第二十二話:あなた以外の愛なんていらない




 一週間前にメッセージは来ていた。

『十二月十日、家に来て』それだけの簡素な一行が約一ヶ月ぶりに凪沙とのトーク画面を更新した。やはりというべきなのか返事をくれるのは誕生日となった。


『分かった』そう返信してからがまた長く感じた。それまでの三週間よりもそこからの一週間の方がよっぽど時間がかかっていたように思う。


 もちろんその三週間も短かったわけではなくて、凪沙が学校に来なくなったのもあってずっと心配だった。何も言わず死ぬのは止めてくれと言う約束は口約束でしかなく、誕生日まで生きていてくれるだろうというのも希望的観測であることには変わりなかった。


 凪沙がどうしているのか、何を考えているのか。今までの十三年よりももっと強く、意識と気持ちを向けていたかもしれない。そうして完全に一致した頭と心は改めて凪沙のことばかりを求めていた。身勝手な想いだとしても一秒でも早く彼女の顔が見たかった。声が聞きたかった。


 だから今日、ようやく訪れた約束の日に俺は震えていた。

 極度に高まった緊張と不安に腹の底が揺さぶられ、心臓もかつてないほど強く速く鼓動を全身に打ち付ける。おかげで血は隅々まで行き渡っているはずなのに指先は冷えていた。吐く息でさえ荒々しく乱れて一定の強さを保てない。家に近づくにつれて酸素が薄くなっているという錯覚に陥る。


 早く行きたいのに行くのが怖い。そんな葛藤と軽い吐き気に苛まれながらたどり着いたマンションのエントランス、一ヶ月ぶりに触れるオートロックの操作盤に指を這わせて呼び出しボタンを押した。


『待ってて』


 押した瞬間に声が聞こえてきて思わず身構えた。モニターを切らずにこちらに向かってくれているのか、スピーカーから玄関のドアが開いて閉じる音が小さく聞こえた。


 一分もせず凪沙が姿を現した。一ヶ月ぶりに会った彼女は白いニットのセーターにブラウンのロングスカート姿だった。健康そうなその姿に安心しながらも、一瞬だけ合った覚悟の決まったような鋭い双眸に怯みかけた。すぐにお互い視線は外していた。


 気まずさを誤魔化すように「久しぶり」と絞り出すと凪沙は短く「来て」と身を翻してエレベーターにむかっていく。その背中に急いで着いて歩く。


 エレベーターに乗ってから凪沙は一言も喋らなかった。俺もまた口を開けずに操作盤と向き合う彼女の背中だけを見つめていた。やけに長く感じる上昇していく感覚に身を任せている間、何度もどんな決断をしたのかと口の中で問いを転がしていた。

 

 俺の存在を必要となんてしなくていいからとにかく生きる道を選んでいてくれと願う。一ヶ月間し続けた願いを、今だけは神に縋ってでも叶えたいと追い込みをかけるように強く祈る。


 そうやって息が詰まりそうになりながら念じ続けた時間はエレベーターのドアが開くと共に終わりを告げ、そのまま凪沙の家へと入っていった。

 通されたリビングのダイニングテーブル、過去三度と同じ席に促されて座った。


 ただ、凪沙はいつもの正面には座らずに少し離れたところに俺に背を向けたまま静かに立っていた。その生真面目に伸びた背筋と艶のある長い髪は相変わらず綺麗だった。視線は下を向いているのか小さな頭は向こう側に傾いている。たった数メートルが果てしなく遠く感じる。


 言葉も視線も交わさずに背を見つめてたのはきっと数分、いや一分もなかったのかもしれない。それでも一時間ほど続いたように感じられた沈黙は凪沙の吐いた息によって溶かされた。


「私は史仁君のことをとても憎いと思っているわ。その上で聞きたいのだけど、史仁君は自分が死ねば私の気が収まると思っているの? 自分に死ぬ価値があると思っているの?」


 ようやくまともに聞けた声は低く抑えられていて冷たかった。その言葉は刺々しい割にあまり攻撃的には感じなかった。むしろそこには息苦しさや悲しさが滲んでいるような気がした。


