第十九話:やりたいことなんていらない


 きてほしいようできて欲しくない十一月四日を迎えた。十三年後に自分が死ぬことになる誕生日だからではない。凪沙の「やりたこと」を手伝う日になったからだ。それは今までよりも気持ち的な負担は大きく、彼女と距離をおきたい俺に対して嫌がらせのような内容だった。


 凪沙の家でのお泊まり会、それが今回のやりたいことだ。他の男子高校生だったら泣いて喜ぶ権利だとしても少しでも離れて凪沙の事を意識したくない今の俺にとっては間違いなく最悪のやりたいことだった。


 かといって気持ちの都合以外で断る理由はなく、放任主義の親も泊まりに反対しなかった。そうなると一度手伝うと約束している以上は渋々でも了承するしかない。

 同じ家の中で寝るとはいえ当然部屋は別で、以前伺った時にもドアだけは確認した来客用の部屋という一般家庭にはあまりないであろう部屋を使うことになっている。そこだけは安心した。


 だとしても凪沙と共に時間を過ごす時間が普段よりも長くなることは変わらない。その間に少しでも自分の気持ちが凪沙の方に流れていかないか、それだけが心配だ。

 とはいえ、もちろん俺も凪沙のペースに合わせるだけのつもりはない。


 二人だけだと分かっている時間は、昨日たどり着いた結論の答え合わせをする良い機会でもあった。その話をするだけでもいくらかは時間は過ぎてくれる。それを上手く使って今日を終えて、明日は適当な時間で帰れば良い。


 そして答えさえ合っていれば、俺はこの世界にいる必要はなくなる。知りたいことの全てを知った瞬間に俺は死ぬことが出来るようになる。もしまだ凪沙のやりたいことが残っていたとしてももう関係無い。死んでしまえば罪悪感も抱かないのだ、約束を反故にしたことなんて問題にはならない。


 俺はこれ以上彼女への想いをこじらせないうちに死ななきゃいけないのだ。明確な凪沙の意思を聞いていない今ならまだ間に合う。想いを寄せられていたとしても届いていなければ見ていない振りは出来る。


 だから後数時間、何があっても凪沙になびかないようにしなきゃいけない。そうすれば俺の目標は達成できる。このお泊まり会がそれこそ最後の難関と言っていい。


「そろそろ行こう、史仁君」


 荷物を鞄にしまい終えた凪沙が俺の机まで来た。そうだね、と答えながら重い身体を持ち上げて彼女と一緒に教室後にする。


 外に出ると気持ちに反して空は雲一つない青空だった。あと一時間もしないうちに鮮やかな赤色に染まっていくことだろう。朝からずっとこんな空模様で夜までずっと晴れらしい。移動が楽な晴れの日は基本的には好きだけれど今日ばかりは少しその空色さえ忌々しく感じた。


「そういえば夕飯はどうするの?」


 隣の凪沙に問いかけた。前回は作るという予定があってお邪魔したが今日はその限りではない。どこか近くにファミレスやコンビニがあるのだろうか。それともまた料理をしようという話になるのだろうか。

 そう思ったけれど凪沙は前を向いたまま、少し機嫌がよさそうに言った。


「私が作るわ」


「……凪沙が?」


「大丈夫よ」


 訝しげに見つめると凪沙は自信のある笑みを浮べる。


「食材も買ってあるから史仁君はそのままうちに来てくれればいいわ。今日は私がおもてなしするから」


「……そっか」


「だから、もう心配しなくていいって」


 そうは言うけれど段ボールに刺さりそうなくらい鋭利なにんじんのことを思い出すと心配にもなる。形を整えようと切りすぎた結果、最後は全野菜みじん切り炒めとかになって出てこないかと想像してしまう。


「ちなみに何を作る予定なの?」


「それは秘密。せっかくだから驚かせたいの」


「……最低限、血を調味料にしないように気を付けてね」


「指先は切らないわ。もう、少しくらい信じてくれてもいいじゃない」


 凪沙は不満そうに口の先を尖らせた。今まで見せてこなかった表情は横からでも可愛いと思えた。その顔から目を逸らす。どれだけ小さな事でも凪沙の魅力を感じたくなかった。俺にはこれ以上ない毒となる。まるで警告色で彩られる蝶でも横にいるみたいだ。





