第十八話:好意なんていらない



 その世界は一面真っ暗で、すぐに夢だと気付いた。


 座っていた俺は左の頬に手を添えられて上を向かされた。

 凪沙が見下ろしていた。現実の凪沙よりも少し身長は高く顔つきも歳を重ねているように見える。どこかで見た記憶のある顔だ。そしてその手は凍り付きそうなくらい冷えていた。


「いい加減目をそらすのは止めたらどう?」


「そんなつもりはないよ」


「なら本当に私の事を知る気はあるの?」


「だからここまでやってきたんだろ」


 睨むように見返すと、凪沙は愉快げに笑って右頬にも触れてきた。


「その割に怯えてるわ」


「そんなことない」


「ならどうして目を逸らしたまま受け入れようとしないの?」


「…………」


「ちゃんと私を見て」


 逸らそうとした視線は無理矢理引き戻された。


「私は史仁君に惹かれ始めている。そして史仁君の私に対する気持ちも変わり始めている。いえ、戻り始めているって言った方がいいかしら?」


「……かびたパンは元には戻らない。だからそんなことあり得ない。わかるだろ」


 自分勝手な汚い気持ちで形を変えた好意は、かびたパンのように元に戻ることはない。

 言い返すと、凪沙は鋭く目を細めて「あははっ!」と声を上げて笑った。普通の凪沙なら絶対に出さない声が鼓膜を揺さぶった。


「認められるはずないわよね? 自分が死にたいからって私を利用して傷つけているんだから。それに」


 一度言葉を切った凪沙は粘っこい嘲笑を浮べて言った。


「史仁君は私を犯したんだから」


 愉悦に打ち震えるような声で卑しく笑う凪沙を睨み返すと自分の額を俺の額に当ててきた。


「分かっているわ。あくまでこの頭の中で、よね」


「…………」


 言うとおりだった。俺は一度、妄想の中で凪沙に劣情をぶつけた。この目の前の少しばかり成長した顔はその時に俺が想像していた凪沙だ。


 彼女が自殺してから十年ほど経ってからだっただろうか。自分の頭にも自殺という言葉がちらつき始めてすぐ、彼女に対する「なぜ自殺したのか」という問いが苛立ちに変わった時に一度だけシてしまった。


 どうして死んだんだ、馬鹿にしているのか、なんて被害妄想で形作られた反感と彼女への歪んだ好意の整理をつけられなくなって、その全ての後ろ暗い感情をぶつけながら白く濁った罪を吐き出してしまった。その後こみ上げた吐き気にトイレに駆け込んだとしても、その事実は変わらない。


 そこまで堕ちた俺が今更凪沙に好意があるだなんて口が裂けても言えない。自分勝手に抱いた憎しみ、苛立ち、嫉妬の悪意に歪みきったこの気持ちを好意だなんて呼ぶわけにもいかない。


「それに史仁君はあくまで私を利用しているだけだもの。傷つけようがお構いなしに聞きたいことを聞くような酷い事を平気でやってしまう人。そんなあなたが今更私に思えることなんて、どんな気持ちなのかしらね?」


「……うるさい」


「逆ギレなんて惨めにもほどがあるわよ、史仁君」


 歯ぎしりをして睨み返すことしかできない。全て目の前の凪沙の言うことが正しい。


「忘れないでね、史仁君。史仁君はどうあっても死ぬしかない。死ぬ以外の選択肢なんて許されない。そう自分で決めて私を傷つけたのだから、筋は通さないといけないわよね?」


「分かってる」


「いいえ、分かっていないわ。自分に都合の悪い結論に目を逸らそうとしている。それを全て受け入れて私を見なきゃ、本当の私のことを知ることは出来ない。だからちゃんと見て。そして見て、理解した上で死んでね」


 妖美に微笑んだ凪沙は頬から手を離すと一言、耳元で囁いた。


「期待しているよ、史仁君」


 そして笑みを浮べまま闇の中に消えていった。





 目を開くと寝る前と同じく自分の部屋だった。

 最悪の目覚めに枕元のスマホを見ると、時間は五時二十分。登校の準備を始めるにはまだ早すぎる時間だった。それでも全身が熱く、嫌な汗にまみれて二度寝する気にはなれなかった。


