第8話 恋色リトマス紙(4)
「毎日雨ならいいんだけど」
柚子は、詩乃の詩乃らしい返しに、思わず顔が綻んでしまう。昼休みが終わるまであと五分。せめてあと六分、と思う。
「雨、好きなの?」
「うん」
「そうなんだぁ」
柚子は、ガラス越しに雨を眺めて、それから言った。
「落ち着くよね」
「うん」
詩乃は、テーブル横に放置されているパイプ椅子に腰かけた。パイプ椅子はもう一つあり、柚子は詩乃のあとに続いて、それに座った。そこでふと、柚子は詩乃の持っているプリントに気づいた。
「それ、なぁに?」
「うん……短編」
「え、出来たの!?」
「試し印刷だよ。まずこれで読んでみて、改稿して――まぁでも、つまらなかったらボツかな」
「すごい! 読んでもいい?」
座ったと思ったら、すぐに立ち上がって、柚子は前のめりに詩乃に迫る。詩乃は、どうしようかと考えた。未完成のものを他人に見せるのは、正直なところ、嫌だった。しかし、題材をくれたのは、新見さんだ。題材が無ければ、きっと今頃、まだパソコンの前で呻くだけで、一行も、下手をしたら一文字も、書けていなかったかもしれない。
そしてもう一つ、詩乃は、〈猫〉の短編が書けたら、最初に見せるのは新見さんにしようと、心の中で決めていた。新見さんの「読んでみたい」というのは社交辞令に過ぎないのだろうけど、それでも、自分にちょっとでも興味を持ってくれたのだから、それについては感謝を伝えたい。詩乃はそう思っていた。
「ちょっと待ってね」
詩乃はそう言うと、PCデスクまで行き、マウスを操作した。すると再び印刷機が動き出した。新たに十枚の印刷が終わると、詩乃はホッチキスでそれをまとめ、柚子に渡した。まだ温かい印刷用紙を受け取った柚子は、その用紙の仄かな温かさが、手を伝って体の奥にまで広がってゆくような気がした。
「読んで、いいの?」
「うん。あ、でも、たぶん誤字脱字あると思うから、そしたら――」
と、詩乃はパソコン横のペン立てからノック式の赤ボールペンを摘まみ取り、柚子に差し出した。
「これで印付けておいてくれると嬉しいかな。あとで直せるから」
「わかった」
柚子は赤ペンを受け取った。
丁度その時、チャイムが鳴った。あっと、柚子は小さく声を上げる。詩乃は天井のあたりを見上げ、それから、パソコン机に向かった。
「戻らないとね」
はにかむような苦笑いを浮かべながら、柚子が言った。
しかし詩乃は、戻る気は無かった。五時間目、六時間目は欠席すると、さっきホッチキスを閉じた瞬間に決めていた。
「授業は休むよ」
さらりと詩乃は言った。
「え? どうして?」
「今日中に完成させたいんだ」
「放課後は?」
「今が大事だと思う」
あぁ、やっぱり水上君は面白いなと、柚子は思った。その面白さというのは、おもちゃが提供する面白さではない。映画や絵画を見た時に思う、面白い、というのに近い、そういう面白さだ。水上君の世界では、きっと、私や他の生徒が絶対だと思っている常識――例えば校則や友達関係のルールなんかは、ないのだろう。そんな世界に、自分も行ってみたいと、柚子は思った。
柚子は、ドアノブに出しかけた手を引っ込め、再びパイプ椅子に座った。
詩乃は眉を顰め、柚子に言った。
「授業、始まっちゃうよ?」
柚子はふふんと得意げな笑みを浮かべて答えた。
「これを読む方が大事なんです」
「今でいいの?」
「今じゃないと」
詩乃はそれを聞いた瞬間、誤魔化しようのない胸の高鳴りを覚えた。
六月末に予定されていた体育祭は、大雨による二度の延期を経て、七月の第一日曜日に、ついに開催されることになった。三度目の正直とばかり、当日の天気は快晴。蝉が気兼ねなく声を出せる真夏日となった。人工芝のグランドに照り付ける太陽はすさまじく、出し物と出し物の隙を縫って、スプリンクラーがびしびしとグランド中に水を撒く。
『吐き気やめまい、強い疲労感などのある方は、我慢せず木陰や教室など、風通しが良く、直射日光の当たらない場所で休憩をとるようにしてください。各校舎内一階は開放していますので、気分の悪い方はどなたでも、入るようにしてください。各教室にはスポーツドリンクが配布されているので、必要な方は、飲むようにしてください。また、気分の悪そうな人を見かけたら、放置せず、互いに助け合うよう、よろしくお願いします。その他健康上の問題がある場合は、グランド中央、本部横の救護テントまたは、SL棟一階の保健室までお越しください。本日は大変気温が高くなっています。熱中症に気を付けながらの競技、観戦をお願いいたします』
グランド中央の本部の横には救護テントが敷設されている。ベージュ色をした大きめのハーフテントで、中は大人五人ほどが横になれるほどの広いスペースがある。NASAで開発されたという特殊な素材を使っているため、テント内は二十度を超えず、しかも、風通しが良い。