 前回と同様に二重のオートロックを抜けて凪沙の家へと入った。

 まずは荷物を置いてゆっくりしていて欲しいということで案内された来客用の部屋は俺の部屋よりも広く、ダブルサイズのベッドと机、さらには小型テレビまで置いてあった。それだけではなくバゲージラックや木製のポールハンガーまでおいてある。それぞれの家具は全てデザインが統一されていてホテルの一室と言われても違和感ないくらいに綺麗にまとまっている。


 普段使いしないはずの部屋までこうも整っていると改めて家の格差を突きつけられたような気になってくる。

 その部屋に目的もなく一人で居続けるのが息苦しくなってリビングへと戻った。ダイニングテーブルの奥、スライドドアの向こうから物音がしていた。


 入ってみると以前同様、制服の上からエプロンを着た彼女が具材を洗っているところだった。

 俺に気付いて振り返った凪沙ははにかんだ。


「今から作るからもう少し待っていて。二十分くらいで出来ると思うから」


「本当に手伝わなくていいのか?」


「えぇ。さっきも言ったけれど今日は私がもてなす側で史仁君はお客様なの。お客様に手伝わせるレストランなんてある?」


「ないけど……。凪沙はシェフではないだろ」


「今日は特別でしょ。史仁君の誕生日だし、家に泊まってくれる日なんだから」


「…………」


 無言で見つめていると、野菜を洗い終えた凪沙がまな板に半分のタマネギを置いて挑戦的な目で見返してきた。


「そんなに私の腕が心配?」


「まぁね」


「分かったわ。ならこれだけ切るところ見ていて。それで納得してもらうから」


 そういった凪沙は切り口を下にしたタマネギをその端から細かく切れ込みを入れていく。そして端まで終わると今度は横向きに包丁を入れて同じように端から端まで細かく切り刻んだ。見事な手さばきのみじん切りだった。

 切り終えたタマネギを小さいボールに移した凪沙は控えめに得意げな顔を作った。


「どう? 上手くなったと思わない?」


「……うん、普通に驚いた」


 手際の良さも切られたタマネギの状態も文句のつけようがなかった。もしかしたら俺がやるよりももう上手く切れてしまうのかもしれない。

 凪沙が自信満々な理由が分かった。こうなると俺が心配するのも却って失礼になる。


「今日は素直に任せることにするよ」


「えぇ、そうして。史仁君はくつろいでいてくれていいんだから」


「うん、ありがとう」


 キッチンを出て一先ずダイニングテーブルに着いた。部屋に戻るのも落ち着かないしかといってキッチンにも居場所がないとなるとここしかない。

 座って落ち着くと先ほどの凪沙の手際を思い出す。


 一体どんな練習すればたった二週間程度でにんじん一つに手間取っていた状態からここまでになるのだろう。平日は朝夜の二回だけしか作れないし、一人暮らしでなおかつ食の細い凪沙ではいたずらに量を作る事も出来ない。一食の料理ではそこまで多くの手順をこなすことも出来なかっただろう。


 そんな中で見ていて怖くなるくらいだった不器用さを綺麗さっぱり払拭していたのは驚くほかなかった。

 そのおかげで俺のやることが完全になくなってしまった。人様の家で一人くつろいでいてと言われてもなかなか難しい。


 仕方なく、気分を紛らわせるためにスマホを取り出してニュースサイトを開いた。

 十一月に入ってこれから一気に気温が下がり例年にない寒さになるという見出しがあった。エアコン必須の季節になって電気代の心配がどうとかいう記事もあれば来年からガス代が上がるという記事も続き、さらに下にはスポーツ選手の不倫報道や次に大河ドラマの主役を張る俳優のインタビューなど興味のない字面が並んでいく。


 試しに適当に開いた記事を読んでみても目が滑って内容が頭に入ってこない。上から下までの意味のないスクロール後にまた新しい記事を開いて同じように下まで指でなぞる。目で追ったはずの文も見たまま過ぎ去るだけでどうしても意味としては理解できなかった。