「きっと俺の命には価値なんてないよ。だから死んだところで自己満足にしかならない。けど、もし俺が死ぬことで凪沙が少しでも生きやすくなるんだったらきっとそこには価値が生まれるんじゃないかと思ってる」


 言うと冷えた空間に凪沙の溜め息が吐き出された。


「……やっぱり史仁君は私の事を、そしてあなたのことを分かってない」


 温度の低い乾いた嘲笑に身が強張る。

 上を向いた凪沙の頭に併せて髪の先が伸びたように下がる。そのヴェールの向こう側から吐息混じりに囁かれた。息が鳴らしたような頼りない声だった。


「十三年。この意味が分かる?」


 その年月は俺にとって一つの意味しか持たない。


「俺の記憶の中で凪沙が自殺をしてから、同じように俺が死ぬまでの時間だよ」


「えぇ、そうみたいね。そして私の漠然とした記憶が始まってから今日までの時間でもある」


「……」


 四歳頃から続いている凪沙の記憶、それが何を意味するのかは俺には分からない。凪沙が今まで話してくれたことから呼び起こそうとするも照らし合わせられるものがすぐには浮かばなかった。

 俺の思考よりも先に凪沙の声が空気を伝ってくる。


「その記憶は幼稚園に入園して外の世界に触れるようになってしばらく経ってから続いているわ。そしてそこから私の悪夢は始まっているの」


「悪夢」


 禍々しい言葉に思わず復唱してしまった。言われてその意図するところは分かった。

 その前提なのか凪沙は頭を小さく縦に振った。


「きっとそれは偶然なんだと思う。けれど、どうしても私はそこに意味があって欲しいと願ってしまっているの」


 最後の方は声が震えていた。その言葉は俺の願いに似た響きをしている気がした。


「十三年」


 か細く揺れる声を必死に絞り出すように凪沙の声は続く。


「私が入月の娘として認識されていることに気付いてから愛の一つも感じられなかった時間。そして史仁君が私の知らない未来の中でずっと私の事を考えて、想い続けていた時間。その間、到底受け入れたくない酷い気持ちも含めて私を想い続けてくれていた。その気持ちに史仁君は愛って名前をつけた。出来すぎなのよ、そんなの」


 凪沙は吐き捨てて「でも」と強く空気を揺さぶった。


「そこに意味があると思いたいの! こんな風に思うのは凄く悔しくて許せなくて、こんな単純な自分が嫌になるのに、奇跡だって嬉しくなっている私もいるの!」


 初めて聞いた叫び声が胸に突き刺さって滲んでいく。不安ばかりが叩いていた胸の鼓動の痛みが和らいだ。凍えそうなほど冷たかった血流が優しい熱へと変わっていく。

 叫び慣れていないのか息を乱したまま凪沙は言葉を重ねていく。


「本当は好きになるつもりなんてなかった。誰でもよかったの。ただ私の事を理解するだけの人がいればいいってそうすれば生きていいと思えるかもしれないって、そんな希望を押してつけていただけなのに」


 不安定に揺れる綺麗な声で語られていく懺悔にも似た想いには少しの共感と愛おしさがあった。俺と同じように、俺よりも前向きなエゴを持っていた彼女が、それを俺に見いだしてくれた彼女がとても愛おしく思えた。一時はそれさえも憎んだのに、生きようと少しは前向きになれた今、とても心地よく感じる。


 小刻みに震え始めた彼女の肩に手を伸ばしたいとさえ思ってしまった。その気持ちをなんとか抑えて背中を見つめる。まだ凪沙の話は続く。


「それなのに私とばかり一緒にいてくれて私の事をちゃんと見てくれて、分かっていなかったのに馬鹿みたいに分かった振りして近寄ってきて、そうしたらどんどん理解してくれて好きにさせられた。他の人ではダメなくらい、私にとって大切な人になっていた」


 静かな口調がじわりと胸中に染み渡る。抱いていた不安も恐怖も全てが甘い響きに塗りつぶされていく。凪沙への気持ちが刺激されて身体が震えてくる。


「確かに史仁君は私に重要な事をずっと隠していた。私に死んで欲しかったとさえ言った。そんな史仁君のことが私は嫌い。気持ち悪いと思っているし軽蔑もしているし、許せないし醜いと思っている。最低な人だって思っているし顔も見たくないって思った。でも好きっていう気持ちはどうしても変えられない」


