第十三話:偽善者なんていらない
教室で凪沙と向かい合っていた。
夕日が綺麗な時間だからだろうか、他の生徒はすでにいなくなっていて二人見つめ合って立っている。
赤色に照らされる凪沙は控えめに目を細めていた。
「それで、私のこと少しは分かってきた?」
「少しずつだけど分かってきたと思う」
「そう。それはよかった」
興味なさそうに言った凪沙は、急に微笑んだ。
「私の事、知ってくれて嬉しい」
「うん」
自然な笑顔に俺は頷いた。こんな風に笑うことも出来るのかと心が奪われそうになる。だからこそ見ていたくなくて目をそらすと凪沙は左手を差し出してきた。
「これからももっと私の事を知って欲しい。史仁君が安心して死ねるように」
「……えっ?」
死ぬことを凪沙に言っていただろうか。そんな記憶はない。
驚いて凪沙を見ると表情は微笑んだままだった。けれど握手するみたいに差し出してきた左手、その手首から赤いものが噴火したように勢いよく溢れ出した。
血のようなその液体は凪沙の腕からこぼれ、地面に着く前に止まると太い鞭のように形を変えた。
「でも忘れないで」
途端、凪沙の言葉と共にうねった赤い液体だったものの先端が俺の顔めがけて向かってきた。抵抗する間もなく首に巻きついて締め上げてくる。引き剥がそうと手をかけるも巻き付く力が強すぎてどうにも出来ない。
すぐに息が苦しくなった。
「私の事を全部知ったところで史仁君は私にはなれないし、惨めであり続けることは変わらないよ」
「そんなこと、分かってる」
「本当に?」
言葉を交わす間も凪沙の腕からは液体が溢れ続け、首の締まりは強くなっていく。
変わらない凪沙の笑みだけが余計に怖かった。
「死ねば救われるって思っているのよね?」
「そんなこと……」
「史仁君は死んでも惨めなままよ。だって一度死んだのにまたこうして生きている。何も出来ないからって死ぬことさえ失敗した。さらにその原因を私に押しつけて、今度は死ぬために私を利用しようとしている。年下の女の子に。惨めとしか言えないよね」
「……」
言い返せなかった。首が締め付けられているとはいえ声が出せないわけじゃない。凪沙の言葉がその通りだと受け入れてしまっているから。
でも、だから今度こそ俺は死ぬ。そのためにわけも分からず若返った今も生きる可能性を潰そうとしているのだ。
その意思に反応したのか、首の締まりがさらにキツくなった。
「苦しいよね? 辛いよね? でもまだ死ねない。私が死んだ理由を知ることができなければ死ねないって信じているんだから。本当、可哀想。でもそれで今度こそ死ねるようになるの?」
「なんっ……」
「未練のせいで生き返っていたとしても、本当に史仁君の中にあった未練はそんなことだったの?」
「……そうに、決まってる」
そうじゃないと今やっていることが全部何の意味もないものになってしまう。それこそ惨めだ。ただでさえ救いようのないくらいに惨めなのだからこれ以上惨めにはなりたくない。せめて今が一番最悪な状況だと思いたい。
だから、俺は間違っていない。そう言い張る。
「ふぅん……」
凪沙は愉悦に浸るように目を細めて近づいてきた。左腕から伸びる血の鞭は硬く首を絞めたままたわむ。
「今度は無事死ねるといいね。でもそうやって死ぬことを求めてもただ苦しみ続けて惨めを晒すことは変わらないの。どう頑張ってもね」
分かっている、そんなことくらい言われなくてもよく分かっている。
「それでいいなら、このまま私を傷つけ続けて、後悔しながら死んでいって」
「どういう、こ……」
問いかけようとして限界が来た。
意識が途切れて視界は真っ暗闇に落ちる。
その瞬間まで、楽しそうに笑う凪沙の顔はずっと変わらなかった。
「史仁君」
声が聞こえた気がした。首は苦しくない。血で出来た鞭はなくなっているのだろうか。
首に手を当てて確認していると、もう一度「史仁君」と今度は耳元で聞こえた。
呼びかけてくる鮮明な声に目を開けると、横に座った凪沙が顔をのぞき込んできていた。そこは電車の中だった。
反射的に彼女の左手首を見るも何も出ていない。
「もうすぐ降りる駅だよ」
目が合った凪沙はいつも通りの無表情だった。その顔に安心して思わず笑ってしまった。
「起こしてくれたんだ。ありがとう」
「うん。でも大丈夫? うなされていたよ」
「そう? 夢の内容、覚えてないから分からない。でも大丈夫だよ」
そう返しながら、凪沙の悪魔じみた笑顔が瞼の裏に張り付いていた。血で首を絞めてくる彼女の顔が。