 そんなことよりもエプロン姿で夕食を作る凪沙のことばかりが浮かぶ。俺のために頑張ってくれている。そんなことを考えかけて振り払うように首を振った。余計なことは考えるなと言い聞かせながらキツく目を閉じて背もたれに身体を預けた。


 今この瞬間も、料理という行為を通して凪沙はただ普通の人になりたいだけだ。それこそ俺がたどり着いた凪沙のやりたいことの本質だ。

 人らしくなるために、今まで自分はやってこられなかった、より多くの人が当たり前にやっていることをなぞっていくことが重要だった。


 今日のこのお泊まり会だって、ただ同じ家で誰かが寝ているという安心を得て、おやすみとおはようの挨拶を交わしたいだなんてそんなありきたりすぎることを願っているだけなのかもしれない。


 でもそうやって当たり前の事を繰り返すことで普通の人らしくなることができればこの世界に自分の居場所を見出せるのだと、きっと凪沙は信じている。自身のことを人ではなく嫌悪という存在だと思っているから、人の世界であるここには居場所がないと感じている。だからこそ普通の人になる必要があるのだろう。


 そう考えると凪沙が杜子春をお気に入りだと呼べた理由が分かる気がした。あの世界の洛陽に人はいなかったから、人間である杜子春は居場所がない存在だった。そんな彼に凪沙は自分を重ね、そして無慈悲な物語として解釈をした。


 そして今、その無慈悲だと見なした世界で凪沙は前向きに生きようとしている。

 例え俺の中で凪沙が死ぬことが自然なことであったとしても、彼女にとっては違う。


 そう分かってから、俺が高校生に戻ってからずっと抱いてきた凪沙への死というイメージと希望は崩れ去った。今まで追いかけてきた入月凪沙という存在にずっと身勝手な役割を期待し、押しつけていただけなのだと悲しくなった。頭と勘の悪さにこみ上げた苛立ちは諦めに流されていく。


 一体今まで俺は凪沙の何を見てきたというのだろう。凪沙という死の偶像を追い続けていただけじゃないか。そんな俺は彼女のことを理解できていると言えるのだろうか。言えないかもしれない。俺が見ていたのは凪沙本人ではなくて死に向かう凪沙だったのだ。そんな俺が彼女のことをどれだけ分かってあげられているのかという話だ。

 キッチンを隔てた引き戸が開く音に続いて凪沙の声が聞こえてきた。


「ごめんなさい、遅くなってしまって……もしかして寝てしまったのかしら」


「……大丈夫、起きてるよ。そこまでくつろいじゃいない」


 目を開けて姿勢を正すと「そう、よかった」と凪沙は笑った。

 その手に持ったお盆の上には湯気を立てたオムライスとスープが乗っていた。それを俺の前に置いてもう一度キッチンに戻った凪沙は同じものを持ってきて俺の前に座った。


「冷める前に食べましょう」


「そうだね。じゃあ、いただきます」


「えぇ、召し上がって」


 手を合わせたあとスプーンを持ち、オムライスの玉子とチキンライスを掬う。その動作を凪沙はじーっと、緊張した面持ちで見てきた。

 そんなに見られると食べにくいんだけど、とは思っても口にはしなかった。今の凪沙は顔を見ていれば嫌というほど気持ちが伝わってくる。それを茶化すのは野暮に思える。


 その代わりにそのまま気取らずオムライスを口にした。

 薄味のチキンライスに甘めの柔らかい玉子が絶妙なバランスに絡み合っていく。かかっているのもケチャップではなくデミグラスソースで、その濃い味がライスと玉子双方に溶け込んで上手く味を引き出していた。


「……美味しい」


 俺は「どう?」と向けられる視線を忘れて呟いていた。ただただその味に感動して言ってしまっていた。俺の反応が小さくなりすぎたせいか「本当?」と見つめてくる凪沙の顔は未だ緊張にこわばっていた。


