第二十話:希望なんていらない




 つい先ほどまで史仁君が浸かっていた湯船に身を沈める。

 それを意識しているせいなのか、それともこの後のことを考えているせいなのか高鳴る鼓動は一秒ごとにさらに熱く、強くなっていく。追い焚きしたはずの湯船よりも今は体温の方が高くなっている気がした。


「私は嫌悪感」


 かつては心を押さえつけた呟きもいつの間にか何度口にしたところでなんの効果も発揮しなくなっていた。嫌悪感であることを否定できる自分の方が強くなってしまっているから。史仁君と過ごした時間が私の中にあった嫌悪感のほとんどを溶かして、私をより人らしく思わせてくれるおかげで。


「史仁君」


 代わりに名前を呼ぶと胸と頭が痺れる。甘い胸の疼きと痺れは味わったことがない。きっとこれを好きだと、恋心というんだ。初めての感覚でもそれは胸の鼓動が教えてくれる。


 史仁君は自分の力で私の事を全て分かってくれた。張り続けていた心と身体の間の膜を引き裂いて見つけてくれた。私の胸の奥までたどり着いてくれた。


 けれどまだ一手、足りない。人になるためにどうしても必要なものが私の中には無い。それを今日、この後手に入れる。それは史仁君から与えられたくなっていた。

 最初はここまでしようと思ってはいなかった。でも史仁君だからやってほしいと思えるようになった。きっと本当の意味で人になるには、この行為が必要だろう。そういう意味では彼を好きになれて心からよかった。


 それでもまだ少し怖かった。

 胸の前で手を握り込む。

 史仁君は私という存在を受け入れてくれるのだろうか。

 さっき答えられずにうろたえていた史仁君の顔を思い出す。彼は何かに怯えているみたいだった。受け入れることに抵抗があるようだった。


 史仁君は私の事が嫌いなの?

 展望台で話したことを思い出す。史仁君は好意より憎さと苛立ちと、共感の方が強いと言った。それも私のせいではなくて史仁君が勝手に感じているだけだと。その気持ちが全く変わっていないと言うことなのだろうか。そもそもそれはどこから生まれたものなのだろうか。


 ただ、あの日から今日まで私は彼からの憎悪を一度も感じたことはなかった。少し申し訳なさそうに顔をしかめることはあっても、笑顔がぎこちない時があっても私に対しての苛立ちを感じたことはない。だから彼の言った憎さという感情が本当にあるのか実感できなかった。


 思えば私は知ってもらうばかりで史仁君のことをほとんど知らない。こんな状態で好きだというのは一目惚れとあまり大差ないのではないかと少し心配になる。


 でも彼が私のためにしてきてくれたこととその度に感じた温かさは確かに胸の中にある。同じ時間を過ごさなきゃ決して感じられなかったものだ。与えてくれたのも紛れもない史仁君で、そんな彼という人間だから私は好きなのだ。それは一目惚れなんかじゃない。


 もしかしたら好きという気持ちが先走って全てを都合よく塗り替えてしまっているからこんな風に思っているのかもしれない。でもこの気持ちの制御の仕方を私は知らない。止めどなく溢れてくる感情が身体を火照らせて思考力を奪っていく。今はこの感覚に委ねることしか出来ない。


 だから今日という日を越えて私が最低限、人になってから史仁君の全てを知っていこう。彼がしてくれたように私も彼を理解しよう。

 そのためにはまず、私という存在を受け入れてもらえなければ始まらない。元は嫌悪感という存在で、そして今半分くらいは人になれているこの私を。


「大丈夫、きっと大丈夫だから」


 両手を額に当てる。

 私ならきっと受け入れてもらえる。いや、受け入れさせてみせる。そして彼の元で人になって生きていくんだ。そのためなら使えるものは全部使う。卑怯なのは分かっていても。


 深呼吸して湯船から上がった。

 シャワーを身体に浴びせながら鏡に映った自分の身体を確認する。

 シミの一つも無駄な肉もない、白い肌の細い身体。胸は特別大きいわけでは無いけれど同級生にも引けを取らないはずだ。その先にピンク色をした突起がぽつんと着いている。他の人のものをまじまじと見たことはないから分からないけれど乳輪も乳首も変わった形ではない……はず。下の毛も短く整えたばかりで不潔には見えない。身体に合わせるようにお尻も小さく絞まっている。


