柚子は、ストローを吸う詩乃の唇を見て、さっき自分が、その唇にしてしまった行為を思い出した。そうするともう、恥ずかしくて詩乃の顔を直視できなかった。俯いて、冷静になるまで、ココアで頭と体を冷やす。


 柚子はそれから、今読んだ短編の感想を詩乃に話した。動物園のペンギンが、弱った渡り鳥を助ける話。灰色のラブレターをめぐる中学校を舞台にした謎解き。卵料理ばかりを作る旅の料理人の話。どれもそれぞれに面白かったが、特に柚子は、ペンギンと渡り鳥の話が好きだった。四話目の怪談は、まだ柚子は読んでいなかったが、話の流れで、四冊目が怪談だと知り、柚子は驚いてしまった。どうしてそんなに色々なジャンルのものを書けるのだろうかと、柚子は尊敬のような感情を詩乃に抱いてしまうのだった。


 いつの間にか、柚子は、詩乃とすっかり打ち解けて話しているのに気づいた。ひとしきり小説の話をしたあと、柚子は、詩乃に訊ねた。


「水上君、夏期講習、出ないの?」


「うん」


 うわぁ、即答だ、と柚子は思った。そんな風に言い切れる詩乃が、少し羨ましかった。本当は「一緒に出ようよ」と誘いたいけれど、そういうのは、たぶん、水上君は好きじゃない。


 柚子は代わりに、紗枝の作戦を使うことにした。


「隅田川のお祭り――花火大会、知ってる?」


「名前くらいは」


「お祭りは再来週の土日なんだけど、その、日曜日にね――」


 ちらりと、そう言ってみて柚子は詩乃の様子を覗った。


 詩乃は、うん、と軽く頷いただけだった。


「ダンス部で、発表あるんだ」


「祭りで?」


「うん。ダンス部、毎年やってて。去年もやったよ」


 ふーん、と相槌を打ったあと、柚子はぽつりと言った。


「まだこっちには、来たばっかりだから、全然知らないよ」


「うん。三月に引っ越してきたんでしょ? 須藤先生から、ちょっと聞いちゃった」


「あぁ、そう」


 詩乃の目元が緩んだ。そんなどうでもいい情報、わざわざ話す須藤教諭が、妙におかしかった。


 柚子は、詩乃の様子を見ながら、一手一手、慎重に言葉を進めていく。


「楽しいよお祭り。花火も上がるし」


「へぇ」


「初めてなら、案内してあげるよ。花火も、迫力すごいよ」


 詩乃は、一瞬考えてしまった。確認のため、聞き返す。


「新見さんが、案内してくれるの?」


「うん」


 大きく、自信満々に頷く柚子。


 心の中では、神様に全力で願掛けをしていた。


「でも新見さん……」


 おかしいなぁと、詩乃は思った。新見さんは友達も多そうだし、それこそ、彼女にしたいと思っていたり、隣に新見さんを侍らせて祭りを回りたいという男子だって、一人や二人ではないだろう。


「――そんな暇、あるの?」


 詩乃にしてみれば、それは素朴な疑問だった。目下、新見さん争奪戦が水面下で行われていることは、想像に難くない。


「ダンスの発表は夕方で終わるから、その後は暇なの」


「友達と一緒ってこと、だよね?」


「え? いや、えっと……二人だと、嫌、かな?」


「いや、自分は、大人数嫌いだし、二人の方がいいけど……」


「じゃあ、二人で行こ。大丈夫、私がちゃんとエスコートするから」


 それは男の仕事じゃないのかと詩乃は笑った。柚子もつられて笑う。いつもの五割増しで、柚子の笑い声は大きくなった。


「折角だし、ダンス部の発表も見に来てよ」


「うん……わかった」


 祭りを案内してもらうのだから、それくらいは礼儀だなと詩乃は思った。いや、実は新見さんにとっては、こっちが本件なのかもしれない。ダンスの見物客を増やしたい、という狙いがあると見た方が、むしろ納得できる。そうでもなければ、新見さんが自分と祭りを歩いたり、花火を見るなんてことは無いだろう。


「あ、そうだ! 連絡取りたいから、番号教えて!」


「あぁ、うん」


 詩乃はスマホを取り出して、自分の電話番号を画面に表示させる。それをそのまま、柚子に見せる。柚子はスマホをかざして、登録を済ませた。スマホの扱いには全く疎い詩乃には、どうやったのかさっぱりわからなかった。


「ラインは、やってる?」


「一回ソフトいれたけど、やめた」


「アプリのこと?」


「あ、そう、アプリ」


「やめちゃったの?」


「うん。監視されてるみたいで、嫌なんだよね」


 あぁそうか、水上君はそう考えるんだなと、柚子は思った。でも便利だよ、とか、もう一回入れてみないとか、そういうことは言わないようにする。たぶん、というか確実に、鬱陶しいと思われてしまう。


 ピロリンと、柚子のスマホが音を鳴らした。


 音で、それが紗枝からのラインメッセージだとわかる。


 ――いた? 


 たったそれだけのメッセージ。


 ――いた!


 すぐに、柚子もそれだけ打ってメッセージを返す。


 ――心配するから一言くらい連絡しなさい。


 お説教をするデフォルメされた先生のスタンプと一緒に返ってくる。『申し訳ございませんでした』の文字が書かれた土下座スタンプを張り付ける。


 ――次何の講義だっけ?


 柚子が続けてそう送ると、一瞬で『既読』がついて、またすぐに、紗枝から返事があった。


 ――時計見てみ。


 柚子は、恐る恐る、画面の右上を確認する。


 時刻は、午後二時。今日出る予定だった講義は、もうとっくに終わっている時間だった。『ガーン』のスタンプを張る。


 ――柚子、部活じゃないの?


 ――あ、そうだった!


 柚子はそれだけ急いで送ると、スマホをしまった。


「私そろそろ、ダンスの練習あるから行くね」


 デートの約束を取り付け、しかも連絡先まで聞き出した。楽しく話もできて、溝も埋まった気がする。しかも、チューまでしてしまった。それは、水上君は知らないけれど――とにかく、怖いくらいに順調なので、墓穴を掘る前に、今日の所は引き上げよう。


「あ、うん」


「連絡するね」


「うん」


「ココアありがと」


「うん」


「そうだ、まだ一つ読んでないんだけど、これ、全部持って帰っても――」


「いいよ。でも、見せないようにしてね」


「うん」


 柚子はココアの空パックと、ホッチキス止めされただけの短編の原稿四部を持って、文芸部を後にした。

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