第十二話:特別なんていらない



『瓦礫の海に浮かぶ月』の上映はまだまだ続いていた。上映から約一月半が経っていることと月曜の六時帯という時間のおかげかほとんど人はおらず、中央後方の席で快適に見られている。


 俺は凪沙が自分を重ねたかもしれないヒロインを見たくなってもう一度来ていた。そう意識して見てみれば何もしないよりはヒントを得られるかもしれないという期待だった。


 シーンは女子高生の殺し屋茅峰梓と、その担任教師であり要人のボディガードをしていた渡良瀬迅が四度目の戦いに入ったところだった。

 直前までの戦闘で画面を覆っていた土埃が晴れると、スクリーン一杯に膝をついて両手の銃を構える少女、茅峰梓が映し出された。胸元には日本刀が突きつけられていてその持ち主をにらみ返している。


『頼む。これ以上殺さないと言ってくれ。誓って銃を置いてくれ』


 男の台詞と共に切り替わった画面には彼女と向き合いながら両手で日本刀を構えた渡良瀬迅の姿が現れる。その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。


『そうすればなんとか茅峰の安全は取り付けてみせるから』


『先生の力を借りなくても私は逃げ延びてみせる。だから止めないよ』


『無理だ。俺の方が速い。それに君は脚を怪我している。逃げられないさ』


『でも先生には私を殺せない』


『……頼む、茅峰』


 梓の言うとおり迅には彼女を殺すだけの覚悟がないのだろう、迅は堪えるように奥歯を噛みしめて見つめ返した。


『俺は君に人を殺して欲しくないんだ』


『あいつらは先生とは関係ない人達のはずだよ』


『そういうことを言っているんじゃない!』


 殺すことしか頭にない梓には迅の言葉は曲解されて届く。


『俺は君みたいな女の子に人を殺して欲しくないだけなんだ!』


 だからこその正直な迅の心の叫びだった。愚直な真っ直ぐな彼の思いだった。

 それでもその言葉は彼の愛刀の代わりに梓を傷つけることになる。


『先生に何が分かるの! 私は殺ししかないのに!』


『どうして――』 


 初めて見せた梓の鬼気迫る表情に怯んだ迅が問いかけようとした瞬間に『スクードC、何をしている! 早く捕らえろ!』迅の仲間が姿を現して彼に銃すら向けて叫んだ。


 この後、言葉を交わして捕らえるのを躊躇した迅に造反の容疑がかかったことで、迅は梓と共に逃げることになる。梓を置き去りにすればその後彼女がどんな扱いを受けるのかは想像に難くない。そうして二人はなんとか逃げ延びて話は続いていく。


 このシーンを、正しくはここの迅の台詞を凪沙は嫌いだと言った。

 殺す事しか知らない梓にとって殺しとは生き方、そして自分自身そのものであるのだからいきなりそれを止めろというのは人格否定と共に死ねと言っているようなものだ。例え迅に悪意はなくても『君みたいな女の子に人を殺して欲しくない』という言葉は間違いなく梓と言う存在を否定している。


 そう頭に入れて見直すとなるほどと思えた。一度目見た時はそんなところまで考えていなかったから単純なすれ違いのシーンだと受け取っていたけれど、そのすれ違いの中に「助ける」と言っておきながら「死んでくれ」という意味合いの言葉を向けてしまった迅の罪があったのだと納得できた。


 一度見ただけでそこまで読み取った凪沙の読解力に驚きながら、同時にその瞬間の梓に彼女が何を見ていたのかに意識を向ける。

 梓が自身と生き方を否定されて傷ついたことに同情した。ということは凪沙にもそういう瞬間が今まであったと言うことだろう。ならその否定された生き方とはなんだろうか。そしてそれはどうやって否定されたのだろうか。


 大した情報があるわけではないながら分かっていることをつなぎ合わせていく。

 女優と元オリンピアンの娘である凪沙は誰がどう見ても特別と言いたくなるような少女だ。


 そんな彼女の生き方は、多忙故か両親からの愛はあまり受けられずそして他人とも距離を置く生活をしている。高校からではなく中学の頃からもそうだったとなるともっと前から、つまり小学生の頃からそうしていた可能性もある。