 その顔も身体も、何度見ても嫌になるくらい、憎いくらいに綺麗だと思えた。産んだ人に似たこの容姿は今までずっと嫌いだった。でも凪沙の顔として綺麗だよと史仁君が言ってくれて少しは許せるようになった。


 その彼になら自信を持って使える。全てを委ねたっていいと思える。表面しか見ていない他の人には無理だとしても史仁君にならさらけ出したい。そして受け入れて欲しい。


 何よりそれが、人らしい行為なのだから。

 シャワーの蛇口を捻ってお湯を止めた。

 湯気をまといながら戸を開けて真っ白いバスローブを羽織る。水気が吸われていく感覚に集中すると少しずつ心も落ち着いていくようだった。

 大丈夫、きっと私は大丈夫。


「私は」


 息を吸い込んで呟いた。約十三年間続いた悪夢を断ち切る瞬間が目の前まで来ていると信じて。


「凪沙という人間になるんだから」





    *  *  *





 そろそろ風呂から上がってくる頃だろうか。

 時計を見ると二十一時を回ったところだった。さっき同じ事を考えてからまだ五分も経っていない。それでもまた五分程度してから懲りずに同じ事を考えるのだろう。

 天井を見上げて重い気持ちを少しでも楽にしようと息を吐き出す。

 風呂から上がってベッドに寝転がってから俺はずっとこんな調子だった。


 気が気じゃ無い。ずっと焦りのような感覚が身体中を駆け巡り、脳内に最大音量で警報を鳴らし続けている。

 脳裏に入浴前に見た凪沙の笑顔が焼き付いていた。その笑顔の中に意味深なもの――誘われるようなものを感じてしまった。まるで甘い香りをまとった毒花のようだった。俺の気のせいで凪沙もその意図無くしていのならばそれでいい。


 でももし見間違いではなかったとしたら、彼女が何かを狙っているのだとしたらそれは一体何なのだろうか。


 この後にするという最後のやりたいことが怖くなる。その恐怖に胃が痛くなる。

 最後のやりたいことは恥じらって口籠もるようなことだ。それが先ほど垣間見た煽情的な微笑みと結びついた時、何が起こるのだろうか。


 さらにそこに「受け入れて欲しい」なんて言葉が混ざり込んでくる。字面だけ見れば関係無いとも言えるのに、バイアスがかかってしまっているみたいに自分導き出した回答を補強しているようにしか思えなくなる。


 偶然同じタイミングで出てきただけの別の出来事を安直に結びつけてしまっているだけならいい。こんな時でさえ心の奥底に溜まった欲望が曲解させているだけであって欲しい。俺がそんな風に下心を実質年下の少女に向けてしまうような救いようのないクズ野郎なせいでそんな思考に至ってしまっているだけならそれ以上のことは無い。


 それよりもたどり着いたこの答えが正解だったといわれる方が俺にとってはよっぽど悲劇だ。

 頭が痛くなる。最後くらい凪沙のためにやりたいことを手伝っておきたいなんてブレたせいだ。何度こんな後悔を繰り返すつもりだ。


 手の甲を額に当ててため息を吐いて時計を確認する。

 やっぱり五分程度しか立っていなかった。

 自分から焚き付けておきながら今すぐに逃げ出したい。まだ俺のゲスな予想が正しいだなんて決まっていないのに今すぐにでもここからいなくなりたい。それくらい身体全身に嫌な予感が走り続けている。

 

 頭の先から耳の裏を、首の後ろを、背筋を通ってお腹の中へとピリピリとした感覚が往復している。

 喉も嫌に渇いていた。キッチンに行って水をもらおうか。そう思ったところだった。

 コンコンコンと、三度扉を叩く音がした。


「史仁君、いる?」


 とうとうきた。

 外からかかった凪沙の声に身体が強張った。思わず息を呑んだ。


「いないの?」


「あ、あぁ、ごめん。いるよ」


 身体を起こして縁に腰掛け、少しだけ上擦った声で返すと凪沙は「そう、なら、入るね」言ってドアを開けた。


 そして、


「お待たせ」


 その姿に俺は言葉をなくした。

 顔を赤くして胸元に手を当てた凪沙はバスローブ姿だった。膝下からは細い生の脚が伸びていてそのままスリッパを履いていた。風呂上がりだからか普段よりも朱色がかった肌はとても柔らかそうに見える。