 歓びに息が詰まった。どれだけの反感があっても好きだと言ってくれるその気持ちが、身に余るほどのその想いが全身を包んで熱くなっていく。

 泣きそうな声で凪沙は絞り出していく。


「史仁君が私を利用したように私も史仁君を利用しようとしていたから、お互い様だったのよ。どころか私は史仁君が何か隠しているって分かっていたのにそれを知ろうとしないで、卑怯な手を使ってあなたを自分のものにしようとした。そんな私を、醜い私をそれでも好きだって、愛してるって言ってくれた。そんな史仁君が私も好き、やっぱり好き」


「凪沙……」


「十三年も想い続けてくれたとか、愛しているだなんて無茶苦茶なことばかり、そんな私が望んでいたものばかり言われたら嫌でも好きって言うしかないじゃない。私だってこの嫌いなのに好きって気持ちを愛って呼ぶしかないじゃない」


「凪沙!」


 溢れる想いに耐えられなくなってとうとう震える背中に駆け出す。さっきまで遠く感じていた数メートルは熱に突き動かされた俺には一瞬の距離だった。

 声に振り返った凪沙はそのまま俺を抱きしめて言った。


「だから私と一緒に生きて。お願いだから死ぬなんて言わないで」


「……いいのか、年上のろくでなしだぞ」


 凪沙からの抱擁に打たれて漏らした声は震えてしまった。

 俺の肩に顎をつけている凪沙はそのまま耳元でうん、と囁いた。


「話を聞いていたなら分かるでしょう? あなたがいてくれなきゃ私は生きられないの。それに史仁君は同い年の高校生、そうでしょ?」


「そう、だな」


 その言葉を聞いて俺も凪沙を抱きしめ返した。

 柔らかい凪沙の身体が心地良い。その温もりが、甘い香りが俺を満たしていく。頬を摩る凪沙の髪がくすぐったい。でも今はそれさえ快楽に変わる。


 高鳴る鼓動は凪沙に聞こえていないだろうか。くっついた胸から伝わっていないだろうか。そんなことを考えて恥ずかしくなりながら抱きしめる力を強くした。

 応えるように凪沙も力を込めて、そしてお互いに腕をほどいた。

 身体を離して見つめ合う。


「ようやく顔が見られた」


「そうね、やっと」


「じゃあどうして見せてくれなかったんだよ」


「見たらきっと何も言えなくなりそうで怖かったから」


「……そっか」


 真っ赤な顔と笑い合った。濡れた瞳が優しく揺れて小さな薄紅の唇が自然と綻んでいる。色と感情が出過ぎた表情は大きく崩れていたけれど、今まで見た中では間違いなく一番綺麗だと思える顔だった。


 優しく見つめくる瞳が求めてくるような色を帯びた。


「ねぇ、史仁君。愛してるって、もう一度言って」


「……今?」


「照れないでよ、今更」


 はにかんだ凪沙の腕が首に巻き付いてきた。

 図星だったけれどこうされてしまうと断る事なんてできない。右手を彼女の後頭部に、左手を腰に回して見つめ返した。


「愛してるよ、凪沙」


「うん、私も愛してる」


 満足そうに笑った顔を引き寄せて唇を重ねた。

 一度離すと今度は引き寄せられてもう一度触れた。

 離れる度に啄むようにキスを交わす。確かめ合うように、傷を舐め合うみたいに優しく触れさせ合っていく。そうやってこの一ヶ月、いや、すれ違い続けていた三ヶ月を、そして空白のまま持て余していた十三年間を埋めていく。


 その何度目か。唇を離そうとした彼女の頭を逃がさないように支えて、触れさせたまま唇の間から探るように舌を伸ばした。「んっ」と驚いたように身体を震わせた凪沙は腕に少し力を込めて唇を少し開いた。間を通り抜けた舌はすぐに凪沙のものと触れて絡まり合った。味わうように、貪るように舌を溶け交わす。