 身体を起こすと電子ピアノが目に入った。ヘッドフォンを繋げたままの状態でスタンドに乗っかっている。とてもじゃないが弾く気にはならなかった。

 とにかく今は何もしたくない。起きていたくも寝ていたくもない。冷たい室内の空気の中に溶け入ってただの気体として漂っていたい。


 凪沙の気持ちが、そして自分自身の気持ちが怖かった。死ぬ前とは違って知らなかった事を知っていくことで互いにどんどんと歪んできてしまっている。

 あと少しだけ、凪沙の中にあるものを知ることが出来れば俺はきっと彼女の全てを理解できる。そうして元の時間の凪沙が自殺した理由とその時に思っていたことを知って、今度こそ死ぬことができるはずだ。


 なのにその筋道は彼女を知る前よりもずいぶん狭くなってしまっている気がした。彼女の中に生きるという想いが生まれ、そして同情なんてしてほだされそうになっているからだ。頭でそれを分かっていても簡単に振り切ってしまえるほど、抗ってくる感情は弱くない。むしろこうなったことで彼女のことを知れば知るほど強まっている気さえする。


 どうしようもなく渦巻き始めた苛立ちにどんどん目が冴えてきた。

 考えるのもいやになりながら、なにかをしようとするのも諦め、仕方なくベッドの上で丸くなって時間が過ぎるのを待つことにした。


「期待しているよ、史仁君」


 その間ずっと耳に残って聞こえてきたその声は、夢と現、どちらの凪沙の声なのか俺には分からなかった。




    *




「やけに荒れているね」


 弾き終えて鍵盤から指を離した俺に、森住先生は静かに言った。

「すみません」と口で言いながら俺はあまりそう思えていなかった。


 今朝見た悪夢、それを引き起こしたであろう凪沙との遊園地と水族館での出来事。そしてそれ以前から胸にたまり始めた彼女への同情。その全てからもたらされた焦りが苛立ちに変わって身体の中を暴れ回っている。その気持ちが押さえ込み切れずに出てしまったのだろう。


 本当は今日もここに来る予定はなかった。前回来てから家で練習したかというと全くしていなかったし、今度こそ来る特別な理由はなかったからだ。


 それでもどうしようもなく落ち着くことのない気持ちが他の何をするのも拒絶して一度普段の生活から離れたくなった。そしてたまたまレッスンの日だったから来てしまった。一言で言うなら現実逃避をしに来たのだ。そう、少しくらいの気休めになるかと期待したけれど無理そうだ。


 本心を隠しながらただ来るだけ来た俺に、先生は穏やかに笑った。


「謝る必要は無いよ。いつも以上に君の感情が出ているのはとても良いことだと私は思うからね。ただ『愛の挨拶』はそんな君の感情を受け入れきれていないみたいだ」


「すみません……」


「君は謝るのが好きだね」


 愉快そうに目を細めた先生はいつもの椅子に座って続ける。


「人が感情の塊である以上、どうにもならない激情をどうにかして表に吐き出さなきゃいけない時が来ることもある。どれだけその場にふさわしい感情じゃなかったとしても必要なことなら仕方ないさ。人一人の中に入る感情の量は驚くほど多いけれど、それでもため込もうとするには心の許容量は少なすぎるからね」


 ゆったりとした語り口を止めて一度手を叩いた。


「今日はもうレッスンは終わりにしようか。その代わり少し話をしよう」


「なんの話ですか?」


「君に話したいことがあるのならその話をしてごらん。もしないなら何も話さなくてもいいし、なんなら帰ってしまっても構わないよ。私は時間になるまでここに座っているだけだからね」


 穏やかな日差しに照らされる昼過ぎの庭園に吹く風のような声で言うと目を瞑って口を閉じた。ここから先は俺に任せるらしい。


 でもどうすれば良いだろう。話をするにしても何を、どう話すのかというのが問題だ。今のこの荒れる気持ちを話そうとすれば何をどうあがいても一度俺が死んで、もう一度死のうとしていることを話さなくてはならなくなる。相手が森住先生とはいえそんなことはできない。


