第9話 恋色リトマス紙(5)
「こりゃ、熱中症ね」
須藤教諭は放送で保健委員を救護テントに呼び出し、詩乃を保健室に連れて行かせた。詩乃が出る予定だった競技、午後のパン喰い競争の担当生徒と教員に詩乃の欠場を伝えさせる。
昼休憩が終わり、パン喰い競争が始まった。ところがそこに詩乃の姿が無いので、楽しみにしていた柚子は、急に心配になってきた。
昼休み、具合が悪そうだったから、そのせいだろうか。水上君、大丈夫かな。そんな心配を抱えながら、しかし出番の多い柚子は、なかなか救護テントに行く余裕が無かった。
結局柚子が救護テントにやってきたのは、午後三時過ぎ、閉会式の直前だった。柚子はそこで、須藤教諭に詩乃は保健室で休んでいるということを聞いた。柚子は閉会式の後、片付けの合間を縫って、保健室に足を運んだ。
保健室は、体育祭の騒がしさ、賑やかさとは隔絶されていて、クーラーの送風音だけが聞こえる静かな空間だった。四つあるベッドはすべて埋まっていて、そのうちの窓際のベッドに、詩乃が横になっていた。薄い毛布を腰までかけて、眠っている。
柚子は思わず、一歩二歩と、詩乃の枕元に吸い寄せられていった。じいっと、立ったまま詩乃の顔を見下ろす。はかなげな寝顔。ベッドに手をついて、もう少し近くで、観察する。無防備な頬、唇、首筋。柚子は無意識のうちに、詩乃の額にかかった前髪に触れていた。
「襲っちゃだめよ?」
突然後ろから声をかけられて、柚子は心臓が止まるかと思った。
振り向くとそこには、サングラスを白衣の胸ポケットにしまった須藤教諭がいた。
「須藤先生!?」
潜めた声を絞って、柚子が言った。
そんな柚子の様子を見て、須藤教諭は笑うのだった。
「まぁでも、キスくらいだったらいいんじゃない?」
「な、何言ってるんですか」
慌てて反論する柚子。須藤教諭は、すっかりいたずらっ子の目である。
「打ち上げ、誘いに来たの?」
「いえ、様子を見に……」
「ふーん。本当にそれだけ?」
「……」
本当を言えば、須藤教諭の言うとおりだった。様子を見に来たというのも当然そうだが、もし大丈夫そうなら、打ち上げで、一緒に踊りたいと思ったのだ。キャンプファイヤー同様、体育祭の打ち上げにもダンスタイムがあり、それも茶ノ原高校の一つの伝統になっている。定番のフォークにはじまり、ブルース、ジルバと、そのあたりは、体育の必修として全生徒が授業で習うため、二年になる頃までには、皆だいぶ踊れるようになる。
「キャンプファイヤーに体育祭、文化祭、クリスマス会に卒業パーティー……ホントこの学校、年がら年中踊ってるわよねぇ。楽しいから私は大賛成なんだけど」
確かに、言われてみればと柚子も苦笑いを浮かべる。
「新見さんなんか、もうお誘いあるんじゃないの?」
「あ、ははは……」
ぽりぽりと頬を掻く柚子。
須藤教諭の読み通り、柚子はすでに、幾人かの――もとい、幾人もの男子生徒から、打ち上げのダンスの誘いを受けていた。先輩、同級生、後輩と、全部受けたら、踊りっぱなしになってしまう。いくらダンス部とはいえ、それは辛いものがある。
「モテる女は辛いわねぇ」
「須藤先生は、やっぱりモテてましたか?」
「私?」
「はい」
柚子の目から見ても、須藤教諭はモテ女に見えた。まずその性格。明るくてお茶目で元気。保健の先生をしているくらいだから頭も良いのだろうし、おまけに、ボンキュッボンのスタイルだ。これでモテないわけがない。
「まぁ、ちょっとはモテてたかな。でもあだ名、セクシーブロッコリーだったわね」
自分で言って、思い出し笑いをしている。
確かに、須藤先生の頭はくるくるの天然パーマだが、ブロッコリーというほど爆発しているわけではない。たぶん、セクシーのあたりは男子の本音で、ブロッコリーは、照れ隠しで付け足されたのではないだろうかと柚子は思った。
「水上君、たぶん、寝不足ね」
「寝不足、ですか……」
「ちゃんと寝たのって聞いたら、三時には寝ました、だって。手当も保健の知識もよく調べてて偉いんだけど、本人はかなり不摂生してるみたいね」
賢いんだか抜けてるんだかわからないわね、と須藤教諭はまた笑った。
全くその通りだと柚子も頷いた。
「まぁ、高校生の一人暮らしだから、大変よね」
「え?」
思いもよらない詩乃の情報が出て来て、柚子は驚いた。
「あら、聞いてなかったの?」
「し、知りませんでした……」
須藤教諭は、含みのある笑顔を浮かべて言った。
「自転車で二十分くらいのアパートって言ってたわよ」
柚子は妙に感心してしまった。一人暮らしなんて、寮生活でもない限り、普通はしないのではないだろうか。何か、事情があるのだろうか。
「あれ、新見さん、水上君が転入してきたばっかりって事、知らない?」
「え!?」
初耳だった。須藤教諭は、仕方ないと、その辺の情報も柚子に開示した。今年の三月に今の家に引っ越してきて、春休み中に、この学校に転入した。
柚子はそれを聞いて、驚いた。今の今まで、水上君は一年の頃も、違うクラスにいたけど知らなかっただけだと思っていたのだ。何しろ茶ノ原高校には一学年十五クラス、四五〇人を超える生徒がいる。知らない生徒の方が多い。だから、転入生がいても、知らなくて当然かもしれない。しかし柚子の心には、もやもやが広がっていた。