手の甲で額を拭うとべたつく汗が手にまとわりついた。身体中が熱い。制服の下も酷く湿っていた。特に脇と背中と臀部が気持ち悪いのに首元だけはやけに涼しかった。深呼吸して息を通すと心拍数も相当上がっていることに気が付いた。
「辛そうだけど本当に大丈夫? 今日は止めた方がいい?」
「ううん、本当に大丈夫だから心配しなくていいよ」
「うん、分かった。でも無理はしないで」
薄らと不安そうな様子の顔に頷く。大丈夫、もう現実だ。悪夢のことなんか考える必要は無い。
これから凪沙のやりたいこと、すなわち凪沙の家で食事をするのだから。
学校の最寄り駅から二十五分ほど揺られて電車が止まると、凪沙の後に続いてホームに降り立った。嫌に火照った身体には秋のささやかな風が心地よい。
そのまま改札を出ると目の前に広がる光景にため息が漏れた。住む世界が違うという言葉の意味を初めてちゃんと理解できたかもしれない。それと同時に人生経験の少なさを痛感した。
そこは絵に描いたような高級住宅街だった。少なくとも三十年の間に踏み込んだこともなければ縁も所縁もなかった。存在自体は知っていながら目にすることはまずあり得ない架空の生物でも見ている様な気分になる。
薄暗くなり街灯のつき始めた世界に躊躇なく歩いて行く凪沙を追いかけて俺も踏み入れる。
なんとなく自分が入り込んだ痕跡を残したくなくて足音に気を遣いながら歩く。自分の足音や呼吸さえも遠くまで響いてしまいそうな澄んだ静寂は言葉通り空気が違って慣れるまで息がつまりそうだ。
立ち並ぶ住宅一軒一軒も門構えからして知っている家とは違って見えた。それぞれの門がただ建っているだけではなく、寡黙に道路の監視をしているような圧力を放っている。
家々を隔てる塀もそうだ。ブロックの沙汰な表面ではなく、きめの細かい一色の壁が、明確にここからが敷地だと主張している。もちろんそこにはいくつか細かい傷があるのだろうけれど、そうとは思わせない壮麗な佇まいで居住者の暮らしを守っている。
さらに表札の一つ見ても、落ち着いた高級感をまとってその家を上品に飾り立てていた。
極めつけはそびえ立ついくつかの高層マンション。ちらほらとつく部屋の電気のせいもあって静かに住宅街全体に目を光らせているように感じられる。
それは全部、高級住宅街というものに対するイメージが勝手に作り出した勝手な錯覚かもしれないけれど、そう知覚した意識は自然と背筋を伸ばして引き締まっていく。凪沙の姿勢が良い理由が分かったかもしれない。
「家はここから五分くらいだけど、お店まではもうちょっとかかるの。十五分くらいかな」
「そっか」
この空気に慣れきっている凪沙は淡々と言ってきた。その普段の落ち着き払った様子に、凪沙にとってはこれが当たり前なんだよなと実感する。一歩一歩脚を踏み出す何気ない挙動さえ世界に馴染んで見える。
その横顔がこちらを向いて目が合った。
「どうかした?」
「いや、本当に良いところ住んでいるんだなって驚いているだけ」
「……そう」
相変わらず返事からは何を思っているのか分からなかった。
凪沙の言う人形がなんなのかが分かったことはまだ言っていなかった。内容が内容だけにあまり他の人がいないところでゆっくり話したかったからだ。
その点、凪沙の家はこれ以上ない場所だろうと思い食後にでも話すつもりだった。
「そういえば本当にカレーでいいの?」
「うん、作りやすい方が良いから。史仁君は他のものの方がよかった?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、やりたいことって言っていたからもう少し手の込んだものにするのかなって思っていただけ」
「そう。私、料理は慣れていないからあまり難しいものは自信がないの。だから作りやすいって勧めてくれたカレーがいい」
「そっか」
凪沙の昼食模様を考えるとあまり料理はしていなくても不思議ではないと思えた。切って炒めて煮るだけのカレーなら失敗する方が難しいからどれだけ凪沙が料理をしてないとしてもなんとでもなるだろう。
もしかしたらこういう慣れていないことをやっていくことが「やりたいこと」なのかもしれない。死ぬ前にやっていないことを減らして少しでも未練を残さないようにするために。
引っかかるのは映画を見た時は、見たことよりもその後話していることの方が重要だと言ってたことと、花火を見た時もそれ自体より花火を綺麗だと言ったことの方が大切そうだったことだ。それらは未練とは関係無いように思える。