 ならこのまま帰るか。きっとそれが合理的だ。この気持ちを話せないならそうするしかない。

 ただ、何かとても後ろ髪を引かれる思いがある。先生に話せることは本当に何もないのか。自分では答えに至らない問いがあるのではないか。

 少し考えていると自然に口が開いていた。


「自分は何に見えるのか、自分の中には何が見えるのか、そう聞いてきた子がいるんです」


 ピアノの蓋を閉じて先生に向き直った。

 話すことは俺の気持ちが荒れていることと関係している必要はない。

 なら、凪沙の中にあるものについてまだ理解できていないことのヒントを得られればいいと思った。


 それさえ分かればもう俺はこの世界に用はなくなって当初の死ぬという目的を達成できる。凪沙への同情が胸に満ちる前に分かってしまえばもう余計なことを考える必要も無くなる。それならそれでいいはずだ。そう自分に言い聞かせる。

 先生は目を閉じたまま、楽しそうに聞いてきた。


「この前の人形の子かな?」


「はい」


「ふふっ、その子は面白い聞き方をするね。人形のこともそうだけれどまるで自分が人とは思っていないみたいだ。今度は君相手なのに。君はそんな彼女のことを知りたいんだね?」


「はい」


 頷くと、先生は曲げた人差し指と親指を顎に当てた。


「改めてその子はどんな子なのか聞いてもいいかな?」


「普通の女の子です。綺麗で頭がよくて運動も出来る、けれど不器用で嫌いなものが多いだけの普通の子です」


「嫌いなものというと、例えば?」


「彼女本人とその両親……いえ、好きなものはないと言い切れるくらい、きっとこの世にあるほとんど全てのものが嫌いなんだと思います」


 ふと思い出してカレー以外は、と付け足すと、カレー以外、と先生は復唱した。


「カレーは好きなのかな?」


「いえ、これから好きになれるかもしれないそうです」


「そうなんだね。ふむ、少し気になるところはあるけれど、どうしてその子は嫌いなものばかりなんだろう」


「たぶん彼女は周りのものを何も信じられないからだと思います。信じられないから彼女は自分の居場所をなくして周りを嫌うしかなくなっている、そんな気がします」


「ほう、彼女は自分の居場所がないと思っているんだ」


「はい」


 だから凪沙は自殺に向かうしかなくなっている。そのはずだった。

 居場所を見失ってしまうくらい周囲を信じられない、か。そう先生は呟いた。


「となるとその子は周り以上に自分のことを信じていないんじゃないかな?」


「自分のことを?」


「あぁ。話を聞いている限りそう思うよ。人を信じるにはまず自分を信じないといけないからね」


「そうかもしれません」


 もしかしたら凪沙は自分のことを普通の女子高生だと思いながらも心のどこかではそう信じ切れていないのかもしれない。そしてその信じ切れない要因こそが彼女のいう「私は何に見えるの?」という問いの答えに当たるのではないか。ではその要因とはなんなのだろう。


「同じように感情というものは外に向かう前に一度自分を通してから表に出て行く。そこは演奏と似ているね。だから精神状態や自身が抱いている感情によって人は周りに対する好悪も変わっていく。それが人に好き嫌いがある理由だ。ステンドグラスに光を通して現れた色とりどりの影のように、自身の中にある様々な感情を通して色んなものを見ていくことで自然にものに対する好き、嫌いが生まれていくものなんだ」


 その考え方は分かる気がした。


 昔に比べて俺は好きなものが減った。特に自殺しようという意識が生まれてからより顕著になったように思える。自分に向けられた諦めと嫌悪と絶望が目に映るものに対する好きという気持ちを少しずつ減退させていたからなのだろう。