 そしてその距離を置く理由はほとんどの人に対しては『人形』になるからでそれは凪沙がコントロールできることではなく、凪沙と話す人が無意識的にそうしている。そうなると人形という言葉によって凪沙の感情を否定しているのかとなるけれど、それは花村達と話して違うだろうと結論づけられた。


 では何が彼女を否定しうるのか。それは『特別』と言う言葉だろう。凪沙が異常反応示したあの言葉。それが正しいなら特別という言葉で否定されたものはなんだろうか。特別ではなかったとするなら彼女の人生は普通だったとでも言うのだろうか。

 そう考えるのは流石に苦しい。良くも悪くも凪沙の状況は普通じゃない。


 花村や雄斗の言った通り入月家という家柄や容姿と才能という特別性はどう言葉を濁してもぬぐえない。そして同時に愛を与えられることがなかったという特殊性もまた彼女にはつきまとっている。


 凪沙自身、入月の娘だということが嫌だと嘆いていた以上、凪沙も自身の特異性は分かっているはずだ。なら特別という言葉で否定されたのは、そういう彼女の育ってきた環境に対してじゃないということだろうか。


 何をもって普通や特別を区切るのかは難しい話ではあるけれど、凪沙に関しては幸か不幸かはおいておいて普通ではないことは一つ前提になる。


 普通の生き方というのはそう、例えば俺の人生みたいなものをいうはずだ。といっても俺も自分の人生しか分からないから本当にそう言えるのかは分からないけれど。

 ……いや待て、俺の人生は本当に普通といっていいのだろうか。ふと違和感を覚えた。


 普通の人生を歩む人は自殺なんて終わりに行き着くのだろうか。

 愛に囲まれて育ちながらやりたいことを見つけて打ち込んで、大人になれば就職して段々と活躍していく。その中で恋人を作って結婚して子供を産んで愛を込めて育てて、いずれ来る定年で円満退職して孫と会うのを楽しみに待つ。その後は細々と趣味を楽しみながら配偶者と穏やかに暮らしながらいずれ静かに死んでいく。


 子供の頃に思い描いた普通の人生は、そして自分が進むと期待していたのはそういう人生だったはずだ。自分の居場所を作れることが普通で、寿命で死ぬ事が当たり前だと思っていた。


 でも実際はどうだったか。

 流れだけで見れば就職までは順調だった。一度も挫折らしい挫折もなく職までありつけた、ほとんどの人が考えるであろう普通の道を進んでいた。


 しかしその先で道を踏み外した。いや、進める道をそれまでの自分が作っていなかった。やりたいことを見つけられずに流されるままに大人と言われる年齢になっていたことで責任感だとか経験の積み重ねとか、そういう成長過程で普通に獲得すべきものを持てなかったから。


 そうなってしまったから「はい」と頷き「すみません」と頭を下げればそれで許されるだけの仕事をするしかなくなっていた。別に俺じゃなくたって他の誰だって出来る仕事とは呼べない役割をこなしていくしかなくなっていた。


 次第に朝早くから始めり夜まで続くその作業は趣味のない私生活の中にまで浸透し始めて生きる活力を奪っていった。焦燥感と劣等感、そして疎外感。それが自分の居場所を見失わせて最後は手首を切って人生は終わった。


 誰のものかも分からないような、コンビニ裏のゴミ袋を漁ればいくらでも出てきそうなくだらない人生。代わりはいくらでもいて自分じゃなくても成り立つような人生。

 それが普通というものなのか。俺は悪い意味で普通だとは言いたくない。


 しかしもし俺に否定されるべき生き方があったとすればそういうものだ。仮にその人生が否定されたとして、果たしてそれは俺の生き方が否定されたと言えるのだろうか。俺は何を否定されたことになるのだろうか。


 そもそも中身が俺じゃなくても成り立つのなら、俺が否定されたことにすらならないのではないか。別に俺の顔をした存在であれば誰だってあの仕事は成り立つものであり、私生活だって別段何かしていたわけでもない。ならあの人生は本当に俺のものだったのだろうか。