「うん、本当に美味しいよ。ついこの前までろくに包丁を入れられなかった人が作ったとは思えないくらい」


「そう言ってくれると嬉しいわ、とっても」


 笑って見つめ返すと、凪沙も安心したように目を細めて何度も「よかった」と何度も呟くように繰り返した。

 スプーンで掬った場所から覗いた具材も大きさは綺麗に揃っていてライスも色合いに偏りはない。コンソメのスープも濃すぎない塩梅でメインのオムライスを損なわずに口の中を調整してくれる。

 ますますこの上達スピードに舌を巻いた。


「よくこんな短期間でここまで上手くなったな」


「見返すために頑張ってみたの。史仁君に馬鹿にされたままなのが嫌だったから」



 そう言ってオムライスを口に運んだ凪沙は、自慢げな笑みを苦笑に変えた。

「でもあまり胸を張って言えないわ」


「どうして?」


「オムライス以外は自信がないから。毎日こればかり作っていたの」


「毎日こればっかって……」


「えぇ、朝と夜。ずっとオムライス」


「そこまでするか、普通。よく耐えられたな」


「今日食べてもらうのはオムライスだけなんだもの、色んな料理で練習するよりこれだけに集中して作った方が効率はいいでしょ? それにエナジーバーがオムライスになっただけだから特に辛いとは思わなかったわ。こっちはちゃんとした理由があったからまだ楽しめたし」


「……なるほど」


 確かに同じものを食べるという点ではエナジーバーもオムライスも変わらないのかもしれない。味が濃い分オムライスの方がキツそうではあるけれど。


 とはいえ引くくらい凄い執念であることには変わりない。周囲からの視線を変えるために頑張ったという勉強もこんな風になりふり構わずやっていたのだろう。俺には絶対に真似できない。


 畏怖にも近い尊敬を抱きながらオムライスを口に運ぶ。わざとらしいかもしれないけれど咀嚼する毎に舌鼓を打ってしまい、その度に「もう、分かったから」と満更でもなさそうに凪沙ははにかんだ。


 そんなやりとりを何度も繰り返す内に皿がどんどん空いていく。それも残りわずかになったところで凪沙は改めて胸をなで下ろすように優しく顔をほころばせた。


「でも本当によかった」


「何が?」


「美味しいって言ってもらえて」


「そんなに見返したかったのか」


「いいえ、そうじゃないの。確かに見返したいって気持ちもあったけれど、それよりも史仁君には感謝しているから、その気持ちを少しでも伝えたかったの」


「感謝?」


「えぇ」


 背筋の伸びた凪沙は真っ直ぐと俺の目を見て告げた。


「やりたいことを手伝ってもらっている感謝。そして私を知ってくれていることもそう。本当にありがとう、史仁君」


「……うん」


 熱く溶けそうな視線に甘く呼ばれた名前に、柔らかく結ばれたピンク色の小さな唇になんとか視線を逸らさずに笑って頷いた。


 こそばゆさよりも流されそうになる焦りの方が大きかった。それでもこんな顔をした凪沙とはちゃんと向き合っていたい、そう働いた良心が笑みを作っていた。


 そんな風に言ってくれるのは俺も嬉しかったのもある。ごちゃごちゃしたものを一瞬でも忘れさせてくれるような心地良い感覚が胸を満たしていた。そこに甘えてはいけないと思いながら最後になるかもしれない凪沙の感謝を全身で受け止めた。


 その想いを噛み締めるように、残りのオムライスとスープを口にする。冷めることのない凪沙の料理は俺の身体の中に温もりを与えてくれた。最後の晩餐がこれであれば良いと思った。





「ごちそうさま」


「お粗末様でした」


 作った笑みを交わして、お腹にたまった満足感と幸福感を吐き出すように大きく息を吐いた。上がった体温を抑えるつもりで静かに問いかける。


「そういえばさ凪沙のやりたいって言っていたこと、あとどれくらいあるの?」


「そうね。今日のお泊まり会を入れてあと二つ」


 緊張気味に凪沙は言った。

 となると実質残り一つ。普通の人になるための行動として後なにがあるだろうか。


「後の一つはどこか特別な場所に行ったりすること?」


「へっ? ど、どうして?」


 凪沙は顔を引きつらせた。


「いや、どこかに行くのならまた予定立てなきゃいけないなって思っただけ」


 本心は今日終わらせることができるのか確認したいだけだった。もしできるのなら今やってしまいたい。最後くらい、ここまで俺のためにしてくれた凪沙へのお返しはするべきだと思ったから。


