第二十一話:過去の自分なんていらない
気付いたら窓から朝日が差し込んでいた。いや、もう朝日とは呼べなくなるくらいの時間になっている。
凪沙の家を出てからいつの間にか俺は自分の部屋のベッドに横になっていた。
あの部屋で吸っていた空気が今更鉛の様に身体を蝕み全身にダルさを生じさせているようだった。そんな状態でも一睡もできず、戻ってきてから俺はずっと時折乾いて痛くなる目を瞬きで湿らせつつ白い天井を眺め続けている。
昨日のことを思い出していた。
わざわざ毎日二回食べ続けてまで練習して振る舞ってくれたオムライスと嬉しそうに浮べた笑顔。嫌悪感という自身のことを話す時の寂しげな笑み。信じた俺を誘ってきた妖艶な微笑。好きだと伝えてくれた時のはにかみ。そして信じてきたものに裏切られた怒りと悲しみに震える声。
その全てが俺に向けられていた。たった数時間の中で凪沙がみせた感情だった。こんなことになったせいか、温かくて甘くて優しい時間が長かったなと心が痛くなる。笑顔のまま終われたのならどれだけ幸せだったのだろうと思いながら、そのあり得ない理想を浮べた自分が虚しく思えた。
どうしてまだ俺は死んでいないのだろう。凪沙の家から帰ってきたと言うことは電車に乗ってきたはずだ。ならその時に電車に乗らず飛び降りていれば死ねたはずなのにどうしてそうしなかった?
凪沙の自殺の理由を知って、なおかつ彼女のやりたいことも手伝えなくなった今の俺はそれこそもう生きている意味なんてない。昨日で全てを終わらせて死のうと決めたのだからそうすればいいだけなのに、どうしてそうしていないんだ。
周りの人の迷惑を考えていたから?
そんなわけがない。凪沙一人傷つけることすらよしとした俺が他の人の事なんて気にかけられるはずがない。
なら、どうして?
そんなのは決まっていた。俺がまだ死んでいない理由は凪沙のことをこのままにしたくないからだ。俺にそんなことを言う権利がなかったとしても、彼女をこのままにするわけにはいかないんだ。彼女のことが好きだと認めてしまったから。
このままだと凪沙はまた死ぬ道を選ぶかもしれない。唯一心を開けて全てをさらけ出せると思えた相手に裏切られたせいで人になりかけていた少女は再び嫌悪感という存在に戻ってしまうかもしれない。そして今度こそ誰にも心を許せなくなって絶望の底に沈みこんで自殺を選んでしまうかもしれない。
元がその精神状態だったのだから、最後の希望と期待してものから突き落とされた今、また自殺という選択をする可能性はいくらでもある。
それだけは絶対にダメだ。
例えやりたいことの手伝いができなくなっても、拒絶されたとしても、俺はこの先凪沙に生きていて欲しいと思う。本当は死ぬことを期待していたなんて言ったくせに、彼女は死んではいけない女の子だと今は本気で思っている。
でも俺に何が出来る。二ヶ月間ずっと彼女を騙し続けていた俺は一体どうすれば生きて欲しいと伝えることが出来る。
凪沙はもう俺のことを信じていないはずだ。いや裏切ってしまった時点で信じられているわけがない。どれだけ生きていて欲しいなんて言葉を重ねたところで上辺だけの言葉にしか感じてもらえず届きそうにない。そんな彼女にどうやってこの気持ちを伝えればいい。
そもそも仮に俺の言葉が届いたとしても凪沙は生き続けることが出来るのだろうか。
凪沙は俺の中に生きる意味を見出した。俺という存在がいれば、生きてもいいと思えると言ってくれた。
凪沙に生きていてもらうのなら俺が生きていることが一つ前提となってしまう。そんな覚悟を一つ持てない俺が、生きなければならない。
でも俺は死ぬ。ずっとそのつもりでいたし、こんなことになった今でさえまだ死にたいと思っている。彼女に死んで欲しくないと思いながら自分が死にたいという気持ちは残っている。
「どうすればいいんだ……」
悔しさと苛立ちを噛み締める。
どうして俺が生きる前提が出来上がっているんだ。
いや、嘆くのはそっちではない。