 それが余計にこの世界の興味を失わせて生きたいと言う気概をも奪っていった。その悪循環がさらに自殺へと駆り立てた。自分の内にあった感情が腐りきった結果と言える。


「もし本当に彼女が嫌いなものしかないというなら、彼女は自分のことを嫌いだと思っているんじゃないかな?」


「はい……」


 それは俺が最初に言ったことだった。その結論に落ち着かせた先生の言いたいことが分からずに曖昧な首肯になってしまった。

 それに気付いたのか先生は「あぁ、そうじゃなくてね」苦笑して付け足した。


「自分のことを『嫌い』という感情そのものだと思っているんじゃないかって、そう言いたかったんだ」


「嫌いという感情そのもの?」


 静穏な声で紡がれた答えに首を捻ると先生はゆったりと頷いて目を開いた。そして真っ直ぐ俺を見つめてくる。


「好き嫌いは一度自分を通してできあがるとさっき言ったけれど、逆に言えば好き嫌いとは自分自身のことを見るための鏡といってもいい。ここまではいいかな?」


「はい」


「どれだけ自分のことを嫌っている人も、ほとんどは外部に何かしら好きなものの一つや二つを持っている。それは自分の中に嫌いと言う気持ち以外の感情もあるからだよ。諦めきれない気持ちでもいい、些細な誇りやこだわりだって構わない。それさえあるのなら、人は何かを好きになれる。でも、もしそうじゃないのなら、その人は嫌悪に満たされていることになる。それは人とは言えないと私は思うよ。たった一つの感情しか持ち合わせていないというのは人としてあり得ないからね、例えそれが自分に向けられたものだとしても」


 俺は首を縦にも横にも振れずに先生の話を聞いていた。その先に立ち現れる凪沙の事を考えながら優しい声に耳を傾け続ける。出来上がっていく凪沙の形がおおよそ良いものと言えないことを予想しながら。


「だから本当に真の意味で好きなものが存在していない人がいるのだとしたら、その存在は人の形をした嫌悪そのものなんだと思うよ。どんな自分の感情を通しても嫌いとしか言えないのならそういうことになる」


 一度深く息を吐き出した先生は「そして」小さく息を吸って続けた。


「君の言う女の子がこの世に嫌いなものしかないのだとしたら、それは相当純度の高い『嫌い』と言う感情を通してしまっていることになる。そうやって彼女は自身の中に嫌悪しか見出せず、自身のことをそれそのものだと思うようになっている。そういうことなんじゃないかな」


 そうやって導き出された結論はとても整っていて的を射ているように聞こえた。実際にそれが凪沙の言いたい彼女の正体なのかどうかは分からないけれど、少なくとも俺の主観で見ていた普通の女の子というありきたりな答えよりもよっぽど凪沙の意図するものに近づけている感覚はある。


 そしてもし凪沙が自身を人間ですらない嫌悪そのものだと定義しているのなら「やりたいこと」の意味は今まで予想していたものとは違った形で、しかしより強い説得力を持つようになる。俺にとって好ましくない、彼女が生きるために行動していたという根拠をより強固なものにする。

 降って湧いた焦りと苛立ちに自然と強くなっていた奥歯の力を努めて抜いて息を吐く。


「先生は凪沙を……彼女をなんだと思いますか?」


 その質問はただ口を動かしたら出ただけの特に意味はないものだった。どんな答えを期待しているわけでもない。話に一段落ついたから息抜きをするみたいに交わしただけだった。

 先生は「ふふっ、凪沙ちゃんって言うんだね」と小さく笑って続けた。


「私が会ったこともない人を判断するのは烏滸がましい限りだけれど凪沙ちゃんは人間だよ。間違いなくね」


「言い切るんですね」


「簡単な話だからだよ。凪沙ちゃんはカレーを好きになれそうなんだろう? その感情があれば人だと言えるよ。それとも君は人じゃないと思っているのかな?」


「いえ、俺も普通の女子高生だと思っています」


「それは良いことだ。彼女にとって救いになるね」


「救いに?」


 優しいはずの響きに胸の奥がざわついた。浴室用の目の粗いスポンジにじっとりと心の輪郭をなぞられたようだった。


「周りの世界を信じられずに嫌いなものしかないという凪沙ちゃんが君相手では人形にならないばかりかこんな話までしている。そして予想だけれど好きになれそうだというカレーに君は何か関係している。違うかな?」


