第13話 ためらう風鳥(3)

 CL棟にやってきた詩乃は、入口脇の靴棚に穿いてきたバッシュを入れると、靴下のまま文芸部の部室に向かった。部屋の鍵を開け、中に入る。もわあっとした空気にやられ、思わず一度部屋を出る。埃臭いうえ、とにかく、空気がサウナ状態だ。


 息を吸わないようにしながら部屋を横断し、窓を開け、冷房をつける。そうしてそのまま入口に戻ってきて部屋の外に出ると、入口の扉を開け放ち、手提げをドアストッパー代わりにする。廊下の部室に一番近い窓を二つあけて、風の通り道を確保してやる。


 ほうっと息を吐き、部室の前の廊下の壁を背もたれにして、座る。


 たらあっと、汗が流れる。


 窓を開けたせいで、セミの鳴き声が近く、余計暑さを感じる。


 今日は風も少ないから、部屋の空気を入れ替えるのにも時間がかかりそうだ。もうしばらくこうしていないといけない。そう思うと、忘れていた倦怠感がじわあと身体中に染み出してくる。睡眠のリズムが夏休みに入って狂いに狂っている。今朝は三時に起きたまま、すでに九時間近く経過している。その間、自室のパソコンの前で、出来上がった短編のチェックをしていたために、脳が疲れていた。作業をしている時は感じなかった眠気も、こうして一度座り込み、待ちぼうけのようなことになると、一気に睡魔が押し寄せてくる。


 詩乃が眠りに落ちるまで、一分とかからなかった。


 それから少し遅れて、文芸部部室に向かってやってきた女子生徒――新見柚子は、文芸部の部室前で、廊下の壁にもたれかかっている男子生徒を見つけて吃驚してしまった。近づいて、それが詩乃だとわかると、より驚きが増した。


 扉の開け放たれた部室、空いた窓、冷たい風を送っている空調機。


 ――空気を入れ替えてたのかな?


 柚子はすぐに正解に行きついた。しかし、詩乃が寝ているのが、よくわからなかった。水上君を二階の教室から見つけてから、まだ五分経つか、経たないかくらいだ。それなのにどうして、水上君は、眠っているのだろう。しかもこんな、寝にくそうな場所で。


 柚子はひとまず、部室に入ってみた。


 詩乃が思っているほど換気に時間はかからず、ゆるゆると生暖かい風が、部室の埃を廊下の窓から押し流していた。


 柚子はとりあえず、部室の窓を閉めた。


 廊下に戻り、どうしたものかなと、柚子は詩乃の前に立ち尽くしてしまう。上は白Tシャツ、下はデニムのショートパンツという夏らしい格好。眠っている詩乃の目線の所に、ちょうど柚子の、ショートパンツから出た太ももがある。詩乃は寝ているから何の反応もないが、柚子は、思わず少しかがんで、腿を手で隠した。それから、詩乃が眠っているのを覗き込んで確認し、そのまま詩乃の前に屈み込んだ。


 詩乃の寝顔を見るのはこれが二度目だった。最初の寝顔は、体育祭の後、保健室で。あの日から、一体何年経ったろうと柚子は思った。実際は一月くらいだが、柚子は、一日をとても長く感じるようになっていた。


 ――キスくらいだったらいいんじゃない?


 須藤教諭の言葉が柚子の脳裏によぎる。


 何がいいのか、さっぱりわからない。


 さっぱりわからないけど、いいのだろうか?


 柚子は、詩乃の無防備な頬を、そして閉じた目元、小さな寝息を立てる鼻先、そして、ほんの微かに開いた唇を観察した。


 どうしょうもないような、食べ物で言うなら、レモンのような気持ちが、柚子の心を締め付ける。その、心を締め付ける何かの力はだんだんと強くなってゆき、締め付けがきつくなるにしたがって、柚子の顔は、徐々に詩乃の顔――唇にと近づいていった。


 こんなこと、しちゃいけない。


 勝手にキスなんて。


 いけないという考えとは裏腹に、柚子は、自分の行動が、もう自分では止められなかった。


 ――――。


 ――――――――。


 ―――――――――――――……。


 頭が真っ白になった。


 世界から、音も視覚も、あらゆる感覚が、全部が消えた。


 震える唇を離して、柚子は寝ている詩乃をまっすぐに見た。胸の苦しさを感じて、両手をきゅっと、左胸のあたり、Tシャツを握る。柚子は、小刻みに震えていた。どうして震えているのか、柚子は自分でもわからなかった。呼吸まで、震えている。自然と流れてきた涙を、手の甲で払う。


 数分が経過したか、それとも数十秒だったか。


 それから柚子の理性が再び働き始めた。急に恥ずかしさがこみあげて来て、ぱたぱたと、詩乃の近くの廊下を行き来する。


 ――ヤバイヤバイ、私何やってるの!