どうして俺はこんなにも生きる覚悟を持てないんだ。この先、空虚な時間が続くと分かっていながらそれを回避してなんとかしようと思えずに死ぬ道ばかり見ることしかできないんだ。生きるための力を得ようとしないんだ。
マットに打ち付けた拳が身体を揺さぶった。
その拍子にふと、視界の端が光った気がしてそちらに目を向けた。そこにはヘッドホンが繋がった電子ピアノがスタンドに乗っていた。
『もし自分の気持ちがどうしようもなく分らなくなった時はピアノを弾いてみるといいかもしれないよ』
いつの日か言われた森住先生の言葉が蘇った。
静かに、それでいて強い衝動が生まれた。その予感に引かれて重い身体を起こす。それだけで息が切れそうになった。
思い返せば行き詰まった時にはいつも先生に助けられていた。勝手に凪沙の事を話してその度にヒントか答えをくれた。今もまた先生に手を引かれるようにピアノに向かっている。心のどこかで正しい行為だと思えていた。
ヘッドホンをつけて椅子に座り、電源を入れる。
今弾ける曲は一曲しかない。左手の一音目から三分程度の楽曲を始める。弾きながら右手の音と左手の音、そして自分の内側へと耳を傾ける。
俺の気持ちはなんなんだ。どうしてこんなにも俺は生きることを拒絶している。
自分に向けた死に向かう感情を指に載せて鍵盤をなぞる。苛立ちと憎しみと惨めさと情けなさを曲にぶつけていく。
一周終わってすぐにもう一周繰り返す。何も曲からは感じられないまま三周目を弾いていく。
何度繰り返してもなかなか曲は俺の心を映すようには思えなかった。右手も左手も相変わらずズレ続けていて聴くに堪えない酷い演奏が続いていく。
どうして自分の気持ちを感じ取れないのだろう。空っぽな俺には気持ちらしい気持ちがないのか。そんなことはないはずだ。死にたい想いと凪沙への気持ちは間違いなく存在している。苦しいくらいに胸の内を跳ね回っている。
なのにどうして自分の演奏からは何も感じられない。曲の、音の声ばかりで俺の声も感情も何も聞こえてこないのはなぜだ。
「お前は俺を受け入れてくれないのかよ!」
何周も弾き続ける内にたまらなくなって、とうとう鍵盤に拳を振り下ろした。ジンとした痛みが右手に走り、耳障りな不協和音が耳に突き刺さる。ざまあみろと笑われている気がした。その嘲笑のような不快な音もやがて消えて無音が耳を覆う。それでも耳にはずっと不協和音がこびりついていた。
愚かだ。あまりにも愚かすぎる。自分のことが分からないからと勝手に鍵盤に縋っておきながら答えをもらえなければ八つ当たりして、その音に苛立っている。自分の思う通りに事が進まず喚くだけの子供がここにいた。
『そんなことばかりしていると何も聞こえなくなってしまうよ』
かすかに先生の声が聞こえた。つい一昨日聞いたばかりの言葉が重くのしかかってくる。
『勘違いしてはいけないけれどどんな状況でも気持ちを抑えつけられるのが大人じゃないよ。どれだけ辛いことだとしても抱いた気持ちを受け入れられるのが大人なんだ』
まさにその通りだった。
自分自身から目を背けてきたのは自分だろ。凪沙を傷つけることになると分かっていながら向き合うのが怖いからって自分の感情を見ないようにしてきたのは自分だろ。受け入れることから逃げ続けていたのは俺の方だろ。それなのに今更自分の気持ちを教えてくれだなんて虫がよすぎるんだよ。
間違えてきた過去の行いが耳栓となって自分の内から発せられている声を遮断しているみたいだった。
俺には俺の声が聞こえない。こんなことやっていても無意味なんじゃないか。
「……違う、そうじゃない」
この期に及んでまだ俺は怖がっているんだ。自分自身を知ることが。また諦めようとしていた。でもそんな場合じゃない。もう、途中でブレて陥る後悔なんて繰り返さない。
鍵盤から拳をあげて改めて指を這わせる。
音の声は聞こえている。自分が苛立っている事も自分に対する憎しみを抱いていることも分かっている。だから自分の声はちゃんと俺自身に届いているはずなんだ。
でもそれが聞こえないのなら 聞こえさせないようにしているのは過去の俺じゃない。今の俺だ。今の俺自身の問題のはずだ。
