第7話 恋色リトマス紙(3)
そうしてそこに、意外な人物が立っていたので、息を呑んだ。多田紗枝である。同じ班であるため、詩乃も、紗枝のことは他の生徒よりは多少は知っていた。家が道場で、腕っぷしが強い。バトルコックとか、戦闘系料理部とか、男子からそう呼ばれたりしている。そして何より、自分のことを嫌っている。そんな女子がこんな人気のない所で声をかけてくる理由は、恐ろしいこと以外、全く浮かばなかった。
「水上、どこ行くの?」
にこっと笑顔を振りまいて、紗枝は詩乃に質問した。
詩乃は身の危険を感じながら、答えた。
「部室、だけど」
「水上、何部なの?」
「ぶ、文芸部、だけど」
「へぇ。じゃあ、小説とか書いたりするの?」
「……まぁ、書くけど」
よし、と紗枝は心の中でガッツポーズを決めた。まずは立ち止まらせて、無理やりにでもターゲットを会話に引きずり込む。一対一なら、いくらなんでも、水上とはいえ、応じるしかあるまい。
「林間学校でさ、カレー作りの時の事、覚えてる?」
「まぁ……」
「柚子の火傷」
「ちょっと大袈裟すぎたね」
「いやいや、あれはポイント高いよ」
「ポイントねぇ……」
「柚子のこと助けてくれてありがとね」
「え……」
「やっぱ、それはちょっとね、友達として言わなきゃなって思ってたんだ。あの時の水上、ちょっと格好良かった」
「いいよ、気使わなくて」
詩乃が照れ隠しに俯くのを、紗枝は見逃さなかった。再び、計画通りというガッツポーズを心の中で決める。男子は、とにかく褒める。褒めれば誰だって悪い気はしない。柚子には必要のない恋愛テクだろうが、私のようなパンピー女子にとっては必修科目だ。
「嘘じゃないよ。でも、水上って、すぐどっか行っちゃうでしょ? 皆でいるの苦手?」
「まぁ……」
「こうやって、二人で話すのは」
「まぁ、それなら……」
柱の後ろで二人のやり取りを聞いていた柚子は、そこで、焦りのようなものを感じた。詩乃の言葉の続きが気になってしまう。『それなら』何だというのだろうか。夜食の思い出が、柚子の脳裏によみがえる。あの時も二人だった。暗い森の中に二人きり。あの思い出が、薄れていくような不安に駆られる。
「水上さ、実は、彼女とかいるの?」
「え? なんでそんなこと……」
にやっと笑う紗枝。その質問はちょっと、とさらに焦る柚子。柚子は、自分でも一体何を焦っているのか、よくわからなかった。
「だってほら、気になるじゃん」
「どうでもいいでしょ」
「じゃあさ、好きな子とかいないの?」
どくん、と柚子の胸が高鳴る。雨の音が、急に小さくなった。
「知ってどうするの」
「どうもしないけど」
あ、これは急ぎすぎたな、と紗枝は悟った。本当はここで、俺に気があるのかと思わせて、さらに浮かれさせようと思ったのだが、水上には逆効果だったようだ。なぜだが、不機嫌そうである。不機嫌というより、声音も目も冷たさを増している。
「じゃあ何か、あだ名とかある?」
詩乃は眉間にしわを寄せる。これだから女の子との会話は嫌いなんだと詩乃は思う。話の要点も、目的も、全然わからない。伏線を乱発した挙句、どれ一つ回収せずに終わるミステリーのようだと、詩乃はこの手の会話を聞いているといつもそう感じるのだった。
「ないけど」
「じゃあ、私が作ってあげよっか」
「別に――」
「ミーナは?」
「ふぇ?」
間の抜けた声を出す詩乃。柚子は、しかし、その声そのものの面白さを感じる余裕は全くなかった。あだ名って何? そんな声、私初めて聞いたんだけど? なんでそんな私の知らないところを、紗枝ちゃんにはさらっと見せてるの! 柚子は、シャツの裾をぎゅっと掴む。
「水上だから、ミーナ。どう?」
詩乃は、皆の前で〈ミーナ〉と声をかけられる自分を想像した。すぐに、最悪だと思った。女の子っぽいからミーナ。華奢だからミーナ。どっちにしても、それを呼ばれた後は、いたるところでケラケラと、笑いものにされている映像しか思い浮かべることができない。他人にどう思われようと構わないが、そうは言っても、人の醜い感情に晒されるのは、嫌な気分になる。とはいえ、もうすでにこの女子は自分をからかおうとしているようだから、手遅れだろう。やっぱり多田さんは、自分のことが嫌いなんだ。
もう、勝手にしてくれと詩乃は思った。
「……呼びたきゃ、勝手に呼べばいいよ」
ひょおおっと、紗枝は急に、真冬の風に煽られたような気がした。冷たい声と、乾いた眼差し。紗枝は、自分の本質的な醜さを指摘されたような気がして、思わず呼吸を止めてしまった。