「須藤先生、詳しいんですね」
拗ねたような口ぶりで、柚子が言った。
ぶふっと、須藤教諭は、柚子の態度と物言いに思わず笑ってしまった。
「今日聞いたのよ。朝からずっと一緒だったから」
「……そうですよね」
保健委員の仕事ですもんね、と弱弱しく付け足す柚子。でも、私だって、水上君と二人キャンプしたり、部室でおしゃべりしたり、まだ部誌として発行されてない水上君の小説を読ませてもらったり、してるんですよ! と、そんなことを須藤教諭に言いそうになり、柚子は自分でも慌てた。一体自分は、何を考えているのだろうか。そんなこと言って、何になるというのだろうか。
「新見さんって、面白いわね」
あっはっはと、豪快に笑い、ひとしきり笑った後で、須藤教諭は柚子に訊ねた。
「打ち上げ終わるまでには起こすけど、何か伝えておく?」
「え、いえ……大丈夫です」
「いいの?」
「はい。水上君も、疲れてると思うので」
「わかった」
須藤教諭は含みのある声でそう言うと、眠っている詩乃の顔を見やった。
「気持ちよさそうに寝ちゃって」
須藤教諭は呟くと、コーヒーメーカーの給水タンクを取り外し、水道の水を入れた。
「コーヒー、飲んでく?」
「え? あ、ええと……片付けがありますから」
「そう。飲みたくなったらいつでもおいで」
「はい、ありがとうございます」
柚子はそういうと、保健室を後にした。あの子、苦労しそうねぇと内心呟きながら、須藤教諭は小さなジャム瓶を開けて、細めに挽かれたキリマンジェロを計量スプーンで掬った。
大きく息を吐き出しながら、詩乃は目を開けた。
良く寝た。
ベッドの上。天井、ガラス戸にかかった淡い緑色のカーテン。その隙から、ガラス戸の奥に小さな茂みが見える。周りの様子を見て、ここはどうも保健室らしいと、詩乃の緩慢な頭がゆっくりと認識し始めた。窓の外は、まだ微かに明るいが、すでに、日の沈んだ後だろう。
上半身を起こし、こめかみをもみほぐす。
「具合はどう?」
すでに空になった三床のベッドシーツを順番に交換しながら、須藤教諭が詩乃に尋ねた。
「よく寝ました」
「あ、そう」
須藤教諭は、笑いながら相槌を打つ。
「打ち上げ始まってるわよ」
「はぁ……」
「水上君、体育祭の打ち上げ、初めてでしょ? 行って来たら?」
「いやぁ……」
打ち上げというものに、詩乃は少しの興奮も覚えなかった。ハメをはずしてはしゃぐことの、何がそんなに楽しいのだろうか。打ち上げの様子を遠目で眺めている分には、写真や絵画を観るような楽しみ方はできるかもしれないが、自分がその中に入ろうとは、詩乃は毛頭思わなかった。
「新見さん、お見舞いに来てたわよ」
「え!?」
柚子の名前が出てきたので、詩乃の頭は一気に回転し始めた。
「い、いつですか……」
「三時半ごろだったかなぁ。閉会式の後。水上君、寝顔見られちゃってたわよ」
詩乃は、すうっと息を吸い込み、唇を結んだ。面白い恥ずかしがり方をするわねと、須藤教諭はにやりと口元に笑みを浮かべた。
「あの子可愛いわねぇ」
「あ、はは、そうですね」
詩乃は正体不明の恥ずかしさに襲われ、自分でもよくわからないリアクションを取ってしまった。
「あんな子に心配してもらえるなんて、水上君もなかなかやるじゃない」
「そんなんじゃないですよ」
「そう?」
「そうだと、思います」
「うかうかしてると取られちゃうわよ。あの子絶対モテるから」
取られるも何も、最初から新見さんは、自分のものではない。一体須藤先生は何を言うのだろうか。
「心配してくれたお礼くらいは言っといたら?」
「なんて言うんですか」
初心すぎる、と須藤教諭は思った。
「そりゃあ、心配してくれてありがとうとか何とか、何でもいいのよ」
「はぁ……」
詩乃はその後、須藤教諭の指示で体温を測った。平熱。よし、と詩乃は体育着から制服に着替え、手提げを持った。須藤教諭に挨拶をして保健室を出る。保健室はSL棟の一階中央にあり、SL棟、体育館、正面玄関時計塔、人工芝グランドに囲まれた中庭に面している。芝生と低木、小さな噴水のある開放的な中庭を横切った先に人工芝のグランドがある。打ち上げはそこで行われているようだった。四月に転入したばかりの詩乃は、まだこの学校の行事のことを良く知らない。最近やっと、学校の地図が頭に入ってきたくらいである。
詩乃は中庭を抜けてグランドに入った。いつもはネットで仕切られているグランドは、今日はすっかり開け放たれている。本部テントや救護テントなどはすっかり片付けられ、その奥には、ブルーシートを敷いた上に仮設ステージが設けられていた。
「――よっしゃ行くぜ、次の曲!」
軽音部のバンドが、デスメタルの激しい低音を響かせる。縦ノリの曲に、生徒たちは大盛り上がりである。来てみると、これはこれで良いな、と詩乃は思った。詩乃は別に、祭りが嫌いなわけではなかった。皆でいることを強要されるような雰囲気、そういう価値観に巻き込まれるのがたまらなく我慢がならない、それだけだった。
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