『その人が抱いた以上それは紛れもない正しい気持ちなんだよ。例えどれだけ周りから理解されず、かつ受け入れがたいものだったとしてもね』
先生の言葉を思い出しながら音を聞く。自分が抱いた気持ちなんだ、かつて抱いたものだとしてもそれは正しいものだと肯定してやるんだ。必要以上に怖がる必要は無い。
杜子春も自分の方から愛を与えていかなければ自分にも愛は返ってこないと行き着いた。
なら俺も俺の方から昔の俺に歩み寄るべきだ。俺が昔の自分を受け入れると手を差し伸べて語って貰うしかないんだ。そうやってこの鍵盤に、この曲に受け入れて貰わなきゃいけないんだ。
強く頭の内側を意識しながら指を動かす。
少しだけ、ほんの少しだけいつもと音が違う気がした。
その微妙な変化に耳を傾ける。
もし今、俺がほとんど何も聞こえていないと思っている瞬間も本当はこの曲は俺の感情を奏でてくれているとしたら、それが聞こえないのは生きることを怖いと思っているからだ。その恐怖から聞こえないふりをしているだけだ。怖いという気持ちが心にフィルターをかけてしまっているんだ。
だからそれを抜けて内側にいる自分に手を伸ばせ。
思い直して一回二回と、三回四回と何度も繰り返して弾いていると段々心と身体の境目がなくなっていくような気がした。俺自身が音そのものに変わっていく、そんな不思議な感覚に包まれていく。
そしてその意識の先で薄らと見え始めた。
俺が生きるのが怖い理由が、何も積み重ねることが出来なかった理由が、自分の居場所を社会の中に作れなかった理由がゆったりと俺の方に近づいてきて溶け込んでくる。
その近寄ってくる俺の気持ちの手を引くように俺は自分の意識をそれらに向けて音にしていく。右手と左手が奏でる音は互いに絡み合い、一つの曲を形作っていく。
そうして完全な調和が取れた時、とうとう受け入れられなかった自分の事が分かった。
「結局俺は、過去に縋り続けていただけなんだ」
最後の音を奏でた五指を鍵盤からゆっくりと離す。
見えた自分の正体は可哀想になるほど滑稽で哀れなものだった。今まで思っていたよりももっと深刻に惨めで救いようがなかった。
でもそんな自分と向き合うことが出来て改めて分かった。
ここまで惨めな俺だからこそ、そんな俺とは違うのに自殺なんて選択肢を頭に浮べてしまった凪沙を何があっても助けたい。
例え自分が生きることになったとしても、どうしようもなく好きだから。自分がいくら勝手に苦しんで傷つこうがそれでも彼女のことが好きだから。
そのために今の俺に出来ることはなんだ。どうしたら凪沙に生き続けてもらうことが出来る。
「気持ちを……俺の全てを伝える」
生きて欲しい。それだけじゃなくてその想いにたどり着くまでの全ての俺の気持ちを伝えたい。今度こそその場凌ぎの誠実さではなく、腰を据えて自分の中にあるものを全て伝えれば凪沙にも声が届くかもしれない。
俺は凪沙の中にある想いを話してもらっているうちに自分の目的が霞んでしまうくらい凪沙に入れ込んでしまったのだ。その彼女の想いに触れる内に自分の中の凪沙の存在が大きく意味を変えていた。
なら俺も、この二ヶ月間で彼女がしてきてくれたみたいに全てを伝えることが出来れば、少しくらいはあの子にも声が届けられるかもしれない。いや、今まで隠し通しで騙す形になっていた分、何もかも全てを伝えきってやる。綺麗な上辺だけではなくて俺の汚いところも痛いところも都合の悪いと思えるところも全て、生きて欲しいという熱情に繋がる何もかもをさらけ出す。与えられた分くらいは返さないといけない。
それは凪沙にとっては迷惑かもしれないし、ただの俺の自己満足かもしれない。でも何もしないよりはよっぽど効果があるように思えた。
もしまだ凪沙の中に生きたいという気持ちが少しでも残っているのならきっと届くはずだ。
ピアノの電源を消してヘッドホンを外し立ち上がる。窓からの景色はいつの間にか薄暗くなっていた。一体、三分程度の曲を何度繰り返していたのだろうと呆れた。
