第11話 ためらう風鳥(1)

 体育祭が終わると、夏休みは、あっという間にやってきた。


 茶ノ原高校は学期ごとのテストは行わず、前期テストが九月末に一回と、三月頭に後期テストが一回、年間通してその二回のみである。宿題もほとんど出ないので夏休みは遊び放題なのだが、あまり遊び惚けていると、九月のテストが悲惨なことになるため、生徒は自然と、八月中頃あたりからは、学校で開かれるテスト前講習に参加するようになる。


 体育祭の後、柚子は詩乃と、ほとんど会話らしい会話をしていなかった。体育祭の後から、詩乃の学校内の行動パターンが変わったせいだった。昼休みは弁当を持って教室を出るまではそれまでと同じだったが、その後、部室には行かず、部室以外のどこかへ姿をくらませてしまうのだった。放課後も、授業が終わると取り付く島もなく帰宅するようになった。


 それでも柚子は、今日はもしかしたらと思って、ほとんど毎日、昼と放課後、勇気を出して文芸部の部室の扉をノックした。しかし。詩乃の返事が部屋の中から返ってくることは無かった。


 柚子と詩乃の唯一のやり取りは朝の挨拶だけになった。しかしその挨拶にしても、詩乃は日によっては柚子と目を合わせることもあったが、そういうときは、失敗を隠すように、すぐに目を逸らしてしまうのだった。それ以外の日は、最初から目を合わせることもしない。そうされると、柚子は朝から、心臓に杭を打ち込まれるようなショックを受けた。それでも柚子は、今日の朝こそは、明日の朝こそは何かあるかもしれないと期待を胸に、毎日登校していた。しかしそんな期待は空振りに終わり、ついに夏休み前最後の登校日となった。


 終業式は体育館で行われ、その後は教室に戻り、一学期最後のホームルームになる。担任の大谷教諭が夏休みの過ごし方を皆に説き、九月の前期テストに向けた夏期講習のスケジュールプリントなどが配られる。何か言い残したことはあるかと大谷教諭が皆に質問し、数名の目立ちたがりが、一学期の思い出を軽く語ったりした。


 そうして、つつがなくホームルームが終わった。


 もしかしたら、このままもう、水上君と話せないかもしれない。


 それは嫌だと思い、柚子は一大決心をして、斜め後ろにいるはずの詩乃に話しかけようと振り返った。


「水上君――」


 ところが、詩乃の席に、もう詩乃はいなかった。「ありがとうございました」のお辞儀が終わり、皆が顔を上げた時には、すでに詩乃は、一足先に礼を済ませ、席を立っていた。柚子は、視界の端に、教室を出ていく詩乃の姿を見つけた。


 ついに、本当に、水上君と何も話せないまま夏休みになってしまった。


 柚子はそう思うと、悲しい気持ちが止まらなくなってきてしまった。その思いは、ぽろぽろ、ぽろぽろと、涙になって零れ落ちる。焦ったのは親友の紗枝である。柚子が突然、顔を両手で覆って、泣き出してしまったのである。


 これはまずいと、紗枝はすぐさま席を立って、柚子の隣の席に座り、柚子の頭を自分の胸にうずめるように抱きしめた。これなら、柚子が泣き出したことも皆にはバレないし、仮にバレたとしても、それは、友達と会えなくなることの寂しさとか、一学期を思い出して感傷に浸っている様子にとってもらえる。