 互いの舌を覚え合った顔を離すと、凪沙は艶やかに潤ませた目を向けてきた。


「ねぇ、史仁君。私を愛し直して」


 その表情と囁きにだらしないくらい胸が高鳴った。


「前は反故にされちゃったでしょ。でも最後があんな記憶のままなんて嫌なの。それに愛してくれたら今度こそ私は胸を張って人になれたって言える気がするから。お願い、史仁君」


 色香をまとった少し泣きそうな顔に情欲が掻き立てられた。

 それでも一度だけ、暴れそうになる欲望を抑えて問いかけた。


「……俺の愛は重いぞ、きっと誰よりも。死に方を真似した上、十三年も戻ってくるくらいだから」


「大丈夫、私には十三年分受け取り切れていない空きがあるから。それに私の愛だってきっととても重い。同じように重い人じゃなきゃ受け入れられないわ」


「凪沙」


 抑えを解いた愛欲を口づけで伝える。もう何も我慢する必要なんて無い。

 顔を蕩けさせて微笑んだ凪沙に連れられて彼女の部屋に入った。ドアを閉めると一層激しく抱擁と接吻を交わし合いながら互いの着物を剥いでいく。


 ベッドの脇で下着になると凪沙が俺を引き込むように背中から倒れ込み、俺が凪沙を押し倒すようにしてベッドに沈んだ。

 下から凪沙が手を伸ばして頬に触れてきた。


「怖い?」


「もう大丈夫。凪沙は?」


「……少し」


「この前あんな誘惑してきたのに?」


「あ、あの時とは状況が違うから……」


 凪沙は恥ずかしそうに手の甲で口元を隠して目を逸らした。そんな仕草が愛おしくて頭を撫でながら手をどかして口づけをした。


 互いの最後の一枚に手をかけると、凪沙が鳴くような声で聞いてきた。


「私の身体、変じゃない?」


「うん、とても綺麗だ」


「よかった」


 はにかんだ凪沙と「いくよ」「うん、きて」短く言葉とキスを交わして彼女の中へと入れていく。


 苦しそうに息を荒げながら目を瞑る凪沙の頬に手を当てながらゆっくりと差し入れて最後まで到達すると凪沙の目から涙がこぼれた。痛みや辛さもあるんだろう。それでも凪沙は「大丈夫」そう艶笑を浮べた。


 その涙を拭って唇を重ね、両手の指を絡め合った。

 ゆっくりと俺なりに優しく気を付けて身体を目合わせているとどうしてか先生の言葉が耳の奥で聞こえた。右手と左手から感情を受け取って、自分も感情を返すのが演奏だと。そして演奏は人とのコミュニケーションに似ていると。


 そう思うと確かに熱く繋がっている凪沙の両手から彼女の愛を感じる気がした。右手からは好意が、左手からは思いやりが熱と共に伝わってくる。真っ直ぐと俺の心に伸びてくる彼女の想いはジンワリと胸に、身体中に広がって響き、温かさと快楽が無限に満ちて幸福感をもたらしてくれる。


 そんな愛情と幸福感を俺も凪沙に返すことが出来ているだろうか。気持ちを込めようとすると自然と両手を握る力が入った。驚いたようにビクッとした凪沙は一瞬力を緩めて、再び込めてきた。それだけで伝わっていると確信できた。


 動く度に手を握る力とその温度はわずかに変わっていく。その変化を二人で感じながら気持ちをぶつける行為を続けていく。


 大丈夫だ、ちゃんと今俺たちは繋がれている。心を通わせることが出来ている。

 こんなにも幸せだと思えているのだから、間違いない。


 蕩けた表情で見つめ合いながら、濃厚な口づけを交わしながら、愛を求め合った。繋いだ手から気持ちを受け取りあいながら、愛を感じ合った。







「史仁君って初めてなの?」


 余韻に浸る中されたあまりにも真っ直ぐすぎる質問に一つ咳をして凪沙の方を向くように寝返りを打った。横でうつ伏せに寝転んでいた凪沙が見つめてきていた。

 もうお互いに息は整っていて昂ぶりも落ち着いている。


「なに急に」


「少し気になったの。痛かったから」


「それは……単純にごめん」


 言い逃れ出来ない負担を強いていたことに罪悪感を覚えると、凪沙は逆に申し訳なさそうに笑って手を伸ばしてきた。


「いいの。初めては痛いって聞くし。それに史仁君の気持ちは伝わってきたから今はとても幸せよ」


 頬に触れてきた凪沙の手に自分の手を重ねて「ありがとう、俺もだよ」笑い返した。


 言ってから少し恥ずかしそうにはにかんだ凪沙を見て、こんなに幸せだと思える日があっただろうかと考えようとしてすぐに諦めた。あるわけがないのは分かりきっていたし、今この瞬間に集中していたい。