そして「行かなきゃ」呟いて部屋を出……ようとして、まだ昨日のパジャマにジャケット姿だということに気が付いた。流石にこのままでは行けない。
急いで着替えて家を出た。
駅に向かう途中、走りながらふと思った。
凪沙が現実を重ねた杜子春の中で俺は何かになれるのだろうか。もしなれるのだとしたらそれはやっぱりその物語は悲惨な終わり方をしてしまうのだろうか。
関係無いように思えるそんなことを、俺は凪沙の家に着くまでずっと考えた。
息を整えながらオートロックの操作盤にある部屋番号の後に呼び出しボタンを押すと、少し時間をおいてから反応があった。
『……何しに来たの』
機械を通した声は聞いたことないくらいにガサガサと掠れていた。
それでも応答してくれたことでまだ生きていると分かって安心した。来る途中もスマホからメッセージは飛ばしていたけれど既読にすらならなかった。ミュートにされただけだと言い聞かせながらもとても心配だった。一先ず最悪の事態が避けられているだけでも十分だ。
でもまだ話が出来るかは分からない。今は呼び出しに応じてくれただけで俺を部屋に通してくれると決まったわけじゃない。
「凪沙と話したいことがあるんだ」
『……私にはないわ』
「かもしれないけど、俺にはどうしても伝えなきゃいけないことがあるんだ」
『そう』
「自分勝手なのは分かってる。でもこれは絶対に言わなきゃいけないことだから、開けて欲しい」
『…………』
機械の向こうの凪沙は押し黙った。呼吸音一つ聞こえない。
開けるかどうか考えてくれているのだろうか、それとも開ける気はなくすでにモニターの前から立ち去ってしまったのだろうか。操作盤についたマイクとスピーカーを見ているだけでは知ることは出来ない。
不安になっていると聞き逃しそうになるほど小さな声がした。
『少し待っていて。行くから』
「ありがとう」
ホッとして頬が緩んだ。凪沙と顔を合わせられることがただただ嬉しかった。同時に気持ちを届けきることが出来るのか不安でもあった。
部屋に迎え入れてくれた凪沙の目は濡れていてその周りは真っ赤になっていた。直前までどうしていたのかは想像に難くない。ただ、二ヶ月前と同じように表情は一切変わらなくなっていた。完全に信頼を失っていることはそれだけで分かった。
ダイニングテーブルを挟んで向い合うように座る。昨日と同じ席でありながらその前にはテーブル以外何もおかれていない。自分が作った状況とはいえその温度差に寂しさを覚える。
「話ってなに?」
座るとすぐにしわがれた声の凪沙が睨みながら口を開いた。一分一秒でも話を早く終わらせたいのかもしれない。
その声に少しだけひるみそうになりながら俺は真っ赤な鋭い視線を見つめ返した。
「俺は凪沙に生きて欲しい。絶対に死んで欲しくない。そう伝えに来た」
「昨日は死ぬことを期待していたって言ったのに?」
「うん、そう言ったことは否定できない。でもそれは俺が弱かったからだ。生きる覚悟が出来ていなかったから。少なくとも君に向けていい言葉じゃなかった。本当にすみませんでした」
「……今更よ」
「……そうだね、どんな言葉を重ねても今更でしかない。凪沙に八つ当たりするみたいに最低なことを言ってしまったことは変わらないそれを取り消すことは出来ない」
俺は凪沙を見つめて言った。そう分かっているからどれだけ今更だとしても今の俺にはそれしか出来ない。
凪沙は特に反応することなくジッと見つめてくるだけだった。話すことを許されたと思って続ける。
「まず、昨日言ったことは本当なんだ。俺が三十歳になった日に自殺をして、なぜか意識が高校生の自分に戻ってきたってこと。だからその原理も理由も分からないけれど、今の俺の中身は十七歳じゃない」
「……そんなこと信じろって言うの?」
「信じてもらえなくても本当だとしか俺には言えない。凪沙に自殺を考えているって言われた時に驚かなかったのは、凪沙が自殺をした事を知っていた三十歳の自分が中に入っていたからだっていえば信じてもらえるかな?」
「…………」
凪沙は悩むように目を細めた。その間も警戒するように俺から視線を外すことはしなかった。