「う、嘘嘘、呼ばないよ。あだ名は、嫌いなんだね、ははは……」
何とかフォローする紗枝。なんでこんなに不機嫌になるの、と驚いてもいた。柚子の気持ちを確かめるための実験で、自分が言い出したことではあるが、なんで水上に、こんな気を使わなきゃならないのよと、遅れてそんな不満を覚える。
「――でもちょっとね、水上と、話してみよっかなって思って」
完全な作り笑顔を浮かべる紗枝。それを、疑惑の目で見つめる詩乃。
「ほら、私って、知ってると思うけど、暴力系じゃない?」
「暴力系?」
詩乃は突然紗枝の口から飛び出してきた言葉を繰り返し、思わず、くすくすと笑ってしまった。女子高生をタイプ分けするという発想はわかるが、それに暴力系というグループがあるとは知らなかった。
「だから、誤解されちゃうこと多いんだよね」
「あぁ、そうなんだ」
あれ、と紗枝は思った。急に水上の緊張というか、敵対心のようなものが綻んだような気がする。少し笑ってるし。
「多田さんも、大変だね」
そんな労いの言葉を、詩乃は自然と口にする。突然励まされて、紗枝は、この男子は本当に、やっぱり全然わからないなと思った。そして、思っていたより、嫌な奴ではないかもしれないとも感じるのだった。
「――皆で話すのは苦手だけど、こういう感じだったら、話せるよ」
「なんか、水上の事、私ちょっと、誤解してたかも」
そう言う紗枝に、詩乃は微かな笑みを浮かべて言った。
「いいよ、誤解してても。打ち解けようとしない自分のせいだから」
詩乃はそう言うと、会話を一方的に終えて、CL棟に入っていった。やっぱり変わった男子だなぁと、紗枝はその背中がCL棟の玄関口から消えるのを眺めていた。詩乃の気配が消えると、柱の陰から柚子が出てきた。
「さて、それで、柚子、何か――」
気持ちの変化はあった? と聞こうとした紗枝だったが、言葉を言い終える前に柚子に正面から抱きつかれ、驚いてしまった。
「何、どうしたの!?」
「紗枝ちゃん……」
「う、うん? どうした?」
紗枝は柚子を抱きとめ、ぽんぽんと背中を、あやす様に叩いた。雨で寒かったのだろうか。シャツにも髪の毛にも雨粒が付いている。
「――ら、ないで」
「え?」
小さな柚子の声。
紗枝が聞き返すと、柚子は顔を持ち上げて、下からすくう様に紗枝を見つめていった。
「水上君、取らないで!」
「ええぇ!?」
予想外の反応に驚愕する紗枝。これは何かの冗談だろうかと、思わずあたりをきょろきょろしてしまう。
「なんであだ名とか付けるの! ずるい!」
「ちょ、ちょっと柚子!?」
「笑わせたりするの!」
「えー……」
紗枝は、こんな柚子を見るのは初めてだった。我が儘とは縁遠い、駄々をこねないことで有名な思いやり女子である新見柚子。そんな柚子が……。
柚子の反応と、そこから導き出される結論を認めたくない心情によって、紗枝の思考はフリーズしてしまう。紗枝は、詩乃との会話の後、あっけらかんと出てくる柚子を想定していた。『ね、水上君って面白いでしょ、紗枝ちゃんも友達になってみなよ』とか、そんなことを言うはずだろうと思っていた。
ところがこれは――。
「マジ、で……?」
柚子の頭を撫でつけながら、紗枝は大きく息を吸い込んだ。
ギュ、ギュ、ギュ、シャッ。
ギュ、ギュ、ギュ、シャッ。
印刷機がA4用紙に文字を刷り、排出する音が部屋に響く。十ページ、約一万文字の短編。題材は〈猫〉。たった十枚が印刷されるのが待ち遠しく、詩乃はホッチキスを片手に印刷機の前でうろうろしながら、印刷が終わるのを待っていた。
やっと印刷が終わると、詩乃はすぐに、ミスプリントがないかをざっと確認し、十枚をまとめた。パチンと、用紙の右上の角にホッチキスを打つ。この瞬間の達成感は、ランナーがゴールテープを切った時のそれと等しい。
柚子が文芸部部室の扉を叩いたのは、ちょうど詩乃が、達成感を一人堪能している時だった。入っていいですか、という声。詩乃は、その主がすぐに柚子だとわかった。
「どうぞ」
いつもより大きい声だなぁと思いながら、柚子は扉を開けて部屋に入った。
「いやぁ、雨だねぇ」
開口一番露骨な話題作りをする柚子に、詩乃は不意を突かれて小さく笑った。部室にまでやってきてそれは無理があるだろうと思ったのだ。とはいえ、柚子がここに来る理由が、詩乃にはまだ全くわからない。単に面白がっているだけ、というのが、今のところ詩乃の中では最も信憑性の高い説だった。
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