「そ、そう……。その、別に、どこに行かなくても、出来ること、よ」


「ここでも?」


 言葉に詰まりながら言った凪沙に問いかけると、顔を赤くしてコクリと頷いた。普段白い肌だけに赤色はよく目立つ。


「そっか。なら今日終わらせよっか」


「き、今日っ?」


「ダメ?」


「だ、ダメじゃ、ない、けど……」


 言い淀む凪沙は俯いて背中を丸めた。相当恥ずかしがっている時の様子だ。


「せっかく泊まるなら時間あるしどうかと思ったんだけど嫌?」


 煮え切らない態度に言葉を詰めていく。

 いい加減、この表情に苛立ってきた。それは凪沙に対してではなくて、それを見て心が乱れそうになっている自分に対しての苛立ちだ。


「その、嫌というか……少し考えさせてもらってもいい?」


「いいよ。俺も無理になんていうつもりはないから」


 心にもないことを言って微笑みかける。手伝えるのは最後になるからどうしても今日でなければならないと言っても過言じゃない。

 そう思って見ていると、不意に凪沙が顔を上げて上目遣いのような体勢で問いかけてきた。


「もしかして史仁君、その、気付いて言っているの?」


 未だ上気した頬は変わらず恥じらうような表情のままでありながら、それでも視線は場違いなほどに真っ直ぐだった。その答えによっては今日やろうという意思がそこに籠もって見えた。


 そして俺は凪沙の問いの答えを知らない。最後に残された人になるためのやりたいことの正体は見当もつかない。

 だから、もっと直接的に凪沙に踏み込んだ。


「凪沙が自分を嫌悪だと思っているってことに?」


「……いつから?」


 顔に残っていた恥じらいは全てかき消えた。凪沙にとっては予想外の問いだったようで、困惑の色も見て取れた。やはり話は噛み合っていなかった。それでも答え方は間違っていたわけでもないらしい。真っ直ぐ向けられた視線は変わらない。


「昨日だよ。ようやくたどり着いた。やっと、凪沙の考えに追いつけた気がする」


「そう、だったんだ。そっか。そっかそっか」


 凪沙は薄く笑いながら視線を下げて「そっか」と繰り返した。怯えるように、嬉しそうに、焦ったように、楽しそうに、諦めたように、安堵するように、哀れむように、愛おしそうに呟いた。