「信じるとしてどうするの?」
「俺のことを話したい」
「聞きたくないって言ったら?」
「その時は諦める。けど、凪沙に生きる続けることだけは約束してもらう」
「……とりあえず話をして」
やはり凪沙の頭の中には再び死ぬという選択肢が出てきているらしい。それが悔しかった。それでもまだ生きてくれていると言うことは凪沙の中に辛うじて生きたいという気持ちもあるのだろう。安心はできないながら希望は残っている。その頼りない凪沙の生への想いに向けて切り出す。
「俺の人生は良い人生じゃなかった。高校受験も文理選択も大学受験もそして就職も、全部自分としっかり向き合わずにその場その場で楽な方を選んできた。そのせいで最後には自分に自信もなければ出来ることもなくなっていたんだと思う。専門的な道に進まなければ後から潰しは効くだろうって自分に言い聞かせて無難と思える楽な道を進んでいる内にいつの間にか選択肢がなくなったんだよ。本当に馬鹿だよな」
凪沙は特に表情を変えずジッと睨むような目で話を聞いている。何を聞かされているのかと不満を持っているかもしれない。
それでも少しだけ我慢して欲しい。
「大学卒業後そのまま地方公務員になれたけど、その仕事は町の人から怒られるか上司から説教を受けるか、そんな毎日が続くだけだった。別に俺じゃなくても誰でも出来る事をただひたすら繰り返して謝るだけの日々を過ごしてさ、なんのためにこんなことやっているんだろうって思っていた。そのうちに昔はもっと色んな事が出来たはずだし、選ばなかった選択肢を取っていたら今よりももっと活躍できる人になれているかもしれないって、名前のある何ものかになっていたかもしれないってそんな幻想に縋って現実から逃げるようになった。何もない自分を受け入れられなくて、受け入れるのが怖くてずっとずっと現在に目を背けて過去あったはずの捨ててきた可能性にばかり目を向けていた。目の前の小さな事や自分の気持ちを理解することすらも拒絶して自分の内側に引きこもった。どうしても現実と、今という時間と向き合うことが怖くてその瞬間瞬間を見ることが出来なくなっていたんだ。そんなことをしていたせいで俺は中身のない人間になっていて社会の中に居場所を見失った。そして自殺することを考えた」
一度大きく息を吸って吐き出した。話していて気持ちの良いものではなく、息が詰まりそうになってきていた。凪沙は何度もこんなことをしてくれていたのかと思うとなぜか泣きそうになった。負担ばかりを強いてしまっていたのだと改めて気付かされたからだろうか。
呼吸を落ち着けて続ける。
「そんな時、凪沙が自殺したことを思い出した……いや思い出したって言うのは少し違うな。十七歳の時に凪沙が亡くなってから十三年間ずっと凪沙のことを忘れたことはなかったから。高校生の時から俺は凪沙が好きだったんだ、凪沙の嫌がる一目惚れだったけど。でも、だから毎年冬になると凪沙の事を思い出してどうして自殺したのかって考えていた。でも俺の頭に自殺が浮かんでからは凪沙が亡くなったことへの感じ方は少し変わった。苛立つようになったんだ。どうして自分みたいな惨めな人間じゃなくて、何でも持っていそうな凪沙が自殺しているんだ、馬鹿にしているのかって。無茶苦茶なこと言っているけど本当にそう思ったんだよ。そのせいで凪沙の事が好きだという気持ちが少し拗れていった。身勝手な苛立ちと憎しみが好きという気持ちに加わった。それもあって一度だけ君を思いながらその苛立ちをぶつけるように自慰行為をした」
流石に凪沙も気持ち悪いと思ったのか「じっ……」と口走りそうになりながらピクリと顔をしかめた。失望具合が昨日よりも悪化したかもしれない。それでも全てを話すならこれも必要な話だった。どれだけ評価が落ちようが俺の全部を知ってもらいたかった。いや、話さなくてはならなかった。中途半端じゃ凪沙の心には触れられない。