救護テントの長いひさしの下には机が置かれ、その机には放送マイクが乗っかっている。その放送マイクの前には、詩乃が座っていた。後ろにはサングラスをかけたグラマーな白衣美人須藤教諭が座っている。保健委員の生徒の殆どは、時間を割り振られて、グランド内外を救護パトロールしているが、詩乃と数名の生徒だけは、救護テントと保健室に専属で配置されている。詩乃を救護テント専属にしたのは須藤教諭だった。朝からすでに十人近い生徒が、軽い熱中症の症状で救護テントに運ばれてきていたが、詩乃の働きによって、どの生徒も三十分も休むと、すっかり良くなってテントを出ていった。生徒以外の患者は須藤教諭がすべて担当して、そっちも重傷者は出ていない。
「私の人選に狂いは無かったわね」
詩乃が校内放送を終えると、須藤教諭はにやりと笑みを浮かべてそう言った。保健委員会の校内放送の文面を考えたのは、実は詩乃だった。毎年放送しているテンプレートの文面を渡すと、詩乃はそれの要点をしっかり拾い上げながら、自分の放送しやすい形にそれを変えてしまった。この子は、できるわねと、須藤教諭は掘り出し物を見つけたような気分で、機嫌が良かった。
「水上君、お昼は?」
「食欲ないです」
「まさか……熱中症?」
「軽い夏バテだと思います」
それは困ったわね、と須藤教諭は立ち上がり、クーラーボックスの蓋を開けた。
「点滴打つ?」
「う、打ちません!」
気軽に点滴が打てるほど、詩乃は注射慣れしてはいなかった。須藤教諭は、残念そうにクーラーボックスを閉じる。
そこへ、柚子と紗枝がやってきた。詩乃は登校すると直接保健室に行き、そこに荷物を置いて保健委員の仕事に入ってしまったため、朝教室で二人と顔を合わせることはなかった。柚子は生徒や観客の人ごみの中から詩乃を探そうとしたが、とうとう午前中は見つからず、諦めかけていた。そんな時、救護テントからの放送が流れてきたのだ。
「ヤッホー、水上」
最初に詩乃に声をかけたのは、紗枝だった。渡り廊下で話して以来、紗枝の詩乃に対する態度は、かなり軟化していた。一つには、詩乃がそんなに悪い人間じゃないとその時にわかったことが理由である。そしてもう一つは、柚子が本気で恋をしているらしい男子だから、であった。そのことについては未だに受け入れがたいと思っている紗枝であったが、半分くらいはもう、諦めている。
「放送聞いたよ」
紗枝に遅れてそう言ったのは、柚子である。
「あぁ……」
詩乃にとって、放送は別に特別なことではなかった。マイクに向かって必要なことを言っただけで、それ以外の感情は無い。それよりも今は、こんな時に柚子と会ってしまった事の方が、詩乃にとっては重大事だった。今は夏バテのせいで頭がぼんやりして、目もちゃんと明いていない。そんな姿は、柚子には見せたくなかった。
「ずっとここにいたの?」
「うん」
詩乃が答えると、その後ろから、須藤教諭が付け加えた。
「水上君朝からよく働いてくれてるのよー。私大助かりよ」
「よっ、保健委員の鑑!」
「何それ……」
よくわからない紗枝のおだてに、詩乃は辛うじて返事を返す。
「水上君、お昼は、もう食べた?」
食べてなければ一緒に食べない? お弁当、作ってきたんだ。柚子はそう言おうとした。しかし詩乃の答えは、予期しないものだった。
「食欲無くて……」
そう言って机に突っ伏する詩乃。
ガーンと、ショックを受ける柚子。しかし柚子は、はっとした。目の前の詩乃は、すごく具合が悪そうだ。目にも、いつものような力が無い。身体も華奢で顔もポーカーフェイスだが、詩乃の目にはいつも、妙な力強さがある。しかし今は、それがない。お弁当を食べてほしいと、自分の都合を考えるあまり、水上君のことが全然見えていなかったと、柚子は反省する。
「大丈夫?」
柚子は、気を取り直して、詩乃に言葉をかけた。
「うん……」
明らかに元気のなさそうな声で詩乃は返事をする。
「でも水上、ちょっとは食べた方が――」
「食べたくない時は、あんまり無理に食べない方がいいもんね」
紗枝の言葉を遮るようにして、柚子が言った。須藤教諭は、サングラスを傾けた。
「柚子、いいの?」
「うん」
こそこそと、柚子と紗枝は小声でやり取りをする。
須藤教諭が、一緒にここで食べたらと提案しようと口を開きかけた時、男子生徒の声が柚子と紗枝にかかった。
「おー、いたいた。なぁ、一緒に昼食べね?」
短髪で、程よく体格の良い男子生徒――川野と、その連れが他二人。柚子と紗枝は顔を見合わせた。ほうっと、須藤教諭はため息をつき、張りのある声で言った。
「ほら、テントの前でたむろしない。行った行った」
須藤教諭に追い払われるような形で、柚子と紗枝、そして男子トリオは救護テントを離れていった。五人が離れていく様子を、詩乃はぼんやりと見ていた。柚子の白Tシャツの背中、その隣に並ぶ、体格の良い同級生。詩乃は目を閉じた。
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