 優しく頬に触れる温かくて柔らかい手が胸を安堵で満たしてくれる。そしてその手に触れ返していることもまた、幸せを感じさせてくれる。お互いに想いを寄せて生きている事を実感できてずっとこうしていたいと思えた。


 死のうとしていたことが馬鹿みたいで、居場所がないと悲観的になっていたことも凪沙がいてくれれば何も怖くなくなる。そんな風に思ってしまうのはそれだけ俺の気持ちが重いからなのだろうか。でもその重い感情を受け入れると言ってくれたことで俺は救われた。やはりこの想いが繋がった瞬間以上の幸せなんて存在しない。


 そう気恥ずかしくなるような感慨に耽っていると「それで、どうなの?」凪沙が揶揄うような笑みを浮べた。


「どうって?」


「初めてかどうか」


「……別にいいだろ、そんなこと」


「やっぱり初めてなんだ」


 実際どうかというと否定できない。もしそういう間柄の相手が以前いたのだとしたら俺は自殺しなかっただろうし、凪沙の事を考え続けることもなければここに戻ってくることもなかったはずだ。

 凪沙も分かって聞いてきているような気がする。というか絶対分かって聞いてきている。


「揶揄うのは止めてくれ」


「ピロートークの一つもしてくれないからよ、おじさん」


「うぐっ……。おじさんも止めてくれ、社会通念的なものに押し潰されそうになる」


 中身が三十歳という事実はどうあっても変わらない。その分の精神年齢になれているのかというときっとなれていないのだろうけれど、それでも気持ちとしては年上なのだ。それが十三歳も下の少女に手を出したとなると問題しかない。考えれば考えるほど、どうしようもない気持ちの対処に圧死しそうになる。


「冗談よ。私たち同じ高校生でしょ」


「それはそれでまずい気がしなくもないけどな……」


「ならどうすればいいのよ」


 凪沙はクスクスと鈴の音のような声で楽しげに笑った。

 確かに事が行われた以上どうしようもない。考えない方がよさそうだ。目下の話題を思考から外していく。


 にしてもピロートーク。俺としてはただ手を触れ合っているだけでも余韻に浸れて良いのだけれど凪沙はそうでもないらしい。行為の興奮は落ち着いても、一度本音がさらけ出した感情が静まるにはもう少しかかってしまうのかもしれない。

 上手く安らげて余韻を損なわなさそうな話、か。


「……トークではないけれど、それでよければ聴いてほしいものがある、かな」


 ふと思い付いて言ってみると「何かしら?」凪沙は首を傾げた。


「ここじゃ無理だから一旦服着てリビングに行きたい」


「いいけれど……」


 不思議そうな顔をした凪沙とベッドを出て脱ぎ捨てていた服を着直す。

 踏み込んだリビングはエアコンが効きながらも凪沙の部屋よりも涼しくて、火照りの残った身体には丁度よかった。


「で、何をしてくれるの?」


「それなんだけど、ピアノ少し触っても良いかな?」


「えぇ、構わないわ」


 許可を得て壁際におかれたアップライトピアノの鍵盤蓋を開いた。試しに低い方から高い方へ順番に音を出してみる。しばらく使っていないということもあってやはり調律は狂っているけれど問題なく全て音は出た。ペダルの調子もそれぞれ悪くはなさそうだ。


「そういえば史仁君、ピアノ習っているって言っていたわね」


「うん。それで、丁度練習中の曲が今の気持ちに沿っているから聴いて欲しいと思ってさ」


 正直まだまだ人に聞いてもらえるような出来ではないけれど、この曲に関しては今が一番良い演奏が出来る気がした。技術的に上達した後でやるよりも、きっと綺麗な音が出せる。