「言われても迷惑かもしれないけど最悪だった。その後罪悪感で吐くしそもそも大して気持ちよくなかったし。でもそんなことをしてしまったくらい、良くも悪くも凪沙のことが頭にあった。それからは毎日考えるようになったよ。どうして凪沙は自殺したのかって。もちろん誰も理由を知らないし、遺書も残していないみたいだったから本当に謎だったんだ。一つだけ分かったのは凪沙が手首を切って死んだと言うことくらいだった。だから俺も自殺をする時は風呂場で手首を切って死んだ。そうすれば少しは凪沙の気持ちが分かると思って。まぁ結局分からないまま俺は死んで、なぜだかこの時代に戻ってくることになったんだどね。それからは自殺した理由を聞くために凪沙に近づいて騙して利用した。それを知ることが出来れば今度こそちゃんと俺は死ぬことが出来るんじゃないかって、凪沙を死ぬための希望にした。それ以降は凪沙も知っている通りだよ。君にいい顔をし続けて昨日、自分勝手に傷ついて君も傷つけた。最悪な奴だよ」
話が一区切り着いて凪沙を見つめてみる。一気に長く話しているせいで言葉が出ないのか黙ったまま口を開く様子はない。
このまま話し続けていいのか聞くべきかどうか少し迷って、そのまま続けることにした。万一ダメだと言われたら困るしなによりここから先の方が俺は凪沙に聞いて欲しかったから止めたくなかった。
「でもまたここに戻ってきて凪沙と過ごせて一つ気付いた、諦めることと受け入れることは違うって事に。今まで俺はただ諦めていただけだったんだ。自分自身の弱さを、選択を後悔したことを、何も積み重ねられないことを受け入れたつもりになって、その実本当は諦めていただけだったんだ。凪沙みたいに自分自身とこの世界のあり方を受け入れて生きようとしなかった。君みたいな強さを俺は持てなかった。でもそれに気付けたから、凪沙が気付かせてくれたから居場所は作れないかもしれないけれど、自分のせいで苦しい未来ばかりが待っているかもしれないけれど、それでも生きていなきゃいけないって思えるようになった」
諦めることと受け入れることは少ししか似ていない。ある状態を呑み込むところまでは同じでもそこからその場で膝を抱えてうずくまるのか、それとも這ってでも前に進むのかで大きく変わるのだ。
立ち止まることを受け入れるとは言わない。少しでも進めるのなら諦めるとは言わない。そんな簡単なことさえ俺は凪沙に気付かされるまで分かっていなかった。
もし昨日、あのまま流されて凪沙と目合っていたら、きっとそれは受け入れたのではなく諦めただけになっていた。それは本来凪沙の望むところじゃない。だから最悪な機能の中でもそこだけは良かったと思う。
「だから凪沙にも生きていて欲しいって思うんだよ。確かに最初は、この時間に戻ってきてしばらくはずっと凪沙が自殺するのは当たり前だと思っていたしそうなることを望んでいた。でも凪沙を知っていく内に、理不尽に巻き込まれて死のうとしているだけだって知ってからは生きていて欲しいって、絶対に死んでいいわけがないって思うようになった。だから最低限俺は凪沙の居場所を作ってみせる。例えそれが俺じゃなくても凪沙のことを受け入れて居場所になれる人を必ず作ると約束する」
平等が好きそうな、差別が許せずに凪沙に対抗心を燃やす花村ならきっと他の人よりも凪沙という人間を理解して受け入れてくれるはずだ。そして花村にそれができれば彼女を中心に凪沙の居場所は広がっていく。だから俺は花村に凪沙を頼むことにする予定だ。
そして。
「もしその後で凪沙が望むなら俺は死ぬ。どうしても俺のことが許せなくて二度とこのクソ野郎の顔を見たくないから死んで欲しいというなら喜んで死ぬと約束する」
これは死にたいという気持ちがあった俺の逃げの選択じゃない。できることなら凪沙の隣で生きていたい。そんな我が儘を俺は持っている。だからこの死は目的ではなくて手段として使うものだ。凪沙が生きるために俺の命を消すことが必要ならするというだけの話なのだ。
凪沙を騙して、その心を弄んで裏切った罪を償うにはそれくらいが丁度良い。凪沙がそれで満足するなら俺はそれを受け入れる。本来はもう死んでいるはずの命なのだ、凪沙のために使えるのならどんな使い方になろうが構わない。