 胸元の汗が鼻の頭についてしまうかもしれないけど、それは柚子、ごめん、許してほしいと思いながら、紗枝は柚子を隠す。


「お前らほんと仲いいよな」


 教室が名残惜しい生徒はまだ帰る気配はなく、そんな男子生徒の一人が紗枝に言った。


「超親友だからね」


「絞め殺すなよ」


「おい、喧嘩なら買うぞ」


 そんな軽口を叩きながら、紗枝は何とか、柚子の涙を隠しきった。


 涙が見つかることはさほど問題ではないが、その理由を聞かれるのは良くないと、紗枝は思った。


 柚子が詩乃を好きだということを、紗枝は他言していなかった。水上がどうなろうと、それは知ったことではなかったが、柚子の恋は応援したいと思っている紗枝である。しかし相手が水上だ。きっと、ああいう内向的なタイプは、騒がれるのが好きじゃない。しかも柚子も柚子で、この恋に関しては相当な素人と来ている。女子の得意な外堀を埋める作戦は、この恋に関してはむしろ、裏目に出そうだ。


 紗枝は、柚子の涙が落ち着いたのを確認すると、放ってもおけないので、そのまま駅前のファミレスに柚子を連れて行った。


 紗枝は二人分のドリンクバーを注文し、さっさと自分用にはアイスコーヒー、柚子にはオレンジジュースを注いできてテーブルに戻った。日中の一番暑い時間帯でも店の中は涼しい。ひとまず飲みなよと促し、紗枝も、アイスコーヒーを飲む。


 ちゅるちゅると、柚子はジュースを飲む力まで弱弱しい。いつもはばかすか料理を注文する柚子が大人しいと、紗枝もやりにくかった。これが夏バテならやりようもあるんだけどなと、紗枝は息をついた。 


 紗枝は、体育祭の打ち上げの時の出来事は柚子から聞いて知っていた。聞いた後で、「いやそれ、柚子別に悪くないから」と、紗枝はすでに、率直な意見を柚子に伝えていた。


 ダンスは別に、好きな人とだけ踊るものではない。体育の授業でも、行事の後でも、踊ること自体を目的として踊ることがある。特にこの学校では、ダンスは一つの自己表現であり、遊びであり、スポーツである。だから、「ちょっと踊ろうよ」と誘われて断る方が失礼なのだ。「踊ろう」は告白ではないが、誘いに応じないのは、友達関係を否定するのに等しい。流石に彼氏、彼女がいる場合は、相方に確認を取ってから誘うのが暗黙のルールだが、柚子には今、彼氏はいない。だから、未練たらたらの元カレが柚子を誘って、踊っていただけなのだ。


 自分の好きな子が自分以外の男と踊っているのを見て、まぁ、嫉妬はするだろう。でもそうしたら、奪い返してやろうとむしろ積極的に自分をアピールするのが、男らしさってものじゃないだろうか。相手が柚子ともなれば、それは尚更だ。柚子を狙っている男は、他にもたくさんいる。そういうことを、水上は知らなくちゃいけない。大体、そんなことは、柚子を見ればわかるでしょ、と紗枝は思った。格から言って、本来どっちが追う側で、どっちが追われる側なのか、柚子の泣き顔を見たら、勘違いするなよと詩乃に小一時間説教してやりたい気分にもなってくる紗枝だった。


「柚子さ、本当に、そんなに、水上がいいの? 考え直さない?」


 紗枝は、鋭く切り出した。


「嫌」


「なんでよ!」


 基本的に、選ぶ側代表ともいえる女子が、どうして、よりにもよって、あんなパっとしない男――水上を選ぶのか。水上は、確かに独特で、変わったところもユニークと肯定的にとらえられれば、まぁそう、嫌な奴でもない。だけど、彼氏となると話は別だ。


「どうしよう、紗枝ちゃん。もう水上君と、お話できないのかな」


 完膚なきまでにしょげている。


「はぁ……もう、告白しちゃったら」


 紗枝は、ぽつりと言った。たぶん、告白すれば、振られることはないだろう。水上なら、そもそも女友達自体いなさそうだし、柚子のような女の子は、水上の人生史上いないのではないだろうか。柚子は、女の私から見ても付き合いたい女子ナンバーワンだ。断る理由が無い。宝石で言うダイヤモンド、車で言うフェラーリだ。男にとったって、そうだろう。まぁ、そんなアクセサリー気分で柚子に近づく男は碌なものではないが――。