 理性が根こそぎはじけ飛びそうになりながらもギリギリのところで耐えられたのはこの状況が生まれかねないと予想していたおかげかもしれない。もしなんの準備もなくこの状況になっていたらきっと俺は何も考えられずに固まったまま動けなかった。


 それでも鼓動は速くなる。それは性的な興奮のせいなのか、それとも悪い予感が当たっていることを見せつけられて抱いた畏怖のせいなのか、それともその両方か。熱くなる身体と頭に対して肝は冷えていく。

 凪沙はしばらく目を逸らしたまま無言でドアの前で立ち止まっていた。


「な、なにその格好は?」


 問いかける声は震えた。


「さ、最後のやりたいことをするのに、適した格好、だから」


 答えた凪沙の声もまた震えていた。

 そう言うと彼女はドアのすぐ横の電気に手を伸ばして消した。ベッドの頭にある電球色のライトだけが残ってぼんやりと部屋の中を照らす。

 その薄暗い部屋の中を一歩ずつ、凪沙は近づいてきた。


「……何を、するつもりなの?」


 いつの間にか口内に溜まっていた生唾を飲み込んで分かりきっている問いを投げかけた。意味がないのは分かっていてもギリギリ保たれた程度の理性ではこれくらいのことしか口から出なかった。


「ほ、本気で言っているの? それとも、言わせたいの?」


 一歩、また一歩と近づく凪沙はバスローブの腰紐に手をかけてゆっくりとほどいた。胸元を押さえていたためすぐにはだけることはなかった。それでも腰のあたりで固定されていた感覚を失って羞恥が増したせいか凪沙の頬の色は一層深い朱色に染まった。

 恥ずかしそうに細めた目を震わせながら歩いてきた凪沙はとうとう目の前で止まった。


「史仁君」


 蠱惑的な双眸が見下ろしてきた。恥ずかしそうに揺れながら真っ直ぐと俺の目を見つめてくる熱っぽい瞳に意識が溶かされていく。のぼせたみたいに頭はボーッとして状況に流されていく。


 胸元に置いていた右手をゆっくりと離し、俺の左頬に触れてきた。触れてくる手は火傷しそうなほど熱い。その拍子にローブがずれて身体の丁度中心を真っ直ぐ縦に分けて肌色を見せた。膨らんだ乳房に引っかかるようにしてローブが垂れているおかげでその大きさが見て取れ、揺れる度にふわりと甘い香りが漂ってくる。


 見ないようにと思っても丁度目の前の高さにきた胸の谷間には視線が吸い込まれてしまい、慌てて彼女の目に合わせなおす。

 その一瞬の視線に気付かれてしまったのか、凪沙はくすぐったそうに笑った。


「見たければ見ていいのよ?」


「違っ、そんなんじゃない……」


 意味のない言い訳だった。視線を向けた以上それ以外の気持ちなんてない。そんな卑しさが一瞬でも自分の中に生まれたことが悔しい。たまらなくなって凪沙の顔からも視線を外して部屋の壁に目を向ける。


「……これが凪沙のやりたいことなのか?」


「えぇ、そうよ。人になるために私は史仁君に抱かれたいの」


 言い逃れできないほどハッキリと告げられた。その言葉に嫌になるくらい心臓が跳ね上がった。身体の隅々まで血液を行き渡らせようとするみたいに速く強く鼓動を打っていく。耳の奥から暴れる脈動が反響してくる。


「卑怯なのは分かっている。でも、それでもこうしなければ手を出してくれないでしょ?」


 そう言って凪沙は空いている左手を伸ばして俺の右手を握ってきた。その手はやっぱりとても熱くなっていた。

 左手を動かした拍子に揺れたローブから濃い凪沙の香りが振りまかれて鼻から頭へと流れ込んでくる。その芳香に脳が溶け出しそうになる。自然と息が荒くなって、少しずつ下腹部に血液が集まっていく。


「史仁君、私を見て」


 声に引き寄せられるように俺の目は凪沙の顔に向いた。「ありがとう」と濃艶な笑みを浮べた凪沙は静かに続ける。


「私は史仁君のことが好き。だからあなたに抱いて欲しいの。史仁君が愛を教えてくれれば私は人になれるから。人になれれば生きていても良いってそう思えるようになるから。史仁君のおかげで抱いたこの気持ちを絶対に無駄にしたくない。だからお願い。私を受け入れて、私を抱いて」