今回の料理に凪沙は何を求めているのだろうか。今までと同じように料理をするということそのものはあまり肝心ではないのかもしれない。料理をすることによって副次的に得られる何かを凪沙は求めている気がする。それは一体何だろう。
そんなことを考えながらスーパーまでの道を歩いた。答えはもちろん出なかった。
凪沙に続いて入った店は立地のせいなのか俺の知っている価格よりも全体的に高かった。
魚なんかは鮭三切れ一パックで頭にあった価格がこの店では一切れと同じだったり、野菜もトマト五個の一パックで値段はあまり変わらなくても大きさが全然違ったり、間違っても俺には普段使いはできそうにない。
よくおすすめ商品の紹介と共に流れている軽快な音楽はここでは鳴っておらず、静かな落ち着いた曲が店全体に鳴っている。
その店内をかごを持って凪沙と並んで歩く。
今では野菜とか肉とかをより綺麗に見せるような照明がスーパーでは広く使われるようになっているらしい。この店も使っているのだろう、どれもが色鮮やかでおいしそうに見える。野菜はそれぞれの色が際立つように映し出され、肉や魚もどれも捌きたてのような綺麗な色を見せている。
目がチカチカしそうになる店内を周りながら凪沙に問いかける。
「カレーに何入れる?」
「基本はジャガイモとにんじん、タマネギとお肉だと思うのだけれど、他に何かあるの?」
「この時期ならジャガイモの代わりにサツマイモにしたり、カボチャとか茄子を入れるのもいいね。あとは肉を何肉にするかも考えないと。凪沙は何か苦手なものとか嫌いなものある?」
そう聞いてみて、そういえば今まで凪沙の好き嫌いについて話をしたことがないと思い出した。
食べ物はもちろん例えばスポーツとか色とか趣味とか、そういう基本的なことを。知る必要がないから聞いてこなかったけれど、もっと凪沙の深い部分を知り始めているのに単純な事を何一つ知らないのが少し不思議な感じがした。
凪沙はそうね、と頷いてから口を開いた。
「嫌いなものは産んだ人達」
「えっ」
意図しない返答に思わず顔をしかめる。
凪沙の口は止まらない。
「名字、家柄、他人、社会、世界、全部まとめて嫌い。私自身も嫌い」
「……あの、食べ物のこと聞いたんだけど」
「分かってるわ。冗談だからそんな顔しないで」
平然と続けられておずおずと言うと、いつもの顔で返された。冗談と言っても嫌いだと言ったものは本心で言ったのだろう。真顔で言われた分余計に冗談には聞こえなかった。そこに凪沙自身が入ったのは少し意外だった。
視線を前に戻した凪沙は「苦手なものは苦いものよ」と付け足した。コーヒーに結構な量の砂糖を入れていたからそれは分かっている。ならコーヒー飲まなくても良いんじゃないかと後から思ったけれど言わなかった。
「そうだったね。なら好きなものは?」
「好きなもの……」
凪沙は言葉を詰まらせて黙り込んだ。
「無いなら無いでいいから」
「待って」
凪沙は顔を上げて辺りを見回し始めた。待てと言われた俺は一先ずその様子を見ながら待つ。そのまま探し回るように歩いていると、「あっ」小さくこぼした凪沙は近くまで行って指さした。
「クッキー。これはきっと好きな方」
「きっと? 今考えてなかったか?」
「そんなことないわ。忘れていただけよ」
「クッキーを?」
「そう、クッキーを」
クッキーを忘れるって言葉に信憑性はなかった。サクサクした甘いお菓子、とでも覚えていたのだろうか。そもそも行動も言い方も不自然すぎる。本当は大して好きじゃないのだろう。
凪沙は調子を崩さず「あともう一つ」と小さく言って見てきた。
「ん?」
「カレーは好きになれると思う」
「今は好きではないんだ」
「そうね。まだ好きじゃない」
「そうなんだ」
やっぱり言い方が引っかかる。まるで存在だけ知っているけど食べたことないものを実際に食べてみたら好きになれるかもしれないと期待しているみたいだ。
「そういえば、カレーの具材以外に買っておきたいものがあるの」
その言葉に着いていくと飲み物とお菓子のコーナーの間にある通路に入った凪沙は見慣れたエナジーバーの黄色い箱を二十個かごに入れた。その分の重みが右腕にかかってきた。
「そろそろ買い足しておかなきゃ無くなりそうだったの」
「そうなんだ。そういえば凪沙って普段何食べているの? 学校じゃこればかりだけど」
「家でも同じよ」