「振られるの、怖い……」


「は……?」


 それは、嫌味かと紗枝は思ってしまう。というか、この子は、初恋でもないだろうに、どうしてこんなに初心者なのだろうか。


「振られないから」


 紗枝は柚子から聞いて知っていた。詩乃の書いた猫の短編を毎日読み返していることを。そして詩乃による校正作業も終わり、完成したその短編を印刷してまとめたものを、学校には持ってこず、自室に机の一番上の引き出しに、綺麗に保管していることも。そして、柚子の家に遊びに行った時、ちょっと読ませてよとそれを取ろうとしたら、「ダメっ」と言って、慌ててそれを隠してしまった事も。そういうこと、全部水上にぶちまけたら、もはや告白なんて必要ないだろうなと、紗枝は思うのだった。


 わからないのは、水上の気持ちだ。


 最初から柚子の事を何とも思っていない、という線はないだろう。そうだったなら、体育祭の後、水上の行動が変わった意味も分からない。だからやっぱり、水上も、柚子に気があるに違いない。


 それなのに、どうしてダンスくらいで、簡単に柚子を諦められるんだ。結局、それくらいの気持ちということなのだろうか。でもそれだったら、柚子が可哀そすぎる。確かに柚子は、そのライバル倍率を考えたら、願書を取り下げたくなる気持ちもわかる。でも、それはいくらなんでも、諦めるのが早すぎる。男と踊りを踊っていたくらいで。ガラスのハートと言えば聞こえはいいが、要は臆病なだけじゃないか。


 あぁ、もう、まどろっこしいと、紗枝は頭をくしゃくしゃと掻いた。


「電話番号とか、聞いてないの?」


「うん。タイミングが無くて……」


「メールとか何か、連絡手段は?」


 ふるふると首を横に振る柚子。このご時世、同じクラス、同じ班にまでなって、連絡先がわからないなんてことあるのだろうか。昭和か、と紗枝は柚子の不器用っぷりに悶えてしまうのだった。紗枝も一応、SMSアプリで詩乃の連絡先を探したが、見つからなかった。彼は本当に、友達が一人もいないようだ。


「夏期講習に来るかもよ」


 気休め半分で、紗枝が言った。


「来るかな!?」


「わからないけど……」


「でも、なんて話しかければいいんだろ」


「そんなの、何でもいいのよ。例えば――」


 デートでも誘ってみたら、と言おうとした紗枝は、柚子がデートを誘うのにぴったりの口実を思いついた。茶ノ原高校のダンス部は伝統的に、隅田川の夏祭りでダンスを披露している。当然、柚子もそれに出るのだから、それをダシにすれば良いのだ。


「ダンス部の発表に水上呼べばいいのよ」


「水上君を、呼ぶの!?」


「そ。で、終わったら一緒に花火デート。――どうこれ、私今日冴えてんじゃない?」


 確かにそれは良いかもしれないと、柚子も思った。


「でも、断られたら――」


「断られたって、話す口実にはなるでしょ」


 まぁ、断られるなんて無いと思うけど、と、ぼそっと紗枝は零した。


「そっか……紗枝ちゃん、頭いい」


「もしかして柚子、恋愛、ポンコツ?」


「何それ、ポンコツって! ひどくない!?」


 事実だから仕方がないでしょと、紗枝は言った。


 見た目、柚子の恋愛偏差値は、極めて高そうだ。紗枝も最近まで、そう思っていた。しかし近頃は、紗枝はその認識を改めていた。本命の水上に対しては、柚子はとことん、恋を知らない女の子なのだ。そんな柚子の様子を見ていると、保護者のような気持ちで、不安になってきてしまう紗枝だった。


 ――でもまぁ、ちょっと元気出たみたいだし、良しとするか。


 紗枝は大きく伸びをすると、ソファーに深く座りなおし、天井を仰いだ。空調機のプロペラが、ゆるりゆるりと回っていた。

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