「……どうして?」
それまで口を閉ざしていた凪沙が掠れた声を出した。信じられないものでも見るような、怯えたような目を向けてくる。
「どうしてそんなことまで言うの?」
「凪沙の事を愛しているから」
「愛……?」
凪沙の声は初めてこの世界を瞳に映した子鹿の脚のように震えていた。
その生まれたての顔に俺は頷いて答えた。
「俺は凪沙へのこの気持ちを愛って呼びたいんだ」
「呼びたいって……?」
「多くの気持ちが束ねられた感情に名前をつけることを、そうやって言葉にして説明できるものを増やすことが成長というらしいんだ。だから俺は凪沙への気持ちを、勝手にねじ曲がって憎しみや苛立ちや怒りが入り混じった好きだという気持ちを、君に向けることに負い目を感じるこの好意を、自分勝手に傷つくから受け入れられなかった恋心を、言う度に苦しくなっても伝えたい想いのことを愛って呼びたいんだ。誰しもが使う普通の愛の意味とは違ったとしても、俺はこの気持ちを愛って名前にしたんだ」
「……」
凪沙に対してこんな言い方はきっと卑怯なんだと思う。それでも俺は自分のこの気持ちに愛以外の呼び名をつけられなかった。これほどふさわしい単語を俺は知らないし作り出すことも出来ないから。
無言で見開かれた凪沙の目は艶やかな光を帯びていた。
その心の奥まで見えそうなほど透き通った瞳に向かって、届けと祈って言い放つ。
「俺は凪沙の事を愛しているから絶対に君には生きて欲しい。そのためなら俺は何でもする。だからもう死ぬなんて思わないでくれ」
俺の中にあった愛という感情を伝えきると凪沙は呆然とした表情になった後、眉を震わせて俯いた。
「本当に史仁君は身勝手だ」
「そうだね、反論の余地はないよ。でもそれが俺だから、君が生きるために受け入れてくれると嬉しい」
「……話はそれだけ?」
震える眉の下にある目だけをこちらに向けてきた。
俺は首を振って見つめ返す。
「いや、あと一つだけしたい話がある」
「何を?」
「杜子春はやっぱり優しい終わり方をするってこと」
突然話が飛びすぎたせいか、凪沙は怪訝な面持ちになった。
俺は来る途中、気になって考え続けてたどり着いた一つの解釈を伝えておきたかった。
それは俺と凪沙にとってはとても重要な事だった。俺が最初に触れた凪沙の世界で、そして彼女が自分を重ね合わせている杜子春の物語を覆すことが必要なのだ。
凪沙の作った杜子春というジグソーパズルのピースを外して新たに組み替えていくように口を開く。
「凪沙の言ったみたいに影から掘り起こす事で記憶と感情を金に換えていたのだとしても、鉄冠師はそれらを浪費させたかったんじゃなくて財産に、糧にして生きて欲しかったんだよ。ただ杜子春が使い方を間違えすぎたせいで失ってしまっただけで、本来の鉄冠師のメッセージはそっちだったんだ」
言わずもがな金は財産だ。そして人の持つ記憶や感情もまた無形の財産として人の中に蓄積されている。そして杜子春はそれまで自分が積み重ねてきた分の自分の財産を形あるものとして掘り越した。目に出来る状態なら限りがあるものだと理解しやすくて大切に使えるだろうという鉄冠師の意図があったのだと俺は思う。無形の愛の重要性を説いた鉄冠師ならそう言っても不思議じゃない。
ただそこで鉄冠師が杜子春に伝えようとした無形の財産はそれだけではない。
「もし三度目、あのまま鉄冠師が影を掘り起こさせていたとしたらどこだった思う?」
凪沙は眉をひそめたまま「お腹かしら?」どうでもよさそうに言った。
「俺もそう思う」
「だったら何?」
「腹部には人間の本能が詰まっている。そこは記憶と感情とは別に身体に刻まれた食欲や性欲っていう本能を、人としての在り方を、幸せを確かに司っているんだ。セロトニンってあるでしょ、幸せな時に出る脳内物質。そのほとんどは腸で作られているから」
人の生殖機能を司る器官は男女問わず腹部に集中している。そしてその近くで幸福を感じさせるホルモンは作り出されている。それは偶然ではない気がする。腹部にこそ頭でも心でもない、本能が宿っているのだから。
