第10話 恋色リトマス紙(6)

 詩乃はぶらぶらグランドの中を歩き、そういえば自分は、何をしにここに来たんだっけなと、思い立ち、柚子の事を思い出した。須藤先生に言われるままに、何となくふらっとここに来てしまったが、新見さんを見つけて、それで何をしようというのだろうか。心配してくれたお礼を言うは普通の事らしいが、詩乃はまだ、その考え方を受け入れたわけではない。わざわざ口に出すというのは、どうにもかえってわざとらしく、邪なように思えてしまうのだった。


 バンドの演奏が終わる頃には、空に残っていた光も消えてしまった。校舎の明かりと、グランドの所々に置かれた四十センチ大の卵型ライトに光源の主役が移り変わり、グランドの外に散っていた生徒たちが、少しずつグランド内に集まってきた。それが、何かの始まる前触れということはわかっても、何が始まるのか、詩乃にはよくわからなかった。


 少しすると、仮設ステージに燕尾服姿の生徒が一人登壇し、マイクを持った。それだけで、パチパチパチとまばらな拍手が起きる。


『レディースアーン、ジェントルメン――』


 スピーカーから聞こえてきた声は、艶のあるバリトンボイス。ムーディーなラジオ番組で、MCが曲を紹介するときのキメ声そのものである。


『放送部、二十代目ダンディだ。ダンディーは、野暮な前説はしないぜぇ。体育祭の最後はクールダウンだ。隣の彼の手を取って、彼女の手を取って、ゆっくり踊ろう。ミュージックはジャズ研で、ブルースナンバー、〈ロングサマータイム〉』


 二十代目ダンディと名乗ったその生徒が言うと、スピーカーから流れてきたのは、泣くようなギターと、ピアノのメロディー。スローテンポのブルースに揺られて、グランドのペアたちが、踊り始める。この中に新見さんはいるのだろうかと、詩乃はグランドに視線を漂わせた。


 ぼんやりした生徒たちのシルエット。ゆら、ゆらっと、波を漂うクラゲのようだなと詩乃は思った。そんなシルエットの中に、詩乃はふと、柚子の姿を見つけた。不思議なことに、柚子の姿だけが、詩乃にははっきり見えた。


 柚子は、男子と二人で手をつなぎ、お互いに片方の腕を背中に回している。


 詩乃はその様子を見て、立ち尽くしてしまった。


 持ち前の冷静さで、このショックはきっと、新見さんにまつわるショックではなく、熱中症からくる体の疲れが引き起こしているものに違いないと、心に言い聞かせる。


 別に悲しいわけではない。最初から新見さんは、誰のものでもなかった。少なくとも、自分みたいな日陰者には眩しすぎた。あの、明るい輪の中で踊っているのが、新見さんには良く似合っている。そしてそれを遠目から眺めているのが、自分には良く似合っている。そこまで思考を巡らせた詩乃は、不意に『百万本のバラ』のメロディーを思い出し、潮時だなと、グランドに背を向けた。詩乃は一瞬、柚子と目が合ったような気がしたが、それはきっと、自分の勝手な期待と思い出の名残からくる幻想だろうと、振り返らずにグランドを出た。


 別に、失恋をしたわけじゃない。


 新見さんとの思い出が消えるわけじゃない。


 それでいいじゃないか。


 詩乃は自転車置き場に向かうと、ぽつんと置かれている自分の自転車に手提げを放り入れ、思い切りペダルを踏んだ。






 ――水上君だ!


 ダンスの最中、柚子は詩乃を見つけた。一瞬、目が合った。しかし詩乃は、すぐに目を逸らすと、柚子に背を向けて、足早にグランドから離れていってしまった。


 その瞬間、柚子は言い様のない焦りと不安を覚えた。


 今目、逸らされた?


 たまたまそう感じただけ?


「ごめん、ちょっと用事!」


「え、ええ!?」


 柚子は、ペアの同意を待たずダンスを切り上げて詩乃を追いかけた。グランドを横切って走ったが、中庭で見失ってしまった。いい感じのカップルがベンチで、ピンク色のムードを醸し出している。


 水上君は、そういえば自転車で登校していると言っていた。


 柚子は思い出し、駐輪場に向かった。


 正面玄関時計塔から正門に続く煉瓦の道にやってきたとき、柚子は、自転車に乗る詩乃の後ろ姿を見つけた。


 ――やっぱり、さっきのは水上君だったんだ。


 しかし、詩乃を呼び止めるには距離が遠すぎた。


 詩乃は、柚子の五十メートルほど先の正門を、あっという間に通り抜けて、柚子の視界から消えていってしまった。柚子は、中途半端に開けた口で、はぁはぁと呼吸を繰り返した。


 間に合わなかった。


 茫然と立ち尽くす柚子の心には、その事実だけが打ち付けられた。

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