 それは産んだ直後、初めて自分の赤ちゃんを抱いた母親のように見えた。

 その様々な感情の表出が、たどり着いた答えが間違えではなかったことを意味していた。

 今まで誰にも言えずにひた隠しにしてきて、それでも知られることを期待していた正体が暴かれたことを凪沙は深く噛み締めようとしている。


「知って、史仁君は私の事をどう思った?」


 視線があげられた時には凪沙の顔は観念したように緩んでいた。


「俺は……可哀想だと思ったよ、凄く」


「そっか、同情してくれたんだ」


「……そう、だね。したよ、嫌になるくらい」


 したくなかった感情を思い出して奥歯を噛み締める。「嬉しいなぁ」と凪沙は吐き出す息に混ぜて言った。


「手、出してもらってもいい?」


「手?」


「そう、手」


 訳が分からながら言われたまま右手をテーブルの上に差し出した。すると凪沙は「ありがとう」と俺の手を両手で握って息を吐いた。

 その手は以前頬に触れられた時よりはいくらか暖かかった。それでも前よりも震えていた。

 その震えが俺の心を同調させるように震わせて熱くしていく。


「少しだけ話させて」

「もちろんいいよ」


 凪沙は「本当にありがとう」と笑って息を吐き出した。


「愛がなんなのか分からないまま誰からも中身を求められずにずっといるとね、自分がなんなのか分からなくなるの」


 口元には笑みを貼り付けたまま苦しげに吐き出される言葉は続く。俺はその全てに耳を傾けるしかなかった。


「よく人を人らしくしているのは愛があるからだって言われたり、物語の題材には愛というものが使われたりされがちだけれど私には一切それがピンと来なかった。そして周りに目を向けてもみんな入月の娘、ばかりで中身なんて見られないから自分という人間がなんなのか分からなくなった。そうしているうちに私は目に見える世界も他の誰も、嫌いなものばかりになっていたの。この世界が嫌いで、私を産んだ人達が嫌いで、生まれた意味も分からないままただ生きている自分が嫌いで。そうやって嫌いなものが増えて、私はいつの間にか嫌いって感情で満たされていた。外見は入月の娘のまま、その中身は嫌悪感だけ。外面だけの人形と汚い感情で作られただけの存在はきっと人なんて言えない。そう思う内に私は嫌悪感になった。ううん、ようやく自分が嫌悪感だって事に気が付いたの。そんな人じゃないただの感情である私には人の住むこの世界に居場所はない。それが自殺するっていった理由」


 独り言のような調子で言い切った凪沙は口を閉ざして握る手に力を込めてきた。それまでとは違う震えがそこに加わった。


 これまで少しずつ明かされていた要因が悲しいくらいに上手く結びついて一つに繋がってしまった。それが凪沙を孤独にして自殺という道に連れ立ってしまった。もう少し何か環境が変われば、ちゃんとした意味で寄り添ってくれる人がいればそうなっていなかったのに。


 いたたまれなくなってつい俺は空いていた左手を彼女の両手に重ねてしまった。同情だけが俺の身体を動かしていた。それに抗えるだけの凪沙に対する嫌悪は俺の中には無い。


「そして、やりたいことっていうのは普通の人になること。そうだろ?」


「……うん、流石だね」


 呟くと共に震えは小さくなった。


「そう、私は人になりたいの。嫌悪感じゃなくて人間に。人になれれば私はこの世界で生きることを許されるから。そのためにできるだけ多くの人がやっている事を通してその人達の気持ちが知りたかった。好きって気持ちを知りたかったの。それも一人じゃなくて誰かと一緒じゃなきゃいけなかった。多くの人は他の誰かと行動しているし、人は一人では生きていけないって言うでしょ?」


「そうだな」


「でももちろん誰でもよかったわけじゃなかったのよ。前も言った通り周りはみんな私そのものを見てくれていなくてそんな人達のことを好きにはなれなかったから、やりたいことなんて頼めなかった。そんな私の前に史仁君が現れた。そして一緒に過ごす間に私は史仁君がいてくれれば生きていたいと思えるようになったの」


「……」


 俺は曖昧に無言で頷いた。全てが想像した通りの事だった。やっぱり凪沙は俺を通して生きるために行動していた。


「始業式の朝、史仁君に『君はなんなの?』って聞かれた時、本当に驚いたの。もしかして私の思っていることを全て知っているんじゃないかなって。違ったみたいだけれど」


「ごめん、全然そういうわけじゃなかったんだ」


「ううん、いいの。こうして気付いてくれたし、あのおかげで生きられるかもしれないって希望を持てたのだから。そうじゃなければ私はきっと今も死のうとしたままだった」


 凪沙は深呼吸をして見つめてきた。


「史仁君はこんな私を受け入れてくれる?」


 それはなんとか作ったような笑みだった。

 その問いに頭の奥が警告音を発した。少なくとも「はい」と答えていい類いの問いではない。嫌な予感に胸を鷲掴まれる。どうとも言えなくなって「受け入れるっていうのは?」怯えながら聞き返していた。


「この私という存在を、ここにいることを認めて私を人にしてくれる?」


「俺は……」


 口が動かせなかった。ギリギリのところで理性が同情に追いついた。感情だけで良いなら俺は首を縦に振れた。それでも理性がそれを食い止める。凪沙を受け入れるということが言葉以上の意味を持つことくらいは分かる。