「だから鉄冠師は最後の最後に本能を糧にさせようとしていた。そこまで来れば流石の杜子春も気付けるだろうって願って」
「仮にそれが正しいとしても、最後に鉄冠師が杜子春を洛陽から引き離そうとした理由は? 騙す目的以外であるの?」
「それは凪沙が言った通り、洛陽に人がいなかったとするならむしろ納得がいくよ」
「……どういうこと?」
「洛陽に人がいなかったからこそ、鉄冠師は人間である杜子春を人のいない場所から引き離して幸せを積み重ねるための家を差しだしたんだ」
周りに人がいなければ愛を差し出す相手もいない。だから凪沙の解釈である人のいない洛陽に人間である杜子春がい続ける必要は無い。それは鉄冠師が与えた愛の形の一つなのだ。
その根拠は一つだけじゃない。
「そこには桃が咲いていたよね」
凪沙は曖昧に頷いた。そこまで自分の解釈と世界の見え方に深く関与していないところは詳細までハッキリ覚えていないのかもしれない。でも俺は何度も何度も凪沙を理解しようと読み返していたから覚えていた。
「桃は不老長寿と邪気払いの効果がある仙花だ。それが咲いた場所が全てを悲劇で終わらせる場所だなんてきっとあり得ない。希望がなきゃいけないんだ。だからやっぱり杜子春は……いや、凪沙が現実と重ね合わせた無慈悲な物語は、本当はとても優しい話なんだよ」
どうしてもこうやって否定したかった。凪沙が絶望を詰め込んだその世界の結末が優しいものなら、この現実にだってどこかに優しさがあるって信じてもらえるかもしれないから。俺と凪沙を繋ぐきっかけになった杜子春だから、それをするだけの力があるって思えたから。
俺が言い終わると「……そう」凪沙は困ったように鼻の頭にしわを寄せた。
「今後こそ話は終わり?」
「うん、終わり。ただ最後に一つ約束して欲しい」
「何を?」
「この先凪沙が生きていくのかどうか、そして俺に死んで欲しいのかどうか決まったら教えて欲しい。少なくとも何も言わずに一人で死ぬのだけは止めて欲しい」
見つめ返すと凪沙は軽く下唇をかんで視線を逸らして「分かったわ」と呟いた。
「ありがとう」
「ただ少し考える時間をちょうだい。いきなりこんなこと言われても話が上手くまとまらないの」
「もちろん、待つよ」
俺は笑顔を作って頷いた。今の笑顔はぎこちなくもなく、自然に笑えていたはずだ。彼女の同意が素直に嬉しかったから。
「連絡がなければまた君の誕生日にここに来るよ」
こう言えば、もし凪沙がどうしても死ぬことを選んだとしても誕生日が来るまでは生きてくれるような気がする。元々その日に死のうとしたのは両親に対する当てつけだと言っていたくらいだ、俺に対しても同じように考えるだろう。駆けつけた俺の目の前で死ぬのが一番俺にダメージを与える事になるから。
もちろん、そうならないことが一番なのだが。
「それじゃあ押しかけちゃってごめん。次に会う日を待っているから」
「……えぇ、それじゃあ」
視線を合わせることなく囁くように言われた挨拶に、俺は立ち上がり、そして部屋を出ようとして「凪沙」と振り返って言った。
「期待してるから」
「……」
返事はなかった。でも伝えられただけで良かった。
そのまま見送られることなく靴を履き替えて玄関を出る。途端に冬に入ったと実感できる夜の風に当てられて身体が震えた。自分のことを全て語ったせいで変に昂ぶった気持ちが一瞬にして冷やされていく。
達成感はなかった。ただ強い不安と期待の入り混じる感情が血に乗って全身を巡っているようなむず痒さが広がるだけだった。
後は信じて待つしかない、入月凪沙を。彼女の生きたいという気持ちを。そして身勝手な俺の気持ちが届いたことを。
あとは凪沙から連絡が来るまで俺なりに出来ることをやっておこう。次に呼ばれるのが彼女の誕生日になってもいいように。その時に生きることにするという答えをもらえることを信じて。
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