「何を聴かせてくれるの?」


「聴いてのお楽しみと言うことで。きっと聴いたことがあるから」


「そう」


 自分の口で曲名を言うのが少し恥ずかしかった。もし凪沙が曲名を知っていたら嬉しいなと思いつつ、きっとそんなことはないのだろうと苦笑する。音楽をやらない人にとってはクラシック音楽やピアノの楽曲はCMなどテレビの中で聴いたことがあっても曲名を思い出せない事は多くある。音楽から離れて久しい俺もそういう曲が増えている。


 呼吸を落ち着けて鍵盤に手を置く。

 左手の一音から緩やかに曲は始まる。すぐに有名な旋律が表れると、後ろで凪沙が「あっ」と声を出した。やはり聴いたことはあるらしい。

 安心しながら曲に集中していく。


 この曲はエドワード・エルガーが婚約する際、記念として手がけた曲だ。その相手はピアノの教え子にして八歳年上の女性、キャロライン・アリス・ロバーツ。名家の娘であるアリスと当時はまだ貧しい暮らしをしていたエルガーはその身分と年齢の差、さらには宗教の違いでアリスの親族からは猛反対された。それでも結婚の意思を曲げなかった二人は、アリスが勘当されながらも結ばれた。


 これはそんな困難を乗り越えた上でたどりついた幸せの詰まった曲だ。

 煌びやかで明るい右手の旋律が幸せを彩り、主に左手が奏でる穏やかな伴奏が旋律を包み込んで調和を生み出していく。旋律の幸福と、伴奏が生み出す穏やかさと安心感に、その音の声に耳を傾けながら鍵盤をなぞっていく。


 エルガーの求めた、そしてアリスと掴んだその幸せを噛み締めるような声が聞こえる気がした。結ばれると分かった時の高揚感と安堵、少しの負い目と不安、それを凌駕する愛の心地よさと抑えられない胸の高鳴りも音に乗って胸の中に流れ込んでくる。


 でもまだそれだけじゃなかった。

 自身の実力不足を嘆くエルガーとそれを苦笑して慰めるアリス。自信満々で聴かせた曲をアリスに酷評されてふてくされるエルガー。寝静まったエルガーと彼の使う楽譜の整理を不満そうにも笑いながら勤しむアリス。そして、まさにこの曲を心を込めて演奏するエルガーに、その隣で目を瞑って耳を傾けるアリス。


 そんな何気ない日々を送る二人の様子が見えてきた。時に笑顔で、時に不満そうで、またある時には慈しむような顔で見つめ合っている。

 そう曲の声が告げてきた。初めて聞こえて見えた曲の世界が心に染み込む。思わず泣きそうになるくらい、この曲は綺麗な感情を持っていた。


 今まで自身を受け入れてこなかったから、同じようにこの曲の持つ本来の声と情景も受け止めきれなかったのだろう。それが聞こえてくるとそれこそ世界は変わった。

 俺もその声に、音に応えていく。今自分が噛み締めているこの幸福を、安らぎを、喜びを指先から音へ伝えていく。


 俺はエルガーほどの才能はないし音楽家になることはないのだろうけど、彼らが育んだ幸せな生活を後ろで耳を傾けてくれている少女と送っていきたい。そんな想いを鍵盤に乗せて音を導いていく。


 融け合った俺と曲の感情が部屋の空気に染み入って世界を塗り替えていくように感じた。

 それは窓から差し込む朝日のような山吹色であったり、雲一つない晴れやかな空の青色であったり、芽吹いたばかりの若葉の黄緑色であったり、咲き誇る桜のような薄紅色であったり、鮮やかな色をしていた。


 この幸せに満ちた世界と、俺と曲の感情が全て凪沙に伝わっているといいなと思いながら、俺は徐々にテンポを落としていき、やがて最後の音を鳴らして静かに鍵盤から指を離した。