「そう、ですね」


「ふふ、そうなると彼女はきっと君を拠り所にしているね。そんな君からちゃんと人だと見てもらえているというのは救い以外の何ものでもないと思うよ。だからその気持ちは凪沙ちゃんに伝えてあげた方がいい」


「…………」


 先生の諭すような声は俺が感じていた嫌な予感と同じ事を告げていた。この結論だけはどうしようもなく受け入れがたいというのに、自分だけではなく先生からもそれが正しいのだと突きつけられてしまった。逃げ場を一つずつ潰されて追い詰められていくような感覚がピリピリとした痛みとなって頭の端から蝕み始める。


 もし伝えたらどうなってしまうんだ。俺は間違っても凪沙の救いになんてなりたいわけじゃない。彼女に俺を救って欲しいんだ。この世から消えるための道を示して欲しいだけなんだ。なのにどうして立場も方向も逆の道が提示されているんだ。


「それともなにか伝えてあげない理由があるのかな?」


 何も答えなかったことを否定の意思と取ったのか先生は俺に向けていた目を細めた。愉快げでありながらどこか責めるような色も混じった声だった。


「俺は……」


 続きは言えなかった。絡みついた同情が否定の言葉を阻害して言葉にならない。情けないくらいに迷いが生じていた。否定する気持ちの方が強いと断言できるのにすんなりと出来るほどには曇ってしまっていた。だから同情なんてしたくなかったのだ。


「まあ必ずしも伝えなきゃいけないとは言わないよ。ただ少し意外だね。君は即答するものだと思っていたから」


「どうしてですか?」


「普段の君は素直だし、それに凪沙ちゃんのことが好きみたいだからね」


「……好き?」


 まるで全て分かった上で嫌がらせするみたいに先生は俺の中で疼き苛立つ部分を的確に刺してきた。先生まで俺の底からかつて抱いた好意を引きずり出そうとするのか。お願いだから止めてくれ。

 そんな思っているだけの声では届かない。


「違うのかい? 前からずっと君は凪沙ちゃんのことばかり考えて心を乱している。それは偏に君が彼女のことを好きだからだと思っていたのだけれど」


「俺は凪沙の事を好きだとは思えない」


 自分が出したと思えないくらい声が低くなった。その黒く濁ったような声に先生は「どうして」と微笑んで首をかしげた。


「俺は凪沙に苛立っているんです。憎くて恨めしくてどうしようもないんだ。こんな気持ちを好きだとは言えないでしょう」


 言い慣れた凪沙への感情は流れるように口からこぼれた。言った自分ですらいつもよりも虚しく聞こえた。その反論がもう、なんの意味もなさないことを自覚しているからだろう。


「君がいくら自分のことを憎らしく、恨めしいと思っていたとしてもそれをそのまま彼女にぶつけてはいけないよ」


 その虚勢にも似た俺の言葉を先生はただ突き返してきた。妙にそれが腑に落ちた。凪沙への想いは一度俺の心を通して表に出て行く。先生の話が告げていた。そしてきっとそれは合っている。


 俺は最後に死ぬことしか選べない自分のことを憎く恨めしいと思い、苛立っている。そんな結末しか選べない惨めな自分をかつて死んだ凪沙に重ね合わせた。それでも彼女のことを理解できず、次第に自分への感情がそのまま凪沙へと向けられるようになってしまった。そうやって凪沙への好意は歪んでカビが生えた。


 そんな俺の気持ちを見透かしているみたいに、先生は駄々をこねて泣きわめく子供をあやすような目になる。


「君から見た彼女にはなにかしら憎いところがあるのかもしれない。どんな要因なのかは私には見当もつかないけれど、君の心を掻きむしるような苛立ちを感じさせるものがあるのかもしれない。けれどさっきも言った通り人の感情は複数存在しているものだよ。君が凪沙ちゃんに抱いた気持ちは反感だけじゃないのだろう?」