 受け入れた瞬間に俺は死ぬことを許されなくなる。これはそういう話だ。俺が凪沙を人として認めることでこの世界に生きる権利を掴めると信じている。

 頭の先から血の気が引いていく。思っていた通りの最悪と言える状況だった。


 でも仕方ないだろ。俺の方がこの世界で生きていけるほど強いわけじゃないんだ。そんな俺の中に生を見出したってすぐに破綻するのは目に見えているのだ。

 途端に涙がこみ上げそうになって、奥歯を噛み締めて押さえ込む。


 情けない、愚かしい。被害者は俺じゃないだろ。弱い自分のせいで凪沙のたどり着いた生きる筋道を台無しにしようとしているのは俺だ。俺なんてものを頼ってしまった彼女が一番の被害者だ。そんな彼女を俺は救えない。救えない、のか?


 答えようにも答えられないまま中途半端に口を開けたり閉じたりしていると、凪沙は「待って」と言葉を制してきた。


「やっぱり今は答えなくていいわ。いきなりこんなこと聞かれても困るわよね。だからもう少し考えてもらって、また後で答えを聞かせてくれると嬉しいわ」


「……そ、そっか」


「それより、デザートのケーキ持ってくるから少し待っていて」


「わかった」


 俺の手の間から両手を引き抜いた凪沙は穏やかな笑みを浮べて皿を持つとキッチンへと歩いて行った。


 助かった。思わず深く息を吐いた。

 もしあのまま逆に畳みかけられていたら流されてしまったかもしれない。彼女の真っ直ぐな視線の先にある潤んだ綺麗な瞳に吸い込まれて濁って歪みきった好意の一端が引きずり出されてしまっていたかもしれない。


 それでも彼女は答えを急かさずに俺に委ねた。おかげでいくらか冷静になれた。燃え上がった同情は燻り程度までは落ち着いていく。表に見えないだけで中でどれだけ燃えていようとも外に燃え広がって凪沙に届かなければそれでいい。


 溜め息なのか深呼吸なのか、自分でも判断できない呼吸をいくらか繰り返していると凪沙が戻ってきた。


「流石にケーキは手作りじゃないけれど」そう言って直径十センチほどの一人用サイズのホールケーキを俺の前に置いた。苺のショートケーキ、ご丁寧に『史仁君誕生日おめでとう』とのメッセージ付きチョコプレートも飾られている。


「遅くなってしまったけれどお誕生日おめでとう、史仁君」


「うん、ありがとう。けど、一緒に食べてくれたら嬉しい」


「どうして?」


「せっかくなら凪沙と食べたいんだ。一人で食べるにはちょっと多いから」


「そう、わかった」


 頷いた凪沙はナイフとフォーク、そして取り皿を持ってきて半分に取り分けてくれた。

 それを美味しそうに食べ始めた凪沙を見て安心した。きっと今食べても俺はあまり味を感じられない。期待には答えられないのに優しくされることへの罪悪感に味覚が上手く機能するとは思えなかった。


 予想通りフォークで切り取って口に運んだケーキは食感こそしてもあまり美味しいとは思えなかった。それでも美味しいと笑顔を交わして口に運んだケーキは半分だったこともあってすぐに無くなってくれた。

 使い終わった食器を運ぶ凪沙に続いてキッチンに入る。


「洗い物は俺がやるよ」


 一人で全部やるつもりで言うと凪沙に首を振られた。


「ダメよ。史仁君はお客さんだって言ったわよね。それにこの後、またやって欲しいことがあるからその心遣いはその時のためにとっておいて欲しいの」


「……ってことは」


 含みのある言い方に凪沙を見つめると「えぇ」と、ゆったりと微笑んで頷いた。


「お風呂入った後、最後のヤリたいこと、付き合ってもらってもいい?」


「……うん、分かった」


 予想通り凪沙は最後のやりたいことを今日やると決めてくれた。でもどうにも拭えない嫌な予感が頬を撫でてくる。


「ありがとう、史仁君」


 そのせいだろうか、その凪沙の笑顔に身体が強張り肌が粟立った。

 とても純粋で秀麗な笑みが、同時に妖美に見えてしまったから。

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