「家でも?」
その答えにゾッとした。成長盛りの女子高生がいつからかずっとこんな食生活をしているというのは生理的に受け付けられなかった。ダイエットだとしても過酷すぎるだろう。
平然と凪沙は頷いた。
「これと野菜ジュースも」
「……それだと栄養取れないだろ」
「そのためのエナジーバーなのよ。それにサプリも飲んでいるから大丈夫」
「大丈夫ではないだろ。両方ともあくまで補助食品なんだから一食だけならそれで良いかもしれないけど三食はダメだろ。お腹も空くだろうし」
「量は慣れたから大丈夫よ。食事なんてお腹が膨れて最低限の栄養が取れればそれでいいでしょ」
「だとしてもちょっと心配なるよ」
そう言ってから後悔した。何が心配なのかと胸中で呟く。凪沙が死ぬことを前提にしている俺にそんなことを言う資格も権利もない。偽善以外の何ものでも無かった。なぜそんなことを言ってしまったのだろう。嫌悪に陥っていると凪沙は「ありがとう」と短く言った。
「でも私、あまり食事が好きじゃないからどうだっていいの。食べることで生きていればそれで食事の意味合いとしては正しいでしょ?」
それはそうかもしれない。ただ命を継続していくためだったらそれは間違っていない。効率の問題からすればいいのだろうとさえ思える。それにもうすぐ死ぬのだからなおさら食にこだわる必要も無いのは当然と言えた。
「安心して、今日は楽しみなの。家で誰かと料理して食べるのは初めてだから」
そんな寂しい響きを口にした凪沙は薄く微笑んでいた。
「ならよかった」返した俺はなんとなく目を合わせられなかった。
「後でちゃんと返すから」
スーパーを出てしばらく歩いた俺は左右の袋の重みを感じながらもう一度言った。
対して凪沙は「本当に大丈夫」とよそ事のように言い返してくる。
それでも、具材の支払いを任せてしまったのは俺としてはどうしても気持ち悪かった。立場は子供とはいえ中身は一応大人なのだ。事情はあれど大人である以上は子供に食費を払わせるというのはやはりいい気はしない。
そればかりか、その子供の金の出所も実際はその両親からだ。俺からすれば会ったこともない第三者からその本人達の意思なく金を支払わせてしまっている状況になっている。それはどうしても納得いかない。遠慮とかではなくて社会的価値観からしてよしと出来ない。
エナジーバー二十箱分と野菜ジュース二十四本分は厳しくても、二人分のカレーの具材程度なら高校生現在の小遣いからでも出すことは出来たのだ。もちろんそのお金だって俺の両親からもらったものであるのだから偉そうなことは言えないけれど、凪沙の両親から出してもらうよりはいくらかマシに思えた。
どっちにしろ俺が稼いだ金ではないと以上ストレスは感じてしまう。それでもどうにか少しでもそれを和らげたかった。
「私のやりたいことに付き合ってもらっているのだから史仁君に出してもらうわけにはいかないよ」
「そうかもしれないけど」
言いたいことはそこではない。子供同士、大人同士ならそこまで気にならなかったこともこうなってしまうとどうしようもない不快感になって襲ってくる。こうなるなら戻ってきてすぐバイトか何かやっておけばよかった。
でもそれは本心だろうか。もう一人の自分が顔を出した。
そんなことをして何の意味があるのだろうか。そんな偽善に価値はないだろう。
どうせあと二ヶ月程度で死ぬのだから、いくら今気持ち悪く思おうがすぐにそんなことどうでもよくなる。たかだかあと六十日精神衛生を保つためだけに凪沙以外の事を考えるのも馬鹿馬鹿しい話だ。
今やっていることだって凪沙の言うとおり、彼女のやりたいことを手伝っているだけで元々俺の目的のうちには入っていない行動だ。それも自殺に関係しているというから協力しているだけであくまで凪沙が勝手にやっているに過ぎない。だから気にする必要は無いはずだ。
そう言い聞かせていくと嫌な感覚は少しずつ薄らいでいった。人としては最低だろう。
でも別に俺は良い人になりたいわけじゃない。善人になることが目標ではなく、ただ死ねればそれでいい。そのために凪沙を利用しているのだから、その両親の金を利用しようが当然の話だ。
自分の胸で唱える。落ち着かせるように、静かに何度も、ゆっくりと。
一時の気持ち悪さなんて忘れてしまえ。死ぬ俺には関係無い。どれだけクズだろうがそれでいい。
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