「俺は……どうしても凪沙を好きになっちゃいけないんです。ただ憎いと思える相手でなければならないんです。そこに好きなんて感情はあっちゃいけない。もしあってしまったら俺は俺が今以上に許せなくなる」


 好きだと認めてしまったら俺は凪沙に死んで欲しくなくなってしまう。そう思うこと自体は別によかった。俺はあくまで自分が死ぬことを望んでいるのであって凪沙が死ぬかどうかは俺には関与しないはずだったから。


 けれどいつの間にか状況は変わってしまっていた。凪沙が生きたいと思うようになった原因をいつの間にか俺が作ってしまっていたのだ。俺が彼女を知っていくことで、理解していくことで凪沙は段々と俺を信頼し想いを寄せ始めている。自惚れではなくてそれは確かだろう。


 そして先生の言った通り凪沙が俺を生きるための拠り所に、居場所にしてしまっているのなら、彼女を生かすために俺は死ぬことが出来ない。凪沙に生きて欲しいと願うなら俺が死ぬことは許されない。


 俺はこの先訪れる虚無の時間を知りながら、本来とは違う時間の流れるこの世界で生きていくことを余儀なくされる。普通に過ごしても居場所を作れなかった俺が、そんな特殊な環境下に身を落として過ごしていかなければならない。そんなのは苦痛だ。考えるまでもなく居場所なんて作れないまま拷問にも近い辛苦の道が続いているに決まっている。


 その中を生きる覚悟が俺にはあるのか。凪沙に生きて欲しいと願う覚悟を俺は持てるのか。これはそう言う話なのだ。

 だから同情なんてしたくなかったし凪沙の笑顔を見たくないと思ったんだ。そうして少しずつほだされて、わずかでも彼女に想いを寄せてしまえばジレンマに陥ることくらい分かっていたから。


 もっといえば、この時間に戻ってきてから自分が死ぬために傷つけてでも利用してきたのに信じると言ってくれた彼女のことを好きと言うだなんてまともじゃない。憎いすら言っておいて内面的には年下の少女をなおも好きだなんて、誠実性の欠片もなければ彼女に対する最大の冒涜にすらなるかもしれない。


 好きだったのならもっと彼女と正面から向き合って、彼女のために尽くすべきだった。それをしてこなかった俺が今更向けられる好意なんてあっていいはずがない。本当なら想いを寄せられる事も信頼されることもあってはいけなかったのだ。


 だから俺は、煩わしい板挟みを回避するために、自分が死ぬという意地のためにカビの生えたパンのような好意を否定しなきゃいけない。彼女との時間を重ねる間に染み込んだ好意を肯定してはいけない。居場所のない世界で好きになってもただ苦しいだけだ。


「君は何か、認めることを怖がっているようだね。好きであるということが悪だと思っているみたいだ。けれど人の感情に悪なんて存在しない。その人が抱いた以上それは紛れもない正しい気持ちなんだよ。例えどれだけ周りから理解されず、かつ受け入れがたいものだったとしてもね。だから否定していいものではないよ、抱いた本人ならなおさらだ」


「だとしても、何でもかんでも自分の気持ちを肯定して良いわけでもないはずです。都合の良い感情ばかりに目を向けてしまうのは子供のやることです」


「そんなことばかりしていると何も聞こえなくなってしまうよ。勘違いしてはいけないけれどどんな状況でも気持ちを抑えつけられるのが大人じゃないよ。どれだけ辛いことだとしても抱いた気持ちを受け入れられるのが大人なんだ。その点君は子供だ、君自身が言ったようにね」