 緊張から解放されて大きく息を吐き出すと凪沙が控えめに手を叩いた。


「曲名はなんていうの? 聞いたことはあるのだけれど知らなくて」


 やっぱり知らないかと苦笑しつつ、背を向けたまま答える。


「笑わないで聞いて欲しいんだけど、『愛の挨拶』っていう曲だよ」


「……ふふっ、史仁君ってロマンチストだったの?」


「本当に偶然なんだよ、この曲を練習していたのは」


 案の定おかしそうに笑われて恥ずかしかった。


 それでも弾いたのは、間違いなく今の気持ちを伝えるには、そして幸福の余韻に浸っている今聴いてもらうにはピッタリな曲だったからだ。そんな曲をあえて弾いたのなら……もしかしたらロマンチストなのかもしれない。少なくとも自覚はないけれど。 


「ふぅん、そうなのね」


 揶揄うように言った凪沙は「でも」と静かな口調になった。


「私は今の曲と演奏、とても好きだったよ」


「……好き、か」


「うん、好き」


 向き直ると凪沙に正面から抱きしめられた。すぐ頭の上から声が続く。


「ありがとう。史仁君のおかげでやっと好きって思えたのよ」


 それは凪沙が嫌悪感からちゃんと人になれたことを意味していた。やりたいことを全て終えて無事あるべき姿に戻れたことになる。彼女自身がそう自覚し前を向けたのだ。


「ならこれからもっと増えていくよ、きっと」


「うん、そうだね。史仁君には私の好きを増やすの、手伝ってほしいな」


「新しい『やりたいこと』ってこと?」


「そういうこと」


 照れくささを隠すつもりなのか抱擁の力が少し強くなった。俺もその身体を抱きしめ返し彼女の胸に顔を埋める。甘い香りに目を閉じた。


「もちろん、これからずっと手伝っていくつもりだよ」


「ずっとって、ずっと?」


「うん、ずっと」


 首を縦に振ると凪沙は当惑したような声を出した。


「……もしかしてプロポーズされてる?」


「そんなつもりはなかったけど……。まぁ、そうなのかも」


 今の俺を受け入れてくれて居場所となってくれるのは凪沙くらいしかいないだろう。そんな彼女がいてくれないと俺は生きていけないのだと思うとそれこそずっと、と言う言葉は愛の重いプロポーズと言ってもいいかもしれない。


「煮え切らないのね」


「ごめん」


「……もう。でも、私からもお願いします」


 凪沙はおかしそうに笑った。吹く度にかかる吐息で耳がくすぐったい。

 そのまま少し凪沙は静かになった。そして俺を抱きしめたまま動かなかった。あえて何も聞かずに凪沙に身を任せていると、凪沙は少しだけ湿度を持った声で囁いた。 


「改めてありがとう」


「うん」


「今、とてもスッキリしているの。史仁君が色んな気持ちを教えて伝えてくれたおかげで生まれた気がするわ」


「そっか。なら、誕生日おめでとう、凪沙」


 最初に生まれた日と今日改めて生まれ直した誕生日。その両日に向けた祝福だった。


「……えぇ、ありがとう」


 抱きしめてくる力が少しだけ強くなった。頭の表情は見えないけれどなんとなくどんな顔をしているのかは想像できた。俺は何も言わずに気が済むまでその腕に抱きしめられることにした。

 



 しばらくして俺を解放した凪沙はいつも通りの無表情に近い薄い笑みをたたえていた。自然にも作られたようにも見えるその顔は、スッキリとした穏やかなものだった。


 その顔を見て安心した俺はリビングに置きっぱなしだった鞄に歩み寄って直方体の包みと封筒を取り出した。

 まずは包みの方を凪沙に手渡す。


「これ、誕生日プレゼント」


「あ……ありがとう」


 一瞬きょとんとした凪沙は大きく表情を崩して笑顔を作った。細められた目は途端に潤みだした。すぐに「ごめん」と目を拭った彼女に笑いかける。


「気に入ってもらえるかは分からないけれど、喜んでもらえると嬉しい」


「いいえ、とても嬉しい。今までプレゼント、もらったことないから驚いたの。開けてもいいかしら?」


「もちろん」


 頷くと凪沙は丁寧に包装用紙を破らないようにしているみたいに慎重に開け始めた。そんな慎重になる必要なんて無いだろうと思いながらもその様子を眺める。テープで少し包装用紙の絵が汚くなってしまったことに「あっ」と声を出してショックを受けつつも、凪沙は中から黒の細長い箱を取り出した。