「俺は……」


 どこまでも真っ直ぐな潤んだ瞳に心が引き裂かれそうになる。

 ずるりと、奥底で燻り続けていたかびた好意が一番上に引きずり出されて、新しく積み重なっていた好感と混ざり合う。


 俺は凪沙が好きだ。その事実を、見ないように否定してきた想いをとうとう真正面から見てしまった。

 極限まで強くなった鼓動は警報のように身体中に鳴り響く。好きという甘い言葉が蕩けそうな快楽を身体に流し込んでいく。


 だめだ、ながされては。なんどもつよくいいきかせる。


 それでもこの悪魔とも言えるほどの誘惑的な状況に辛うじて残った理性もほとんど飲まれかけている。同情だとか中身が年上だとか、そんなものはもう関係無い。入月凪沙という魅惑的な少女に心の全てが酔わされている。


「怖がらなくてもいいよ」


 凪沙は掴んでいた俺の手を自身の身体へと引き寄せてバスローブの中、その左の膨らみに押し当てた。掌が凪沙の柔らかい胸の感覚を捕らえた。思いもしなかった行動にピクッと反応した指がわずかに胸に食い込んだ。「んっ」と凪沙が吐息混じりの声を出した。


 そこがもう限界だった。

 性的興奮が身体の内側をじっとりと撫でつけて、抗えない性欲に突き動かされる。

 凪沙の胸に触れたまま体勢を入れ替えて彼女をベッドに押し倒した。「きゃっ」と聞こえた短い悲鳴も興奮の材料にしかならない。吸い付くような感触の胸を右手で撫でると押し殺すような短い嬌声が聞こえた。


 俺は彼女の胸に触れたまま馬乗りになって見下ろした。バスローブは完全にはだけて彼女の身体が、その胸と恥部までもが露わになった。その全てがたまらなく美しく艶やかだった。


 今俺はこの身体を好きに出来る。その征服感と高揚感に陰茎は久しく感じていなかった痛みすら伴う怒張をみせていた。元気な高校生の身体になったからだろうか。そんな身体では今の凪沙に魅了されて当然だった。


 押し倒された凪沙はキュッと閉じた瞼を震わせてベッドの揺れが収まるとゆっくりと目を開けた。その目はトロンとして潤み「きて」と煽情的に俺を見つめてきた。そしてわずかな不安を覗かせる嬉しそうな笑みを浮べた。


 しかし。

 その目と俺の目が合った瞬間だった。


 かすかに残っていた理性の奥に刻み込まれていた厭悪の記憶が目の前に現れた。

 今より少しだけ大人びた顔を苦痛に歪ませながら悲鳴と嬌声の入り混じった吐息を漏らす凪沙。それは一度だけ劣情をぶつけた時、俺の頭が作り出した彼女の姿だった。


 その光景が、苦悶に涙を流す凪沙の顔が、今まさに俺の下で俺を受け入れようとしている少女の顔を覆った。


 途端、昂ぶりきった情欲と膨張した陰茎は沈まっていった。とてつもない勢いで巡っていた血の流れが落ち着いていき、燃えるように熱かった腹の底が急激に冷えていく。


 同時に罪悪感と吐き気がこみ上げてきた。凪沙に触れてしまっている俺自身がこの世で最も汚らわしいのもに感じられた。

 耐えられなくなって俺は凪沙の乳房から手を離した。


「……こないの?」


 恥と期待に満ちていた凪沙の表情は不安の色が濃くなった。

 その顔に胸が痛んで視線を逸らす。


「俺にはできない。凪沙を抱くことはできないんだ」


「どうして? そんなに私の事が嫌いなの?」


「違う。凪沙の事は……好きなんだ。結局、好きになってしまったんだよ。でも、だからできない」


「史仁君……? 泣いているの?」


 体内で起こった急激な感情の変化が涙腺を麻痺させたのか気付けば視界がぼやけていた。酷く自分勝手で自分よがりの涙が滲んでいた。誰にも、特に凪沙にだけは見られてはいけないような惨めな涙だった。泣く権利なんて俺にはないはずなのに。