 自分の唇を抑える。心臓の鼓動が馬鹿みたいに早鐘を打つ。顔も首筋も真っ赤になっていることが自分でもわかる。


「ん……、うん……?」


 騒がしい気配に、詩乃は短い眠りから覚めた。


 そうして、自分のすぐ近くに、同級生らしき女の子がいるのに気づいた。その女の子が柚子であると認識するまで、詩乃は一呼吸間必要だった。こんなところに、こんなタイミングで、新見さんがいるわけないと思ったのだ。


「新見さん……?」


 寝ぼけた声で確認する。


「ひ、久しぶり。暑いね今日! というか、ダメだよ、部室の前で寝ちゃ! 風邪ひくよ!」


「あぁ……」


 寝てたのか自分はと、詩乃は自分の情けなさに軽いショックを受けた。こんなところで寝るなんて、どれだけ身体のコントロールができないんだよ、と自分を非難する。


 詩乃は立ち上がり、ぐりぐりと目をこする。こすりすぎて、ツーンと目が痛くなる。


 その痛みで、少しずつ覚醒していく。


「何か、用だった?」


 そう問われ、何の用もない柚子は、ひるんでしまった。別段詩乃は「冷たくしよう」とか「突き放そう」と意識したわけではなかったが、体育祭以降不自然なまでに避けられていた柚子には、詩乃のその言葉は、刃物のような威力があった。ただ会って話したかっただけ、それが用事、と言いたかったが、とてもそんなことは言えない。


「短編……っ!」


 苦し紛れに、柚子は何とか答えた。


「できた!?」


「あぁー、短編ね」


 そうか、本当に読みに来たのかと、詩乃は驚いた。そのことは、社交辞令だと思っていた詩乃には、これは、思いもよらないことだった。〈猫〉の短編を読んで、それで満足したものと思っていた。


 詩乃は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて部室に入った。


 柚子は、詩乃の後を追おうかどうか迷った。勝手に入ったら怒られるだろうか、嫌われるだろうかと、部屋の前で躊躇う。


 詩乃はちらちと振り返った。


 ちょうど、部室の扉が、柚子の前で閉じかけていた。詩乃は、柚子が自分の後に続くものだと思っていたので焦ってしまった。扉が閉まってゆくその隙間から、柚子の悲しそうな表情と佇まいを認め、詩乃は慌てて扉を押え、もう一度柚子のために開いた。


 柚子は、目を見開いて、詩乃を見つめた。まだ水上君は、私の事を受け入れてくれるんだと、その嬉しさが、柚子の胸に込み上げて来て、それが目や表情に露になる。


 そんな表情、ずるいじゃないかと詩乃は思った。


 詩乃は、柚子の表情は見なかったことにして手提げをテーブルに置き、自分の作業机に向かった。


「新見さん、本当に小説好きなんだ」


 パソコンの電源を入れ、PCモニターに視線を固定したまま詩乃は柚子に言った。


「そんなにたくさん読むわけじゃないけど――」


 柚子はそこで一度言葉を止めたが、素直に打ち明けるつもりで続けた。


「水上君の作ったお話は読みたい」


 詩乃は咳払いをして、息を吸い、ため息を一つ吐いた。


 そうして詩乃は、柚子への感情を抑えてから、パソコンが暑さで壊れていないことを確認し、テーブルに戻って手提げの小物ポケットのチャックを開ける。中からモバイルメモリを取り出して、それをパソコンにつなぐ。入っているのは、完成した短編四本分のデータである。


 早速、印刷を開始する。


 それぞれ二部ずつ。


「短編、あれから四つできたよ」


「えぇ、四つも!?」


 驚いて声を上げる柚子。


「うん。調子が――良かったんだ」


 詩乃は、柚子を見やってからそう言った。なぜ調子が良かったか、何が創作意欲のトリガーを引いたかは、決して言わない。しかし柚子も、詩乃には言いたいことがあった。決して言わないが――私の知らない間に、どうしてそんなに作っちゃうの! できたら、私に声かけてよ、あんなに読ませてって言ったのに! 小説に集中してるからって、あんな態度、ひどいよ! そんな恨み言を、柚子も笑顔の中に隠す。


「読んでも、いい?」


「今印刷してるから」


 柚子は頑張るプリンターに視線を向けた。次から次に、詩乃の文章の印刷された紙が出てくる。紙が重なってゆくごとに、柚子のわくわくも同じように重なっていった。印刷中に三度ほど、紙の詰まるトラブルやコピー用紙不足のエラーが出たが、いつも通り対処して、短編四編二人分、計八セットを詩乃は順々にホッチキス止めしていった。


 心の中で、達成感に打ち震える詩乃だった。


 柚子は、詩乃から刷りたてほやほやの四冊を受け取り、思わずそれを抱きしめてしまった。その仕草を見た詩乃は、自分が抱きしめられたかのような恥ずかしさを覚え、咳払いを一つしてから、デスクチェアーに座った。


「今読んでもいい?」


「いいよ」


 柚子がしゃべるごとに心臓が止まりそうになる。それを詩乃は、印刷したばかりの短編をチェックするふりをして誤魔化した。部屋がだんだん涼しくなってくるが、詩乃の体はそれと逆に、だんだん熱くなってきていた。自分の書いた話を柚子が読み進めていると思うと、恥ずかしさで狂いそうになる。


「ちょっと、飲み物買ってくるね」


 詩乃は、狂ってしまう前に逃げることにした。

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