 そして蓋を開けると「綺麗……」お世辞とも本気とも取れない吐息混じりの声を出した。

 現れたのは銀色を基調とした雫型のペンダントで、小さい青色のタンザナイトがはめ込まれていた。


「高くはなかったの?」


「恥ずかしながら上を見ればいくらでも出てくるくらいのものだったよ」


「そう、なのね……」


 困惑顔で俺を見つつもペンダントを見る目は嬉しそうに見えた。

 店頭で見ながら選んだそれはその中でも高くないクラスのもので片手万円から少しはみ出る程度のものだったけれど学生の身である俺には頑張った方だった。


 もちろん親からの小遣いは使わず、この一ヶ月バイトに奔走して得た自分の金で買ったものだ。

 凪沙は光にかざしていたペンダントをこちらに差しだしてきた。


「つけて」


「俺が?」


「えぇ。こういう時ってつけて貰うものでしょう?」


「確かにそうかも」


 受け取ったペンダントのフック型の留め具を外して凪沙と向い合う。彼女は後ろ手で自分の髪を軽く束ねて持ち上げた。頭の後ろで手を組むようにした凪沙の顔に寄ってネックレスと共に手を首に回す。少し照れたように顔を背けた凪沙の後ろでフックを止めて身体を離す。


 凪沙の首から下がった雫は胸元で揺れて煌めいた。

 髪を離して散らばらせた凪沙は「似合う?」と微笑んだ。


「もちろん。凪沙に似合わなかったらほとんどの人には似合わないだろうし」


「適当なコメントね」


「本心だよ、一応」


「そう、ならいいけど」


 不満そうな口調とは対照的に自分の胸元を見下ろす凪沙は艶やかに光る目元を緩ませていた。一応は気に入ってくれたようで安心した。

 そして何より、この用意しておいたプレゼントを渡せるような関係になれたことが俺は心の底からよかったと思えた。

 ただ俺の話はまだ終わっていない。


「あとこれも渡しておくよ」


 封筒を手渡すと「なに、これ?」と凪沙は眉をひそめた。


「料理した時の材料費と俺の誕生日の時に買って貰ったケーキの分の代金」


「……いいって言ったのに」


「俺が……というか社会的にダメなんだよ、それじゃあ」


「どういうこと?」


 凪沙は本気で分かっていなさそうに首を捻った。こういうところは仮にも親に守られている子供らしい。


「凪沙は俺のこともてなしているだけって言っていたけど、それなら凪沙が賄える範囲でやるべきなんだよ。少なくとも親が出てこないのに親の金を使って振る舞うのは間違っている。だから俺のもてなしに使ってくれた分は俺が払わなきゃ」


 あの日からずっと気になっていることではあった。その時はどうせ死ぬのだから構わないと目を逸らしていたけれど、今はもう生きると決めたのだからちゃんと清算しておかないといけないことだった。それが俺なりのケジメであり覚悟でもある。


「ご、ごめんなさい……。でもこのペンダントは?」


「バイトして買ったんだよ」


「……ごめんなさい」


 しょげるように肩を落とした凪沙は新鮮で思わず笑ってしまった。


「別に説教するつもりはないよ。ただ自分が納得したいだけだし、凪沙の気持ちは本当に嬉しかったから。それに誰かのために何かを買うなら自分で稼いだ金の方が気持ちいいもんだよ」


「……史仁君、大人みたい」


「少しくらいはそれっぽいところ見せられてよかった」


 死ぬ前の俺はずっと子供のまま歳だけをとってしまっていたけれど、それでも少しは大人に近づけてはいたらしい。


 それでもまだ全然足りない。凪沙が前を向いて人になったみたいに、俺ももっと成長しないといけない。凪沙のおかげで生きていくことにしたのだから、子供のまま居続けるわけにもいかない。


 例えゆっくりでも着実に、一つ一つ世界にあるものを自分なりに自分の言葉で説明できるようにしっかり見つめていかないといけない。


 そうやって自分の中に様々なものを積み重ねて真っ当な大人になって、この世界に抗っていこう。自分一人では無理だったけれど、今は凪沙がいてくれるからきっとできる。

 一人じゃないなら居場所はあるのだから。




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