「……だとしても、俺は凪沙の事を好きだとは言えない」


「どうしても否定するしかないんだね」


「はい」


 ここだけは譲らない。どれだけ絆されてもここを譲ってしまったら俺はもう本当に引き返せなくなる。誰よりも俺自身のために俺は凪沙への好意を否定する。

 先生は息を吐いて窓の外を見た。何かを探すように目を細めた。しばらくして見つけたのか口元を緩めた。


「人生の先輩として一つ、アドバイスしておこうと思う」


 その声はもう諭すようなものではなく、濃厚なキャラメルのような渋さと甘さが混ざり合った落ち着かせようとする音をしていた。

 どこか懐かしむように目を瞑った先生は重たげに瞼を開いて続けた。


「理性から生まれた気持ちと自然に生まれた想い、それが相反することはよくあることだよ。でもそれを同時に抱いちゃいけないわけじゃない。間違ってもそのどちらかを否定してはいけない。人の気持ちはそんな簡単に割り切れるものではないし、そのバラバラな気持ちが束になって一つの感情が作られているのだからね。だからもし、どうしても整理しきれない乱雑な気持ちの束が生まれてしまったのなら君はその気持ちの束に、それが形作った感情に名前をつけてあげるといい」


「名前をつける?」


「あぁ。それはすでにある言葉を当ててもいいし新たに自分で作った表現だっていい。それこそ曲に名前をつけるようにね。名前をつけて定義してしまえば受け入れやすくなるものだよ。受け入れられれば今までとはまた少し変わった視点を持てるようになる。そうやって自分の言葉で説明出来ることを一つずつ増やしていくことで人は少しずつ成長していくものだよ。きっと今の君に一番必要なことだ」


 はい、とは言えなかった。それが全部正しいことなのだろうと分かってしまって、それが悔しくて食いしばって俯くことしか出来なかった。今の俺は間違っている。人として間違え続けている。そう言い聞かせられているようでただただ惨めだった。


 俺が子供だなんてこと分かっていた。無駄に歳を重ねただけの大人になりきれなかった子供だという事は分かっていた。そしてその理由が目の前に現れた。自分の言葉で説明できるものを増やせなかったから俺は空っぽで奥行きのないつまらない人間になっていたんだ。それをしてきた周りの人に引け目を感じてどんどん自分の居場所を失っていったんだ。


 ようやく分かったところで遅すぎた。死ぬ以前の時間でこの話が出来ていたら何か変わっていたのだろうか。そう考えながらも後悔が湧くことはなかった。生きることを諦めている愚かな自分のディティールがハッキリしただけでそれ以外の意味は見出せない。見出したくない。


「……帰ります」


 言って立ち上がって背を向けると先生は「そうか」少し残念そうに肩をすくめた。


「気を付けて帰るんだよ」


「はい。今日はありがとうございました」


「こういう時もしっかり挨拶してくれるところは君の美点だね。そんな君にもう一つ、今度はピアノの先生として伝えておくよ」


「なんですか?」


 先生は足音を鳴らさない軽やかな歩調でレッスン室のドアに歩み寄って開いた。


「演奏と人とのコミュニケーションは似ているところがある。相手が変わるだけなんだ。きっと君なら上手く出来る」


「それはどういうことですか?」


「今までのレッスンを思い出すといいよ。君なら分かるはずだから」


「……はい。ありがとうございます」


「頑張って、史仁君。君には後悔しないでほしいからね」


 その思いやりに頷いて俺は先生の家を後にした。言葉はありがたいけれどもうすでに後悔ばかりを重ねている。それによって呼吸も難しく思えるくらいに首が絞めつけられている。


 そんな俺が今になって後悔しないような道なんて選べるのだろうか。そんな道があったとしてそれはどこに伸びているのだろうか。分からないまま家へと向かった。


 現実逃避で来たはずのレッスンで何よりも現実と向き合わされた。凪沙の中にあるものと逃げ場を失いつつある自身の状況、そして奥底に眠らせておいた感情がほとんど表に出かかっているということ。それらが嫌でも目の前に引きずり出されて頭痛と目眩がしてきた。


 俺は死にたいだけなんだ。他に望む事なんて無い。

 それ以外の感情を押し込めるように何度も大きく息を吸い込む。

 好意も同情も、全て消え去ってしまえば楽なのにそうなってはくれない。


 それなら死ぬまでの残りわずかな時間、なんとしてでも押しとどめ続けるしかない。今までやってきたことと同じだ。


 あと少し、今日至った結論の答え合わせさえしてしまえば俺は解放される。そのためならずっと子供でい続けたって構わない。そのはずなんだ。



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