 それでも抑えられなかった。もう感情がぐちゃぐちゃだ。

 汚い涙を隠したくて、俺は凪沙の上から降りて背中を向けるようにベッドの縁に座った。その後も少しベッドが揺れた。凪沙が起き上がったのかもしれない。

 その凪沙が後ろから震える声で言ってきた。


「ご、ごめんなさい。私、自分のことしか考えていなくて……」


「違う、凪沙は悪くない。だから謝らないでくれ。もっと惨めになる」


「でも、私が傷つけてしまったみたいだから……」


「だからそうじゃないんだ!」


 俺が勝手に苦しんでいるだけなんだ。これまでやってきたことの結果がただこうして俺に降りかかってきているだけなんだ。


 見えなくても凪沙が息を呑んだのが分かった。それでも彼女に気を使う余裕はなかった。ドロドロになった気持ちが口から溢れていく。


「俺は凪沙に許されるような奴じゃない! 俺の方が受け入れられていい奴じゃないんだ! なのに君は俺を好きだと言ってしまった、それを俺は嬉しいと思ってしまった! それだけじゃない、君を好きだと思ってしまったんだ! その上全てを隠した上で君に性欲をぶつけようとしてしまった! 許されるはずがないだろ、そんなこと!」


 八つ当たりと大差ない叫びを上げた。怒気に震えた空気が身体を刺してヒリヒリとした痛みを生む。

「どういう、こと?」色をなくした掠れた声だった。

 乱暴に目元を拭って答える。


「俺は元から君が自殺することを知っていたんだ。俺は十三年後の今日、自殺してこの時代に戻ってきたんだから」


 返ってくる言葉はなかった。こんな荒唐無稽な話、いきなりされたところで簡単に納得できる人はいない。


 それでも凪沙の理解を待たずに俺の口は動いていく。噴火によって溢れ出たマグマが山面を流れていくように、口からこぼれていく感情に乗って楽になる方へと言葉が流れ出ていく。きっと凪沙に分かってもらおうなんて気は無い。ただただこのどうにもならない想いを吐き出したかった。


「その時の凪沙は、高二の誕生日にすでに自殺していた。俺はずっとその理由が知りたかった。だから戻ってきた俺はずっと凪沙といたんだよ。今度こそ俺が死ぬために、凪沙の死を期待してずっと一緒にいたんだ」


「…………」


「そんな俺が、生きようとしている凪沙に好かれていいわけないだろ。凪沙を抱いていいわけないだろ」


 段々と荒くなった吐息が聞こえてくる。


「一度死んだ俺が今度こそ死ぬためにこの二ヶ月生きてきたのに、それを邪魔するような好意を寄せ付けてしまっているだなんて、惨め以外のなんだって言うんだよ」


 嬉しいはずの好意を向けられていることが悔しくて、やり切れなくて苛立つ。

 凪沙の死にたい理由を知られたから今までやってきていたことが意味をなくすとは言わない。けれど意図しない形で相反するものが出来上がっていて板挟みにしようとしてくるだなんて馬鹿げているとしかいえない。

 生き続ける覚悟も、彼女を嫌うだけの強さもなかった俺のせいでこうなっているのだ。


 もし凪沙の事を嫌いになれればこうして二人無駄に傷つかずにすんだのに、結局は昔抱いた淡い恋心はカビつきながらも存在しているのは変わらなかった。紙屑みたいに雑に丸められた程度の良心と彼女への哀れみが嫌うことを許してくれなかった。

 完全に俺の甘さが引き起こしたことだ。


「史仁、君は……」


 凪沙の声は震えていた。


「私に、死んで欲しかったの?」


 縋るような湿った声には否定して欲しいという気持ちが痛いくらいにこもっていた。見なくてもどんな顔をしているのか想像できてしまった。だから俺は振り返らずに答えた。


「ずっとそうなることを期待していた」


「嘘っ……」


 言葉よりも短く吐かれた息の音の方が大きかった。


「嘘、嘘嘘。どう、して? 史仁君は私に生きていていいって、そう言ってくれると信じていたのに」


「……ごめん」


 奥歯を噛み締めて絞り出す。それしか今の俺には言えなかった。言ったところで何の意味もなさないのは分かりながらもそれ以外の言葉は俺の中から無くなっている。子供じみた謝罪の言葉だけが頭の中で繰り返される。


「……出てって」


 その頭の中に静かな声が入り込んできた。

 小さくて脆い、冷たい拒絶の言葉だった。


「今すぐここから出てって」


 塗り重ねられたように黒々とした重苦しい響きに俺は頷いて立ち上がった。パジャマの上から制服のジャケットを羽織り、荷物を持ってドアへと歩み寄る。出る前に一言「ごめん」そう言いながら凪沙の方を見ることは出来なかった。


 あと少しでも冷静でいられたら、これからは生きていて欲しいと言えたかもしれなかった。


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