 いや、確かに俺のものではあったか。それを否定してしまったら惨めさの中で自殺したことも無かったことになってしまう。俺が虚無な俺を作り上げた以上は結果的に俺じゃなくてよくなっても中にいるのは俺でしかない。自業自得とはいえ傷ついた俺がいるのは間違いないのだから。だから、否定されるなら一応俺ではあるのだろう。


 そんな自分じゃなくてもいい代わりはいくらでもいる、いつだって誰とでも代われそうな人生。

 やっぱりそれは普通の人生とは言いたくない。普通の人生を歩みたくても歩めなかった俺の意地として、俺の歩んだ三十年間を普通と名付けたくはない。


 ただその人生に何か、聞き覚えがある気がした。最近聞いた気がする。この映画での台詞でそんなものはあっただろうか。

 いや違う、もっと身近なものから、人から聞いたはずだ。

 それは……?


「あっ……」


 声が出そうになってすんでの所で抑える。

 最近とか身近とか、そんなレベルじゃない。こんな人生の終わり際の際みたいな思考回路をたどれるとするなら一人しかいないだろう。


 体育祭の後、凪沙が言っていたじゃないか。

 特別だから、こうなった。代わりにやってくれさえすれば私は死んでいたって構わない。私じゃなくても構わない人生。それでよければ入月の娘になってよ。今すぐにでも代ってよ、私と、と。


 頭の中で何かが白く弾けて光った。

 凪沙も同じように悩んでいるのか。顔さえあれば中身は誰だって構わないということに。

 ……いや違う。それでは足りない。

 中身がよく分かっていないなら梓みたいに生き方が否定されたことにそこまで自分を重ねられない。凪沙は俺とは違って自分自身の中身をしっかり持っているはずだ。

 それはなんだ? どうやって否定されている?


 そう、「特別」と言う言葉が彼女を苦しめているではないか。雄斗の花村も変わらずに、常にそういう目で凪沙を見ている。

 それこそが、その視線を感じることが彼女の否定に繋がっているとしたら凪沙の言う『人形』は入月の娘という顔であり、『特別』が否定したのは凪沙の心の内――おそらく普通でありたいと願う彼女の想い、人生そのものということか。


 特別という言葉は、凪沙の嫌う両親と同一視されるのが耐えられないからそう言われたくないのだと思っていた。でもそうではなくて、個人で見ればどこにでもいるような女子高生であるはずなのに、周りは入月という特別な名字ばかりを見て自分の本質を見てもらえないという空しさに繋がっていたのか。


 それが凪沙が学校の中でも居場所を作ろうにも作れなかった理由なのだろう。本当の自分を認識してくれない人の中では心地よい居場所だと思えるところも作れそうにない。


 繋がってしまえば簡単なことだった。それでも俺たちみたいな特別な家柄ではないありふれた家庭に生まれた側には理解できない悩みだ。俺たちからすれば凪沙が特別であることが普通でも、凪沙からすれば勝手に特別というレッテルを貼られているだけで、自分は普通だと思っているのだろうから。


 少なくとも死の際にまで脚を踏み入れないと頭の悪い俺ではたどり着けなかった。悪い意味で普通から逸脱してようやくその気持ちが少しくらいは理解できた。

 一つの気付きであっけなく繋がったことに安心したのかはたまた嬉しいのか力が抜けて、椅子に深く沈み込む。映画は残り一時間ほどある。


 その画面を眺めながらふと思った。

 花村や雄斗は知っているのだろうか。凪沙がコーヒーに砂糖を大量に入れることを。映画館の椅子がふかふかするからと眠くなる事を。花火が綺麗だからと手を伸ばしてしまうことを。


 いやきっと知らないんだろう。

 頭にある特別視が凪沙の中身の見え方をねじ曲げさせて人形にして、凪沙も本来の彼女を見せようとは思えなかっただろうから。


 それが互いに悪循環を生み続けて凪沙を孤独にしていたのだ。もしどちらかが少しでも歩み寄って働きかけられれば変わっていたかもしれないのに。

 でもそうなるとどうして凪沙は俺には色々伝えようとしてくれているのだろうか。俺の視線によっては人形にならずに、普通の女子高生としての自分を開示してくれるのだろうか。


 その答えは俺には分からなかった。

 それでも凪沙への理解が進んだことでまた一歩死に近づいたのならそれでよかった。



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